土間の冷たさが打ち伏した体の芯まで染み通り、己も土と化したかのように体が重く、動けない。 痛みはから熱へと変遷して体を苛んでいた感覚が徐々に遠くなり、ただただ、寒い。 朦朧とした意識の中、本丸の皆のことに思いを馳せる。 皆は今頃、どうしているだろうか。 第二部隊を率いた清光が、散歩に出るような気軽さで手を振って遠征に出かけたっけなあ。また鯰尾は馬の世話を放り出して遊んでいるだろうか。鶯丸もきっと畑の隅の木陰で昼寝をしているだろう。石切丸は長い神社暮らしで体の動きが鈍っているのを気にしているから、また鍛錬に励んでいるかもしれない。 いつもの本丸の光景が、眼裏に浮かんでは消える。 こんなことなら近侍の蜂須賀を連れて出るのだった。 刀剣に宿る付喪神、人にあらざる存在とはいえ、その身も心も男性だ。女には男性に見られたくない買い物もあるからと、せめて乱か次郎を連れて行けという蜂須賀の進言を振り切って出てきてしまったのが失敗だった。 …次郎さんは格好があれなだけで中身は普通に男の人だから何だけど、乱ちゃんでも連れてくれば…ああ、でも彼らが相手じゃ、やっぱりいない方がよかったかも… 審神者を襲い、攫ったのは検非違使だった。 歴史を改変しようとする敵とは違うが、審神者たちにも決して好意的ではない。 審神者が独りになるところをずっと狙っていたのだろうか。 何しろ、刀剣の付喪神を顕現させる能力を持つ者は、そうそういる者ではない。それぞれの戦力のために、その力は咽喉から手が出るほど欲しいはずだ。 が、今回は少々手違いがあったようだ。 抵抗しているうちにあちこち斬られた挙句に背後から刺されてしまい、ついに動けなくなったところを拉致された。 そこで彼らに手を貸すことを断固として拒んだ結果、土牢に放り出されて今に至るというわけだ。 致命傷ではないはずだが出血が多く、このままでは助かるまい。 …死ぬ? 死んでしまう?こんなところで独りぼっち、使命も果たせず、皆に二度と会えなくなってしまうなんて… 閉じられた睫毛の隙間から涙が伝い落ち、土間に染みを作る。 いやだ、死にたくない。 でも、どうすれば… 朦朧として中空に浮遊したような意識が、そこにさやさやと流れる何かに触れた気がした。 これは…気だ。 それもよく知っている、気。 冷たくて、でも果てしなく熱くて、力強くしなやかな… これは刀剣の放つ気だ。 ここは検非違使の館だから、刀剣くらい当然いくらでもあるだろうが、付喪神が宿るほどに強い力を持つ刀剣は、そうはお目にかかれない。 それに、この気を知っている気がする。 これは… …蜂須賀さん? いや、違う。 それでも、似ている。 審神者として初めて召還した付喪神で、右も左もわからぬ小娘をずっと支え、共に戦っきてくれた刀剣だ。 彼の放つ気に、とても似ている。 これはまさに、一筋の救いの光かもしれない。 闇に溶けそうになる意識を必死にかき集め、口中に祝詞をあげ始めた。 お願い、お願い…応えて… 冷たく暗い牢の天井に、祈りが昇っていった。 まんまと警備の目をかいくぐり、館への侵入に成功した。 塀から飛び降りて素早く茂みに身を隠したが、館の内はどことなく騒がしく、何故か外部への警戒が手薄になっているようだ。 それでも注意深く様子を窺いながら、蜂須賀はにっかりに囁いた。 「俺にはまだ主の気を感じられないが…本当にここにいるんだろうね?」 「さっきから僕には感じられるよ。ただ、ひどく弱々しいのが気になるね。」 にっかりの顔から笑みが消えていることが、なおのこと不安を煽る。己がまだ主の気配を捉えられないことに苛立ちを隠せない蜂須賀だったが、突然何かに叩かれたかのように顔を上げた。にっかりも同じ方向へ視線を投げる。 同時に、二人の感覚にあるものが触れたのだ。それは彼らの主のものではないが、 「ん?この感じは…」 「まさか…!?」 蜂須賀が身を隠すことも忘れて茂みから飛び出した瞬間、館の奥から金属同士がぶつかり合う音が響いた。 打刀とは思えぬ強烈な斬撃が、検非違使を叩き斬った。 「大丈夫か浦島!」 無精ひげを生やした逞しい男が、背後に呼びかけた。 「俺は大丈夫、長曽祢兄ちゃん!でもこの子が…」 元気よく応じた小柄な少年が、背に負った少女を見やる。 