あの日のことは生涯忘れられない記憶として、魂に焼き付けられた。 大学から帰ってくると、マンションの前の植え込みの縁に立香が座っていた。 高校から帰ってきたままらしい制服を着た彼女が遊びに来ることは時々あることだが、こうして連絡もなくいきなり来ることはない。 それに、ぽつんと座るその姿を見るだけで、いつもと様子が違うことがわかる。 隣に住んでいる幼馴染の彼女は、ちょうどこの五月の陽だまりのような空気を纏っているのに、その日は真っ黒い雨雲に覆われてしまったような影に包まれていた。 「立香?」 何があったのかと不安を感じながら声をかけると、弾かれたように顔をあげた。 その顔に、思わず息を飲む。 紙のように真っ白く血の気を失い、大きな琥珀の瞳を見開いて、こちらも色を失ってしまった唇をわななかせ、 「アルジュナ…お父さんとお母さんが…」 ようやく言葉を絞り出したかと思うと、彼女の言葉の意味を理解するより先に飛びついてきた。 背中に回した手でシャツを掴みしめ、ぎゅうぎゅうとしがみつく彼女が全身を震わせている。 立香の両親は同じ仕事をしており、今は二人揃って一ヶ月アメリカに出張に行っていることは知っているが、その二人にただならぬ事態が発生したようだ。 「ここでは何ですから、私の部屋に行きましょう。」 立香をしがみつかせたまま、その体を守るように抱えて自分の住む部屋へと誘った。 アルジュナの住む部屋へ通し、ソファへ並んで腰掛ける。 いつもなら立香の好きな紅茶を入れてやるのだが、今は彼女が離れたがらないため、何もできない。 立香はアルジュナにしがみついたまま、震える手でスマートフォンを差し出してきた。 それには留守番電話メッセージが入っており、促されるままにそれを再生してみる。 「え…」 そこには、外務省職員を名乗る者の声で、立香の両親の訃報を伝えるメッセージが録音されていた。 アメリカで交通事故に遭い、二人揃って亡くなったということだった。 生まれたときから隣に住んでおり、立香の両親はアルジュナの両親とも仲が良く、幼い頃から何度も遊んでもらった二人が亡くなったという事実は自分にも衝撃だというのに、娘である彼女にとってその衝撃はいかばかりか。 泣くこともできず、ぶるぶると震えながらまだしがみついている彼女の華奢な体がいつも以上に細く感じてしまい、ただそっと抱き寄せることしかできない。 立香にスマートフォンを返そうとしたとき、通話の着信があった。 画面に見覚えのある名前が表示される。 「藤丸からです。」 彼女の三歳上の兄だ。 今はイギリスに留学中の、アルジュナの同い年のこれまた幼馴染兼親友でもある。 「お兄ちゃん…あの…」 スピーカーから、こちらも動揺が隠せない藤丸の声が漏れ聞こえる。 いくつか言葉を交わしているが、立香は一人で対応するのが不安らしく、度々助けを求めるようにこちらを見る。 そっと手を出すと、彼の手に通話中のスマートフォンを出してきた。 「藤丸?アルジュナです。」 『あ、ああ、お前もいたのか。よかった…』 日本で一人留守を守っていた妹が今一人ではないことに、安堵したようだ。 「私も話を聞いたばかりですが、何と言えばよいか…」 『うん…ありがとう。立香を頼むな。』 「こちらのことはお任せを。」 藤丸と立香の兄妹のカルデア家は、母親が日本人で父親がイギリス人だ。 いずれも祖父母は亡くなっており、親戚も交流のある筋はいないらしい。 よって、兄妹で今後のことを進めねばならなくなる。 これは自分たちが生まれる前、親の学生時代からずっと親交のある我がパーンダヴァ家で協力するべきだと判断し、全面的なバックアップを申し出ると、姿は見えずともわかるくらいに藤丸が頭を下げて感謝しているのがわかった。 藤丸は奨学金で留学している身で自由に日本に戻ることができない上、まだ二十歳になったばかりの身で、さぞかし不安であろう。 藤丸が聞いていた今後の流れを確認して通話を切ると、今度は自分のスマートフォンにメッセージが届いていることに気づいた。 どうやら藤丸から連絡を受けたらしい両親からのメッセージを読んでいると、長兄、次兄、双子の弟たちの他、長兄よりも上の異父兄からも続々とメッセージが届いている。 両親からは狂乱せんばかりに立香のことを心配するメッセージを送ってきており、こちらが言う前から協力を申し出てくれている。 これで事務的な諸々の手続きは心配ないとして、問題は立香だ。 