花嫁道中


 ひらひらと、ほんのりと薄紅色を含んだ白い花弁が、どこかから舞ってきた。
 冬を追いやりつつある春の陽射しを浴びて程よく温もった縁側に、老婆は幼い孫娘と並んで腰掛け、わずかに霞んだ空に舞う花弁を見上げていた。
「桜の季節になると、思い出すのう…」
 ぽつりと呟いた祖母を、孫娘は団子の最後の一口を飲み込みながら見上げた。
「なにを?」
「何十年も昔の…わしがまだお前のような童じゃった頃のことじゃよ。」
 幼子には、年老いた祖母にも子供の頃があったということが今一つ想像できないらしい。
 小首を傾げる孫娘に優しい眼差しを向け、
「昔、この辺りに不思議なお武家のお屋敷があってな。」
―そこには大勢のお侍に守られた、それは美しいお姫さまがおったんじゃ…


   無機質な白い壁に囲まれた、円筒形の部屋があった。
 部屋の中心には高い天井まで届く太い柱があり、その柱に沿うように、宙に投影されたディスプレイが無数に浮かんでいる。
 そのディスプレイに映るものは、一定間隔で刻まれる波形が流れていくものや、びっしりと並んだ数字が目にも留まらぬ速さで切り替わっていくもの、別の部屋を映しているらしい映像など様々だ。
 そのディスプレイが浮かぶ部屋の中心に向かって、細長い繭のような大きな物体がぐるりと放射状に並んでいる。
 繭型の物体は人一人入れそうなほどの大きさで、それぞれに何本ものチューブや配線がつながっており、部屋の中心にある柱へつながっている。また、中心部に近い方の上部に丸い小さな窓があった。
 部屋の中にいた白衣の男が、その丸い窓を除く。
 繭型の物体の中には、人間の顔があった。痩せて顔色の悪い青年の顔だ。
「…まるで棺桶だな。」
 白衣の男が独りごちた。
「全くだ。まあ、本当に死なれちゃ困るがな。」
 それに応えるように、宙に浮かんだディスプレイを指先で触れて操作していた男が笑う。
 彼の前に浮かぶディスプレイにはどこか別の部屋が映っており、細長く鈍色の輝きを放つ刀が無数の配線につながれた台の上に置かれていた。
 ぐるりと並ぶ繭型の物体の丸窓には、いずれにも人間の顔を覗き見ることができる。
 青年、どこかあどけなさを残す少女、十代半ばもいかぬような少年…いろいろな顔が見える。
 その誰もが静かに目を閉じ、生きているのか眠っているのか、はたまた死んでいるのかさえ区別がつかない。
「でも、No. 864と1563はそろそろやばそうだ。バイタルが不安定になってきている。」
「このシステムもまだ実験段階だからな。生命維持装置が働いていると言っても、実際にどれだけもたせられるかわからん。」
「若くて体力がありそうなのを選んでるはずなんだがなあ…そろそろ交換を依頼するか。候補は常に確保してあると言っていたから、そう時間はかからないだろう。」
 言いながら部屋を出ていく男の背中から、“棺桶”と揶揄した繭型の物体の丸窓へ視線を移す。
 バイタルが不安定になっていると言われた一人は、この中にいる青年だ。しかし彼の表情は全く変わらず、相変わらず静かに目を閉じたままだ。
 そんな姿を見ると良心が痛まぬこともない。が、それを追いやるだけの好奇心や探究心、出世欲を、ここで働く彼らは持っていた。
 彼は窓を指先で軽く叩いた。
「なあ、今の聞こえたか?それであんたは今、どんな夢を見てるんだい?審神者さんよ…」
 その問いに答える声はなかった。


―監視者No.K-2610 データ消去完了―
 誰もいない部屋に置かれたディスプレイに表示された小さな文字は、誰かの目に触れる前に消えていた。
 そのあとに部屋に入った者が見たのは、スリープモードに入り何も映していないディスプレイだった。