牢に閉じ込められていた少女を助け出したときには既に意識がなかったが、だんだん呼吸が細くなってきた気がする。 「俺たちにこの姿を与えてくれた彼女の願いを叶えてやらねば、刀としての沽券に係わる。俺が守ってやるから、お前はその娘を落とさないようにしていろ!」 なんとか薄暗く狭い牢を突破して表へ出てきたはいいが、広いだけに囲まれる危険性が出る。しかも先程から騒ぎを知った検非違使が、続々と集まってくる。 浦島も脇差を腰に差しているが、同じくらいの体格の少女を背負っていては戦えない。戦力が長曽祢ただ一人では、劣勢になろうというものだ。 検非違使の館に置かれて眠っていた自分たちを、温かな光が包んだ。 春の木漏れ日のように心地よい温かさに目を覚まし、眩い光を見上げると、その向こうからか細い手が伸ばされてきた。 ―助けて… 光の向こうから、声が聞こえた。 何故と聞かれてもわからないが、その声に強烈に惹きつけられ、形を成していく己の腕をその手に向けて伸ばしたとき、もう一度、消え入るような声が聞こえた。 ―蜂須賀さんに、会わせて… その小さな手をとった瞬間、打刀長曽祢虎徹と脇差浦島虎徹は、刀剣男士としてこの世界に顕現した。 蜂須賀。 この銘を聞いて真っ先に思い出すのは、同じ虎徹の名を冠する打刀蜂須賀虎徹。 彼に会いたいと願った声の主は、すぐ側の牢に倒れ伏していた少女だと、直感でわかった。 死に瀕しながらも蜂須賀に会いたいと願った少女の祈りを、なんとか叶えてやらなくてはならないと、次々と群がる検非違使を蹴散らしてここまで来た。 しかし、多勢に無勢。 長曽祢も既にあちこちに傷を負い、口には出さねど追い詰められつつあった。 少女を背負う弟を背中にまわし、敵に刃を向けて一定の間合いを保つ長曽祢の前に、巨大な影が立ちふさがる。 薙刀を手にした大柄な検非違使だ。長曽祢は敵を見まわし、敵の編成を窺う。薙刀の他は、脇差と鍛刀が二人。刺し違えれば浦島と少女はこの場は助かるだろうが、この先にもっと強い敵が現れないとは限らない。石にかじりついてでもこの場で折れてはならぬと、久しぶりの戦場の感覚に武者震いしながら刀を握りなおした。 その覚悟が伝わったか、浦島は緊張した面持ちで兄を見上げ、 「長曽祢兄ちゃ…」 言いかけたが、広い背中から放たれる無言の圧力に口を閉ざす。 敵の薙刀を構える腕の筋肉が盛り上がり、足がじりりと動く。 その懐に飛び込もうと、長曽祢が居合の構えで間合いを測る。 手を貸したくてもどうしようもないもどかしさに、浦島は今一度背に負う少女を振り返る。 会いたいと言ったからには、蜂須賀も自分たちのように肉体を得て顕現しているのだろうか。 それならば… …この子が会いたがってるよ…それに、俺も会いたいよ…だから来てよ…蜂須賀兄ちゃん! 長曽祢と検非違使、互いの刃が走ると見えた瞬間、薙刀を構えた巨躯が揺れた。 直後に、他の検非違使も体を大きく揺らせたかと思うと、糸が切れた操り人形のように次々とその場に崩れ落ちた。 「!?」 何事かと構えを解かぬままに倒れ伏す検非違使たちの背後を見回すと、打刀と大脇差を手に長い髪をなびかせた二人の男の姿があった。 「…あ…」 浦島の大きな目が、さらに大きく見開かれる。 「ほうらね、僕の偵察能力は確かだろう?」 緑の髪の男が笑う。 そして隣で刃の血振るいをするのは… 「蜂須賀兄ちゃん!!」 感極まって叫ぶ。 「やっぱり浦島だったか…!」 あのとき感じた気はやはりこの二人だったのだ。 驚愕の表情の蜂須賀が長曽祢と浦島の姿を見回した視線が浦島の背にある人に留まった瞬間、我を忘れて声を上げた。 「主!!」 にっかりがその肩にかけていた白装束で審神者を壊れ物を包み込むようにして浦島から受け取り、蜂須賀が紙のように白くなってしまった頬を叩きながら必死に呼びかける。 しかし審神者は苦しげに細い呼吸を繰り返すだけで、答えない。 「俺たちを召還したことで力を使い果たしたのかもしれない。」 「…っ…」 こちらに視線を馳せたもののすぐに審神者に向き直った蜂須賀に、長曽祢は目を瞬いた。 「と…感動の再会は後にした方がよさそうだよ。」 審神者を抱えたにっかりの顔から笑みが消える。 新手の検非違使が集まってくる気配がする。 「にっかり、君は主を連れて本丸へ戻れ。