そっと手を添えて顔を上げさせると、見開いた琥珀の瞳は乾ききってしまっている。 人はあまりに衝撃を受けると、泣くことができないようだ。 ひなげしの色の髪を撫でながら、藤丸から聞いた話などを説明してやるが、黙ったままときどき頷くだけだった。 大使館とのやりとりや現地での火葬の手配、事故の処理の件など、やることは大量にあったが、そこはアルジュナの両親が万事引き受けてくれてつつがなく終わった。 アルジュナの両親はともにインド人だが日本を拠点に仕事をしており、海外事情にもいろいろと通じていてこういったことには非常に強いため、頼りになった。 それでもあっという間に時間は過ぎ、気がつけば日本での葬儀が終わっていたという感じだった。 今回の件で数ヶ月ぶりに戻った自宅のソファで外したネクタイを放り投げた藤丸は、ぐったりと背もたれに埋まっている。 立香は泣き疲れてしまい、既に二階の自室で眠っている。 兄妹二人だけでそっとしておこうかとも思ったが、幼馴染で親友でもある藤丸がこれほど打ちひしがれているものを放っておくことはできなかった。 「ありがとうアルジュナ…おじさんとおばさんたちにもお礼言わなきゃ…」 ほぼ一息に缶ビールを飲み干して、次の缶に手を伸ばしながら頭を下げる。 「そんな気遣いは無用です。おじさんとおばさんには私たち家族も散々お世話になりましたから。」 互いの両親は学生時代からの親友だそうだ。 日本人とイギリス人とインド人という交際色豊かな友人たちが、ここ日本でそれぞれの家庭を持ち、協力し合って子供たちを生み育ててきたのだ。 「…立香と一緒にいてくれてありがとうな…お前がいてくれなかったら、あいつ一人でどうなってたか…」 妹が眠る部屋のある方向へ視線を馳せる。 立香は、訃報を受けてから葬儀が終わるまで、涙を見せなかった。 連絡を受けたあの日こそアルジュナにすがりついて震えていたが、翌日からは硬い表情で唇を引き結んでひたすら気丈に振る舞い、様々なことにしっかりと対応していった。 一旦弱音を吐いてしまったら、きっと心が折れてしまうから。 そんな思いが立香を突き動かしていることはわかっており、少しでも彼女の負担が軽くなるよう、支えることに努めた。 葬儀を終え、家に遺骨を持ち帰ったとき、ようやく立香は泣いた。 二人分の遺骨を抱きしめ、目玉が溶けて流れ出してしまうのではないかと思えるほどに泣いた。 藤丸もアルジュナも、そんな立香にただ寄り添っていることしかできなかったことがもどかしかった。 「なあアルジュナ…」 「はい?」 藤丸が何やら言いにくそうにもごもごと口の中で繰り返しながら、ぼそりと言った。 「お前、立香のことどう思ってんの?」 カルデア家とパーンダヴァ家の兄弟はいずれも家族同然に仲良く育ってきた。 その中でアルジュナと立香は特に仲が良く、周囲からとっくに出来ていると見做されている。 しかし二人が正式に付き合い始めたという話は聞いていない。 幼馴染としての兄妹のような好意なのか、それとも… なんとなく視線をそらしながらそんなことを聞いて来た親友に対し、こちらも缶ビールの底に残った一口分を煽ってから、 「好きですよ。女性として。」 さらりと言ってのけた。 半ば期待していた答えではあっても改めて本人の口から聞いてみると動揺してしまったらしく、餌をねだる鯉のようにぱくぱくと口を開閉するだけの藤丸に、 「具体的にはまだ本人にも伝えていませんので、貴方にはこれ以上は言いません。」 「え、ああ、うん…」 「というわけで彼女は私が全力で守りますから、ご安心を。」 「…別の意味で心配になってきた。」 恐らく立香もアルジュナを好きであろう。 下手をすると兄よりも信頼しているくらいだ。 幼い頃から兄弟同然で過ごした親友でもあり、突然一人ぼっちで日本で過ごすことになってしまった妹を任せるには、誰より安心できる相手だ。 だとしても、兄としては複雑だ。 特にシスコンというわけではないが兄妹の仲は普通に良いし、何より今はたった一人の肉親としての責任感もある。 立香を幸せにしてやらねば、両親に顔向けできない。 突然父性に目覚めたらしい藤丸に苦笑しながら、 「妹の心配をするのも良いですが、向こうの彼女への対応も案じた方が良いのでは?さぞかし心配していることでしょう。」 「うぇっ!?ああ、うん、そうだな…」 途端に赤くなり、青みがかった翡翠色の瞳が泳ぎまくる。 