あの日、突然現れたバルドル・フリングホルニという「恋人」と過ごすようになって、早や二ヶ月。 はじめは戸惑っていた結衣だったが、訳がわからないほどにどうしようもなく彼に惹かれ、彼と一緒に過ごせることに喜びを感じるのにそう時間はかからなかった。 年齢イコール恋人いない歴だったはずの結衣が、春休みの間にいきなり彼氏―しかも外国人のとんでもない美男子―を作っていたものだから、あかねと慶子には大層怒られた。 「いつの間にどこでこんなイケメンと知り合ってたの!?」 「え?恋愛?何それおいしいの?だったくせに、裏切り者ー!」 好意を含んだ罵声を浴びせられながらも、その返答に窮する。 神様に招かれた世界で出会いました、なんて… 自分でも意味がわからないし、トチ狂った妄想としか受け取ってもらえない。 しかしそこは、バルドル本人が居合わせた時に、 「一年前に偶然会った結衣にいろいろ教えてもらってね。わたしが一目惚れしたんだよ。」 と笑顔で答えてくれ、あかねと慶子に 「爆発しろこんちくしょー!」 とほっぺたを引っ張られたり押し潰されたりしたものだ。 そんな怒涛の展開でようやくというか降って湧いたというか恋人がいる生活が始まったわけだが、こちらは高校三年の受験生と言うこともあり受験勉強をしなくてはならないため、デートと言うより一緒に勉強をする方がメインになっている。 バルドルは母国で英語も使っていて医大生であることから、英語や生物の勉強を見てくれることになった。 おかげで、受験生のくせにデートだなんて…などという後ろめたさを蹴飛ばして堂々と会えるようになった。 デートと勉強とどちらが目的か曖昧ながらも、熱心に教えてくれる親切心に応えたいという気持からか身が入り、憂鬱だった受験勉強も楽しくなってきたのだから、良いことづくめというものだ。 今日は新緑の木漏れ日が心地よい天気だったため、公園に繰り出して木陰のベンチで勉強していた。 ヒアリングの勉強用の音源テキストもあるにはあるが、バルドルが読み上げてくれる方が耳に心地よい。公園の雑踏の中でも一言一句聞き逃したくなくて自然と集中し、聴き入ってしまう。 一通り、今日やろうと決めていた範囲まで終えると、結衣は大きく伸びをした。 「だいぶ聞き取れるようになったね。」 「ありがとうございます。でも発音がてんでだめなんですけどね。」 推薦を狙えれば楽なのだが、まだやりたいことが決まっていないし…と溜息を吐いた。 「…いつも思いますけど、アイスランド語とデンマーク語と英語と、おまけに日本語まで話せるなんて、どんな頭してるんですか?」 英語ひとつに四苦八苦している我が身を思えば、多国語を扱うバルドルがそれこそ神様に見える。 「母国が普通に三か国語使うからねえ…日本語はあなたに会うために、子供のころから頑張って勉強したんだけど。」 「はあ…普段の生活で三か国語なんて、私だったら絶対混乱しちゃいます。」 「日本語なんて、ひとつの言葉なのに平仮名と片仮名と漢字があるじゃない。漢字もいろんな読み方があるし、こっちの方がずっと難しい。」 ほとんど訛りもなく日本語を流暢に話すバルドルだが、それでもときどき間違えているところもある。 未だに「詫び寂び」と「わさび」の区別がついていないところは御愛嬌だ。 むしろそのくらい間違えてくれないと、こちらが劣等感に押し潰されそうになるのだが。 「で、でもおかげさまで、この間の中間試験は結構できたんですよ。」 「ふふ、よかった。あなたにはいろいろなことを教えてもらったからね。少しでもお返しできると嬉しいな。」 殊の外嬉しそうな笑顔がこぼれ、微笑み返そうとした結衣の胸に針を飲んだような痛みが走った。 ―…覚えていない。 神が作った箱庭に呼ばれ、バルドルを含めた神々に一年間いろいろなことを教えてきたそうだが、その記憶がない。 そうと聞いても嘘ではないのだと思わせる何かが胸の奥にあるとわかるのに、その「何か」を思い出せないことが何よりも辛い。 こうして一緒に勉強しているときも、ふと既視感を感じたりすることがあるが、そこで止まってしまう。それ以上が続かない。 神々と過ごした楽しかったり大変だったりした日々を、今目の前にいるこの人と育んだ愛を… 思い出せない。 「…結衣?」 声をかけられ、はっと我に返ると、心配そうにこちらを覗きこむ冬空のように澄んだ青い瞳があった。 