「あの、こんのすけを見ませんでしたか?」
 不安そうな顔の審神者に問われても、いずれも首を横に振った。
「昨日の夜、寝る前には会ったのですが…」
 執務室の前に座っていたこんのすけに「おやすみなさい」と声をかけると、いつもどおり「おやすみなされませ」と答えてくれた。
 そして朝になり、朝食の時間にこんのすけは現れなかった。そのときはさほど気にかけなかったが、仕事を始める時間になっても現れなかったときに心配になってきた。
 仕事の時にはいつも先に執務室で待っており、サポートをしてくれたのに。
 こんのすけは狐の姿をしているが、普通の動物ではない。そのこんのすけが伝言も何もなくふらりと姿を消すとは考えにくい。
 夜になっても姿を現さず、審神者はいよいよ心配になっていた。
 どこかで動けなくなっているのではないかと、手が空いている刀剣たちと本丸内だけでなく町に繰り出してまで探し回ったが、やはり見当たらない。
 政府へも尋ねてみようとした審神者を、刀剣たちは止めた。
「まだ一晩です。無暗に狼狽えている様子を“政府”に見せるのはいかがかと。」
 常に冷静な太郎太刀に諌められ、もう少しだけ待ってみようということになった。
 それでも、審神者はことあるごとに周囲を見回していた。

「神隠しのやり方とな?」
 三日月宗近が、たった今投げかけられた問いを確かめるように繰り返した。
 彼に相対しているのは蜂須賀虎徹。
 庭の築山の裏手にある木陰には、この二人の刀剣男士の他は誰もいない。
 人を食ったような捕えどころのないとぼけ顔の三日月に対し、蜂須賀の真剣な顔には暗く影が差している。
「…俺は未だ試したことがない。だが年降るあなたなら経験があるのではないか?」
「うむ。」
   三日月は事もなげに頷いた。
 まあ、遥か昔に一度だけだがな。と断りを入れてから、
「おまえは我らが主を“こちら側”へ引き入れようというのだな?」
 何故?誰を?などと間の抜けた問いは返さなかったことに、蜂須賀が少し救われたような顔になる。
 蜂須賀は彼ら刀剣男士の長老格にあたる三日月へまっすぐに顔を向けた。
「“政府”が主を利用しようとよからぬ企てをしているという話を、あなたも聞いただろう?」
 彼女はその類稀な霊力により多くの刀剣を作りだし、またそれに宿る付喪神を顕現させ、この世界に引き止めている。
 しかし霊力を使うということは、必要以上に体力を消耗する。何人かの付喪神を顕現させた日などは、審神者は立ち上がることすらできないほどに疲労困憊してしまう。
 政府は審神者が死なぬように最低限の生命活動を維持できる状態にして眠らせ、その霊力を吸い上げて刀剣を大量に作り、大勢の付喪神を顕現させる、ようするに兵器製造機にしようというつもりらしい。
 本人の意思も何もかも無視して強力な兵を作らせようというのだ。
 それを刀剣たちに教えてくれたのは、こんのすけだった。
 初めのうちこそ政府の代理人として審神者に彼らの意思を伝え、また監視する役目でもあったようだが、長いこと審神者と接するうちに思うところがあったようだ。
「だがそのこんのすけも、あれから姿を見せぬようになったなあ。」
 政府の計画を刀剣たちに伝えた翌朝に、こんのすけは姿を消した。
 こんのすけは、この話を審神者がいるところでは話さなかった。恐らく、こうなることがわかっていたのだろう。
 刀剣たちは政府のやり口に憤ったものの、審神者にはまだ知らせないということで一致し、審神者一人が何も知らずに今もこんのすけを探しまわっている。
「…刻がない。」
 蜂須賀がぐっと唇を噛む。
 審神者が政府と接触しようとしたときはかろうじて止められたが、こちらが出向かなくとも、近いうちに先方から動きがあるだろう。
 審神者として自分たち刀剣を率いて歴史修正主義者たちと戦ってはいるが、本来は争いごとを好まない優しい少女だ。
 かつて江雪左文字と本気で敵に和睦を呼びかけ、敢え無く失敗して落胆していたこともあった。
 自分たち刀剣が無傷で帰ってくると我がことのように喜び、少しでも傷ついて帰れば顔色を変え、重傷でも負った日には泣きながら手入れしてくれる。
 そんな彼女が自分の意思も自由も奪われ、ただ霊力を供給するだけの傀儡となって人の命を奪うものを作り出す道具にされるなど、冗談ではない。
「となれば、やはり“こちら側”へ匿うしかあるまいな。」
 自分たち付喪神が住まう世界に、人間はおいそれと入れない。まして付喪神が拒む者なら、絶対に無理だ。
 審神者を政府から守るためには、一番安全な砦となる。
「どのようにすればいい!?」
「なに、簡単なことだ。抱け。」
「え?だ…!?」
 必死の形相が一転して鳩が豆鉄砲を食らったような様子に、思わず笑みをこぼす。
「我らとのつながりが強く、深くなればなるほど境界は曖昧になる。おまえと主の心は既に結びついておろう。なれば肉体も結びつけてしまえば、もはやいかなる者も主を引き戻すことはかなわん。」
「そ、そん…っ…」
 思わず顔を赤くしてうろたえる。
 主が審神者として初めて手にした刀剣が蜂須賀だった。
 それからずっとともに過ごすうちに主従とは違う感情が心に芽生え、互いを特別な存在として意識し合うようになった。
 しかし唇を重ねたことはあっても、その身体にはまだ触れていなかった。
 自分たちを人の世界に顕現させた審神者を、神聖視しているのかもしれない。いや、それよりも人にあらざる自分が触れては、その魂までも清らかな彼女を穢してしまうのではないかと恐れている。
 だからどれほど恋い慕っていようと、未だ最後の一線を超えられずにいた。
 そんな蜂須賀の葛藤を見透かしているのか、三日月は楽しげに笑い、
「女が欲しくば、抱けばよい。これはいかなる場合でも変わらぬ道理だぞ。おまえがいやだというなら、俺が代わりを務めてやってもよいぞ。」
 意味ありげな視線を投げかける三日月を睨みつけると、蜂須賀は無言のまま踵を返した。
 足早に去るその背中を見送り、
「はっはっはっ、怖や怖や。主の真名さえ知っておるくせに、もどかしいことだな。」
 三日月はからからと笑い、「さて、支度を始めるか」と蜂須賀が去った方向とは反対側へ歩み出した。