ここは俺が引き受けた。」 「一人でかっこつけなくても、すぐに…ほら。」 門の方向を見れば、先に偵察に入った二人に遅れて館に突入してきた仲間たちが検非違使を蹴散らしながらやってくるのが見えた。 「じゃあ僕は先に帰るけど、僕の分も刃を浴びせてくれよ。」 「ああ、主を頼む。」 行きかけながら、にっかりは長曽祢と浦島に振り返り、 「そこの二人も、僕と来なよ。」 「え…俺たちも?」 「主が召還した刀剣なら、僕たちの仲間だよ。それに主は君たちに会いたがっていたしね。」 浦島は蜂須賀を見上げるが、長曽祢に腕を引かれて仕方なく続いた。 入り口の方から駆けつけてきた太刀と大太刀たちがにっかりを取り囲み、腕の中の審神者を覗き込む。 その顔は白装束に隠されて窺えないが、純白の布に滲む血の色に、一様に怒気を漲らせる。 「おいおいおい、舐めた真似しやがって…女に手ぇ上げるなんざ、武士のやることじゃねえだろ!?」 「こりゃあ、地獄の鬼にたっぷり驚かしてもらわないとな…!」 「……赦しません。」 「兄貴がこんなに怒るの久しぶりだねえ。でもあたしもこればっかりは勘弁ならないよ!」 怒りを滾らせているところへ、遠征に行っていたはずの第二部隊もやってきた。 本丸で待機していた第三部隊から知らせを受けて、急いで取って返してきたらしい。 「うんうん、これだけの戦力がそろえば安心だね。さて、君たちは蜂須賀が乗ってきた馬を使うといい。」 にっかりは外につないでおいた馬に主を抱えて乗り、もう一頭の馬には長曽祢と、その後ろに浦島が乗ってそれぞれ馬腹を蹴った。 「心配をかけてごめんなさい…」 「主がなんと言おうと、近侍として側を離れるべきではなかった。謝るべきは俺の方だ。」 ようやく意識を取り戻して会話もできるようになった主の枕元に坐し、蜂須賀は首を垂れた。 「よもや街中に検非違使は現れないと思った私の油断です。」 「今度は主が何と言われようと、お供させていただくよ。」 「下着のお店でも?」 「……そ、それでも。あ、主が恥ずかしければ、買うものは見ないようにするから…」 微笑んだ審神者の笑みが、びり、と走った痛みをこらえるようにわずかに歪んだ。 その額や頬にも傷がある。 蜂須賀は傷に障らないように頬にそっと触れ、 「ああ、このように顔にまで傷を…」 悔しそうに呟く。主が重傷を負った責任は総て自分にあると思っているらしい真面目な近侍に、主はこそこそと布団で顔を隠し、 「あ、あの、これは…その、私が自分で…」 「え?」 「つ、捕まりそうになったとき暴れて…検非違使に頭突きしたんです…」 消え入る告白の後、沈黙が流れる。 「……それで刺されてたら世話がないじゃないか…」 蜂須賀の脱力しきった深い深い溜息に、帰す言葉もない。 検非違使も、この小柄でおとなしそうな少女がまさかそんな暴れっぷりを見せるとは思わなかったのだろう。それで勢い余って瀕死の重傷を負わせてしまったのだ。 「…まあ、主がお転婆なことはとうにわかりきってはいたけれど…」 布団を掴んでいた手を大きな手で包み込み、己が額に押しつける。 「無事で、よかった…」 心の底から吐き出すような声音に、どきりとする。 その言葉に、我が立場を改めて思い知らされる。 彼らをこの世界に顕現させたのは、自分だ。 自分の力が消えれば、彼らはまた人には見えぬ者へと還る。 刀剣たちのためにも、自分は絶対に斃れてはならないのだ。 「…ごめんなさい…」 そんな当たり前のことも忘れて油断の末に危機に陥った己を深く恥じる。 それでも… 「私…意識がなくなりそうになったとき…使命のこととか考えられなくて、ただ…もう会えなくなるのが悲しくなったんです…」 「主…?」 「…死んだら、もうあなたに会えなくなるんだって思ったら…絶対に死にたくないって思って…」 あのときの悲しみが蘇り、涙がこぼれる。 蜂須賀に握りしめられたままの審神者の手の甲に、額とは違う柔らかく温かいものが触れた。 それが蜂須賀の唇だと気づいて、心臓が跳ね上がる。 「これからは何があっても俺が守るから、もうそんな顔はさせない。…俺も、あなたに会えなくなるなど考えられない…」 いつまで経っても帰ってこない主が検非違使に捕まったらしいと知ったときの気持ちは、これまで数百年、何人もの手を渡ってこの世に在ってきた中で、初めて感じたものだった。 