「あ、ご、ごめんなさい!」 ぼーっとしてしまって…と言いかけた声がきゅっと喉に詰まってしまい、声が出ない。 戸惑う結衣の頬をバルドルの大きな掌が包んだ。 「泣かないで。」 言われてようやく、自分が涙をこぼしていたことに気付いた。 「どうしたの?あなたが悲しむ姿を見るのは耐えられないから、話してほしいな。」 指先で涙を拭われたが、その長い指に次々と涙が零れ落ちた。 「だって…」 涙で、目の前の美しい人の顔が滲む。 「思い出せないんです…!あなたとの記憶…思い出も…確かに知ってるはずなのに、何も思い出せない…!」 バルドルは何度も箱庭での思い出を話してくれた。 彼の思い出の中には、確かに結衣が存在していた。 それらの思い出は結衣の胸にぽっかり空いた穴にも、パズルのピースのようにぴったりとはまっていった。 バルドルが何度も愛を囁いてくれた相手は、間違いなく結衣であった。 それなのに、肝心の結衣自身が何も思い出せない。 バルドルはわかっていると笑ってくれているが、どこか寂しさを感じるのは気のせいではないはずだ。 胸の奥が、頭の芯が痛み、苦しくて心が千切れそうになる。 「そんなの…そんなのいやですよね…?どこでどうやって出会ったか、どうして好きになったかも覚えててくれないなんて、バルドルさん、きっと嫌いになっちゃいますよね…」 自分で何を言っているかわからなくなってきた。 自分はきっと、この人を傷つけている。 そう思うと胸が張り裂けそうになる。 子供のようにしゃくりあげる結衣を抱き寄せ、優しく髪を撫でる。 「ごめん、あなたを苦しませてしまっていたんだね。心配しないで。わたしがあなたを嫌いになるわけがないよ。それに、あなたはちゃんと覚えていてくれているじゃない。突然現れたわたしを、こうして受け入れてくれた。それだけで充分すぎるほど幸せなんだよ。」 卒業を迎えたあの日、時と次元の彼方に永遠に引き裂かれる直前にこれが最後と抱き締めた最愛の少女が、今こうして自分の腕の中にいる。 結衣に会えず触れることもかなわない悲しみの中で、ついに体を蝕んでいた病に斃れた。そして最後の力で記憶を保ったまま彼女の世界に転生し、ただただ結衣に会うために今まで生きてきた。 その願いが、想いがやっと叶った。 これが至上の幸福でなくて何なのか。 「一緒にいられさえすれば、思い出はこれからいくらでも作れるでしょう?一年どころじゃない、今この瞬間も、これから先ももっともっと長いこと…」 あなたが一緒にいてくれればの話だけど、と艶やかな黒髪に唇を落とすと、結衣ははっと顔を上げ、 「います…いたいです…一緒にいさせてください!あんな想いをするのはいやなんです…もう、私を置いて行かないで…!」 胸の奥底から一気に噴き上がった想いが口をついて溢れた瞬間、頭の奥で光が弾けた。 眩い光に溢れた長い廊下。 重厚な扉があり、その前に自分は佇んでいる。 扉の向こうに待つのは、時間の神だ。 そして自分が見つめるのは、その扉の向こうへ消えて行く、制服のような衣装を着たバルドルの広くて寂しそうな背中… ほんの一瞬だった。 ほんの一瞬の間に、その光景が眼裏にはっきりと閃き、結衣は大きな目を見開いていた。 今の、は…? バルドルも少し驚いたような顔をしたが、すぐに破顔し、 「ほら、やっぱり覚えてる!」 「あ…」 今生の別れを目の前にして泣き叫びたいのを歯を食いしばってこらえ、最後の瞬間まで笑顔で、という彼との約束を守るため、必死に笑顔を作っていたあのとき… 確かに、覚えている。 「あのときのわたしは本当にどうかしていた。もう二度と、あなたを残して行ってしまうような卑怯な真似はしないと誓うよ。わたしは今度こそ、あなたを幸せにするために生まれたんだ。わたしが見たいのはあなたの心からの笑顔なんだ…」 だから笑って。 泣かないで。 わななく唇に、温かい唇が重ねられた。 思わず肩を強張らせたが、すぐに緊張を解いた。 知っている。 私を包むこの逞しい胸。 溢れる愛の言葉。 何度も何度もくれた、甘いキス― ―確かに、覚えてる…! 震える指が、バルドルのシャツをぎゅっと掴み締めた。
fin.
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