 春先のひんやりとした夜気にさらされた縁側の板を、音を立てぬよう静かに踏みしめながら歩く。
 風に流れる雲の合間から覗く月の朧な光が、本丸の庭に投げかけられている。
 白い夜着に流れ落ちる菖蒲色の長い髪も、あわあわとその光を照り返している。
 今日もこんのすけが帰ってこなかったの、と審神者は泣きそうな顔で呟いていた。
 政府に逆らった形のこんのすけが姿を消した理由は誰もが察しているが、審神者へは伝えていない。
 誰も彼女の悲しむ顔は見たくないのだ。
 思えば初めて彼女に会ったとき、どこか寂しげな少女だと思った。
 本丸で共に過ごしはじめ、いろいろと話しているうちに、彼女は幼い頃に事故と病気で家族を相次いで亡くして天涯孤独なのだと聞いた。
「だからここで私が死んでも、悲しむ家族はいないから大丈夫なんです。」
 そう寂しげに笑った審神者に、
「この俺がある限り、絶対に主を死なせなどしない。だからそんなことを言わないでくれ。それに…主がいなくなっては、俺が…俺たちが悲しい。」
 叱るような強い口調で言われ、審神者は大きな目をこぼれ落ちそうなほどに見開く。
「あ…ありがとうございます。そうですね…今の私には、蜂須賀さんや皆がいるんですよね。」
 もう独りぼっちじゃないんですよね。と、嬉しそうに呟いた目元に涙が滲んでいた。
 降り注ぐ太陽の光のように当たり前に存在していた家族の愛を突然に奪われた少女は、その光を何よりも欲していた。
 そんな少女が審神者となって作り上げた本丸は、かつて失い、渇望していた家族だった。
 ここには、父親も兄も弟も、祖父も友人もいる。
 そして、恋人と名乗ってよいと自負できるほどに心を通わせる相手も…
 その愛らしい顔に咲く笑顔から薄雲が取り払われていく様を見るにつけ、彼女が求めるものを手に入れられたのだろうと、嬉しくなったものだ。
 それなのに、少女はまた総てを奪われようとしている。
 彼女に従う我々刀剣たちは…俺は、それを許さない。
 自分たちがこれからやろうとしていることを知れば、彼女はきっと驚くだろう。
 責任感が強いため、まだ残っている任務のことも気にするだろう。
 しかし、自分たちにとっても彼女はもはやただの主ではない。
 審神者を愛し、審神者に愛されている家族だ。
 家族が家族を守ろうとするのは当たり前ではないか。そんな心を教えてくれたのも、審神者だ。
 審神者はこの世に生を受けてから自分たち刀剣からすれば瞬き程度でしかない短い時間の間に、辛い思いはもう充分に味わったはずだ。
 これから先は、自分たちと永遠に近い時の中で心の底から笑ってほしい。
 そのためならば…
「…主。もうお寝みか?」
 障子の前に膝を突き、低く声をかける。
 朧月夜の光を淡く跳ね返す白い障子紙の向こうから主の気配は感じるが、返事はない。
 既に深更だ。眠っているのだろう。
 眼を伏せる。
 三日月にそそのかされる形となってしまったが、本当に大丈夫だろうか?と考えかけ、ふいに蜂須賀はおかしくなってその口元に笑みを浮かべた。
 切羽詰まった事情ができ、それでも彼女に触れていいのかといろいろと御託を並べてはいるが、詰まるところ、俺はやはり主が欲しいのだ。
 惚れた女をその腕にかき抱き、我がものとするためのよい口実ができただけではないか。
 あなたが欲しい。
 それだけで充分だ。
 愛しい女を手に入れられる上に救えるとあれば、何を躊躇することがあろうか。
 蜂須賀は顔を上げ、障子にそっと指をかけた。