彼女は、これまでの主とは違う。 その手に己をとって戦うことはないという理由とは違う。 恥ずかしそうにこちらを見上げる審神者の、夜空のように深い黒い瞳を見つめる。 この使命が終われば、彼女は元の世界に帰るだろう。 どのみち、人間と付喪神では生きる世界が違う。 しかし… …我々の世界へ迷い込み、帰れなくなる人間も稀にいると聞く。ならば… 横たわる審神者の顔を影が覆い、艶やかな菖蒲色の長い髪がその頬に落ちかかってきた。 検非違使のもとから審神者が救出され、思わぬ形で長曽祢と浦島が本丸へやってきて一週間が過ぎた。 ようやく審神者の床払いが済んだとのことで、本丸に安堵の空気が流れていた。 本当はまだ床払いするには早いが、本人が無理矢理起きてしまって周りが押し切られた形だ。 長曽祢は同じ新撰組を元の主とする刀剣たちに歓迎され、浦島も蜂須賀が常々話していたとおりの人懐こさからすぐに打ち解け、今日も短刀たちと手合わせと称した遊びに夢中になっていた。 「大将がお呼びだぜ。」 審神者の治療と看護にあたっていた薬研に呼ばれ、審神者の居室へと向かう。 障子を開けると、審神者は蜂須賀に支えられるようにして脇息から身を起こした。 「この間は助けてくださってありがとうございます。改めてお礼を申し上げます。」 まだあちこちに包帯が残る姿は見るからに無理をしているのがわかって痛々しいが、助けたときには最悪の事態も予感していた少女がこうして生きていてくれたことに、胸を撫で下ろす。 審神者はまだ青白い顔に、あの日には見られなかった花のような笑顔を咲かせた。 「そしてようこそ、私たちの本丸へ。噂は蜂須賀さんから聞いていまして、お会いできるのをずっと楽しみにしていました。」 「はは、ろくな噂じゃなかったでしょう?」 「俺も兄ちゃん達に会えて嬉しいよ!」 ちらと隣に視線を馳せると、屈託のない末弟の笑顔に蜂須賀は口元を緩めている。本当に弟をかわいがっているのだと思うと、何とも微笑ましい。 が、やはり以前から言っていたように、長曽祢に対しては棘どころか全身から刀を生やしているような態度だ。 かろうじて私情と任務は別と割り切ってくれているようだが、二人をどう扱うかを思うと少々頭が痛い。 しかしそれは、彼らが自分とともに戦ってくれるかどうかにかかっている。 姿勢を正し、武骨ながら堂々と落ち着いた雰囲気を醸す長曽祢と、やんちゃで元気そうな浦島をゆったりと見回す。 「長曽祢さんと浦島くん…とお呼びしていいですか?既にここで私たちが何をなそうとしているかの話は聞いていると思います。お二人も、私たちとともに戦ってくださいますか?」 名だたる武士を主としてきた刀剣たちには、自分のような二十歳にも届かぬ小娘では主と呼ぶには頼りなかろう。 己が召還した刀剣とはいえ、断られても無理はないと思う。 審神者として召還した付喪神を強制的に使役することはできるが、彼らの意思を尊重したい。 まっすぐに見つめる審神者の瞳を見つめ返していた長曽祢は、両の拳を畳につき、 「もちろん、主と呼ばせていただこう。俺はあなたに召還ばれたんだからな。それに、あの蜂須賀が俺に突っかかることより優先するほど大事な審神者殿にも興味がある。」 「うん、俺も蜂須賀兄ちゃんがちゅーするくらい大好きな、めちゃくちゃかわいい審神者さんに興味がある!」 まだ血色のよくなかったはずの審神者の顔が一瞬で沸騰したかのように赤くなり、その脇に控えて端坐していた蜂須賀が、ごふっ、とむせた。 にやにやと顎を撫でながら二人の様子を見比べる長曽祢を蜂須賀は真剣必殺でもぶちかましそうな形相で睨むが、主を前に斬りかかるわけにもいかず、端麗な顔を真っ赤にして肩を震わせている。 「え…えー…と、とととにかく、長曽祢さん、浦島くん、ありがとうございます。これからよろしくお願いしますね。」 「ああ、贋作とはいえ刀としての力に自信はある。よろしく頼む、主。」 「兄ちゃんたちに負けないように頑張るよ、よろしくあるじさん!」 こうして、本丸にまた新たな刀剣男士が二人―
fin.
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