車とラズベリークッキー



「これからがいろいろと大変かと思うけれど…本当に?」
「はい。今度は自らの意思で選ぶのです。ディアナ様の御名を汚しませんよう、精一杯努力いたします。」
「…感謝します、キエル・ハイム…」
「ディアナ様こそ、お体をおいといあそばしませ。」

 総てが終わり、ディアナ・ソレルと相談して、キエル・ハイムではなくディアナ・ソレルとして生きることを決めたとき、覚悟はしたつもりだった。
 いや、それ以前にディアナと入れ替わり、女王としてディアナカウンターへ連れて行かれてしまったときに、覚悟を決めざるをえなかった。
 これがずっと普通だと思っていた自分たちの生活が、かつてははるかに進んだ文明を持っていて、それ故にホワイトドールによってリセットされてしまったなどとは、夢にも思っていなかった。
 もしあのようなことがなかったら、自分たちも月の住人たちのような暮らしをしていたのだろうか。
 初めて会う人々、見たことのない材質でできた建物、どこをどうすると何が起こるのかよくわからない機械、それらの中にいきなり放り込まれて、必死に不自然にならないようにディアナを演じていた自分は、今更ながらすごい度胸があったものだと思う。女王として気丈にふるまわねばという思いと戦争の緊張があったからこそ、なんとか乗り切れたのかもしれない。
 身近な機械の操作は、適当に触っているうちになんとか覚えた。
 未だに仕組みはわからないが、少なくとも女王の側にあるものが、スイッチを押したくらいで爆発したりはしないだろうと、あれを押したりこれを押したりしていたものだ。
 だからハリーなどごく一部が、このディアナが本当はキエルなのだと知っているという現在は、かえって楽だとも思えた。
 今は知らないものが出てくれば、ハリーがさりげなく教えてくれる。
「ディアナさ…」
「誰もいないところでは、キエルとお呼びください、大尉。」
「……は…」
 女王という立場にあって、誰の目も耳もない場所など、ごく限られている。そんなところで忠実な親衛隊長にそう言うと、赤いゴーグルの向こうで少し困ったような顔をする。
 そして周囲を見回してから、ごくごく小さな声で、
「…キエル。」
 そう呼んでくれる。
 どんなときでも女王と親衛隊長という態度を崩そうとしないのは、ハリーなりのけじめだとわかっている。そのけじめを忘れてしまっては、総てが崩れてしまう気がするのだろう。そんなハリーに微笑を投げ返し、
「ディアナ様は、自動車の運転がお好きだと聞きました。ですが…私は運転というものをしたことがありません。」
「確か、ロランはあなたの家の運転手をしていましたね。」
「ええ。この先もし自動車に乗らなければならない場合があれば、困ります。ですから、動かし方を教えていただけませんか?」
「そうですね。ではそのように計らいましょう。」
「よしなに。」

 白の宮殿の広い庭園の小道を、ぎくしゃくと走る車があった。
「もっとリラックスなさってください。アクセルを踏む足がそんなに震えていては、咄嗟にブレーキも踏めません。」
「えっ、あっ、はいっ!」
 アクセルとブレーキとハンドルさえ制御していれば、あとはオートマティックで動いてくれる。とはいえ、いきなり生まれて始めての運転をするのはたいへんなことだった。
「カーブの手前で減速して…きゃあ!」
「ご無礼!」
 うっかりブレーキとアクセルとを踏み間違え、ハリーが隣から慌ててハンドルをとって脱輪せずにすんだ。
 やっと車を停止させたキエルは、ハンドルに寄りかかって大きく溜息を吐いた。隣でハリーも密かに胸を撫で下ろしているのがわかる。
「む、難しいものですね…」
「慣れれば、どうということはありません。月の車は制御装置ででものにぶつかる前に止まるようになっていますから、安全性は高いですよ。」
「飛行機や機械人形を運転できたロランやソシエが、実はすごいのだとやっとわかりました…」
 キエルは自分で動かす乗り物は、自転車くらいしか乗ったことがなかった。それが自分よりもっと高貴な身分にありながら、車どころか宇宙船まで操縦してみせるディアナの行動力につくづく感心する。
「ディアナ様は好奇心のお強い方であられますから、何にでもすぐに挑戦なさったのです。」
「私もがんばりますわ。」
「時間はいくらでもあります。焦らずにどうぞ。」
 で、とハリーが言う。
「このまま、ご自分で運転して戻られますか?」
「い、いえ…今日は大尉にお願いいたします。」
「承知しました。」
 運転を代わってもらい、今度は助手席から運転するハリーを見る。
 そういえば地球で乗っていた車の運転席は馬車のように外にあり、自分たちは運転する姿を見られなかったものだ。そして月に来て文化を学ぶために見ていたテレビや本で、運転席と助手席に恋人同士が仲良く乗ってドライブをしたりすることも知った。
 ハリーと二人で、狭い車の中にいる。二人だけでこの時間と空間を共有していると、気分がいい。
 そんなことを思い、キエルはふと微笑んだ。
 ハリーはキエルと違って、助手席から感じる視線に振り向く余裕もある。
「何か?」
「いえ…自動車に乗るのは、いいものだと。」
「はい。」
 キエルが何を指してそう言ったかに気づかないで生真面目に応えるハリーに、よけいに笑みがこぼれる。
「大尉、ちょっと寄り道していただけません?お池が見たいのです。」
「御意のままに。」
 ハンドルを切ると間もなく広い池が見えてきた。
 キエルは窓を開け、流れ込む風に豊かな金の髪が煽られる感覚を楽しんだ。

 厨房から続く廊下に、侍女たちが悲鳴のような声が響いた。
「へ、陛下!御自らそのようなことを…!」
「騒ぐでない。地球で覚えたのだ。」
 悪戯っぽく笑うその手には、焼きたてのクッキーが乗った皿がある。
 部屋に戻ってから、小さな袋に入れてリボンで口を結ぶ。
 それを何度目かの自動車教習に、持って行った。
 運転はまだ車がふらついたりするが、さすがに大分慣れてきた。
 そんな一通りの教習を終えると、ハリーに運転を代わって池まで行くと言うのが、いつの間にか習慣になっている。
「大尉、いつも教えていただいているお礼です。久しぶりに作ったのですけれど、お口にあいますかしら。」
 キエルがかわいらしい袋に入ったクッキーを差し出すと、ハリーは驚いたような顔をして、それから恐縮したように受け取っていた。
「これは…道理で先程からおいしそうな匂いがしていると思いました。ありがたく頂戴いたします。」
 袋からラズベリージャムが乗せられたクッキーをつまみ、早速一口食べる。
「お世辞抜きで、おいしいです。」
「よかった!いろいろおできになるディアナ様と違って、私にできることはこれくらいですもの。」
 嬉しそうな声をあげるキエルから慌てて視線をはずし、もう一つクッキーを口に運んでから、ハリーはわずかに照れたように微笑んだ。
「これは充分、あなたの素晴らしい取り柄のひとつかと思われます。」
「ありがとう。おだてられると、調子に乗ってまた何か作って味見させますわよ。」
「光栄です。楽しみにしております。」
 決して公にはできないけれど、このささやかな幸せがあればこそ、女王としての厳しい道を歩んでいけるのかもしれない。
 キエルは大事そうにクッキーを食べる男の横顔を眺め、幸せそうに微笑んだ。


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