 不思議なお屋敷のお姫さまはな、お姫さまと言うてもしょっちゅう表に出てきては、わしらにも気安くお声掛けしてくださったんじゃよ。
 愛らしくお優しいお方じゃった。
 しかし、不思議なことに、毎日のようにお侍たちが戦支度をしてどこかへ出かけては、怪我をして帰っていらしたりしての。それでも、どこかで戦があったという話は聞かんかった。
 そもそもそのお侍たちも若い衆がほとんどであったが、中には童もおってな。その出で立ちもばらばらで、神主さまのようなお方もおれば、花魁のような着物のお方もおり、中には見たこともないような筒袖や軽衫より細い袴のお方がおいででな。いずれも凛々しい殿御ぶりなれど、何とも不思議なお方たちじゃった。
 それに、そのお屋敷がどこの殿さまのものか誰も知らなんだ。
 じゃがお姫さまもお侍たちもよいお方ばかりだったでな、わしらは全く気にせなんだ。
 そのお屋敷が建ち、お姫さま方が暮らし始めてから何年経った頃だったかのう…
 門が大きく開け放たれ、中からそれは見事な花嫁道中が現れたんじゃ。
 あのお姫さまがどこかへ嫁ぎなさるらしい。
 残念なことではあるが、おめでたいことじゃ。
 お姫さまを乗せたお駕籠はお侍たちに守られて、町を抜け、いずこかへ向かって進んでゆく。
 立派な花嫁道中を追いかけて、わしをはじめ童たちが何人も追っていったのだが、不思議なことに、そのいずれもが途中で花嫁道中を見失ってしまったんじゃ。
 あれだけ大勢の道中を見失うはずはないと誰もが思ったのじゃが…わしは丘に上がったところで、ある者は鎮守の森の陰で、ある者は川辺で、気づいたら誰も見えなくなっておった。
 そして花嫁道中はその後、誰の目にも留まることはなかったし、お侍方もお屋敷には誰も戻らなんだ。
 その後、一度だけお屋敷を訪う者があってお姫さま方の行方を問われたが、わしらは誰も知らぬでな。
 結局、お屋敷はそのまま荒れ果て、朽ちるに任せていった。
 お姫さまとお侍方がどこへ行ったか、未だに誰も知らない。
 今では、あの美しいお姫さまとお侍方は天の御使いだったのではないかと言われておる。
 お姫さまは天帝のおわす場所へ嫁がれたのじゃとな。
 不思議な話であろう?
 だが、本当のことなんじゃよ。
 わしは今でもはっきりと思い出せる。
 桜の花弁が舞う中、しずしずと進んでいく美しい花嫁道中をな―



fin.


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