イギリスで付き合い始めたばかりだという彼女は大学の後輩だそうで、一緒に写った写真を見せてもらったことがあるので知っている。 立香とはかなりタイプが違うが、かわいらしく優しそうな女の子だった。 藤丸は明日にもまた留学先へとんぼ返りしなければならないが、海の向こうで心配して待つ彼女への対応にてんやわんやとなるだろう。 こちらも親友の恋路がうまくいくことを願ってやまない。 「アルジュナごめん、今日はもうちょい付き合って。」 「こちらは朝まででも付き合うつもりですよ。そのために酒を買い込んできたのですから。」 本当はこんなことじゃなくてお前と飲みたかったんだけどなあ、とひとりごちた藤丸が少々荒っぽく缶ビールを突きつけてきたので、それに応えて缶をぶつける形で献杯した。 藤丸も再び留学先へ行ってしまい、ようやく日常が戻ってきた。 といっても、以前の日常とは変わってしまった。 学校からの帰りに合わせて彼女を校門の前まで迎えに行くと、別れ際に冷やかす友人たちに元気に手を振った立香は笑顔を浮かべていた。 友人たちを心配させまいと、学校では努めて明るく振舞っていたのだろう。 アルジュナの袖を掴んで一緒に歩きながら今日の学校での出来事を楽しげに話すが、その指先にはやけに力が入っており、白っぽくなってしまっている。 その指先にそっと手を重ねると、はっとしたように顔を上げたが、にこりと微笑んで話を続けた。 痛々しい。 これまでの人生で、彼女の笑顔を見るのがこんなに辛いことはなかった。 そのまま一緒に立香の家に帰ってきたアルジュナは、 「ただいまー!」 立香が上げた声に小さく心臓が跳ねる。 帰宅を告げる言葉へ、もう誰も返してくれることはない。 出張から帰ってくるはずだった両親は祭壇で微笑む写真だけの存在となってしまい、立香を出迎えてくれる家族は、この家に誰もいなくなってしまった。 両親は仕事をしているので、立香が先に誰もいない家に帰ってくることはいつでもあったが、「今はいない」と「もういない」では全く違う。 改めてその事実を突きつけられ、誰もいないリビングで立ち尽くす立香を見て、いてもたってもいられなくなった。 彼女の腕を引いて彼女を抱き寄せると、抵抗もなくよりかかってくる。 その重みに勇気を得て、あれからずっと考えていたことを口にした。 「立香、私の家に来ませんか?」 「え…」 「貴女を一人にしておけない。」 細く小柄な体を抱く腕に力を込める。 「立香、貴女が好きです。愛しています。貴女の身も心も…すべてを守りたい。」 「…っ」 細い肩がびくりと跳ねる。 密着した胸から、どくどくと脈打つ心臓の鼓動がどんどん早くなっていくのが伝わってくる。 弱っている立香の心につけこんでいるようで気が咎めるが、アルジュナの背中に震える手がまわり、シャツをぎゅっと掴み締められるのを感じた。 「…私も、好き。大好き。だから…アルジュナはいなくならないでね…ずっと一緒にいてね…」 ぽろぽろと涙をこぼす彼女の髪に?を寄せる。 「はい…貴女こそ、私と一生一緒にいてください。」 彼女の?を撫で、そっと、唇を重ねた。 そうして、二人は一緒に暮らすこととなった。 大学生のアルジュナはともかく、立香はまだ高校二年だ。 高校生の女の子が二十歳の男と同棲しているなどという話は事情がなんであれ、よろしい話ではない。 というわけで、全力で隠し通すこととした。 彼女の自宅に暮らしてもよいが、両親との思い出が詰まった家で暮らすのはまだ辛いということで、基本的にはアルジュナのマンションにいることとなる。 それでも自宅が傷んでしまわないように、週に何度かは自宅へ戻り、風を通したり掃除をしたりして、不在であることは隠すようにした。 立香は恥ずかしがって躊躇したが、色々と工作するためにパーンダヴァ家の協力は必要で、根回しをしたところ家族も全面協力してくれるという。 母のクンティーは二人が幼い頃から、 「リツカちゃんがお嫁に来てくれればいいのに!」 とさんざん言っていたので、大喜びだ。 いっそもう結婚してしまえと焚きつけるのを抑え込むのが大変だ。 気恥ずかしいが、兄弟たちもにやにやしながら協力してくれる。 諸事情で別世帯として暮らしており、今は花屋で働いている異父兄までやたら嬉しそうなのが、少し腹立たしい。 そしてこの秘密は、藤丸にも貫くこととなった。 二人が付き合うのはいいが、 「あいつまだ高校生なんだから、手ぇ出すなよ!絶対出すなよ!」 むしろ手を出してほしそうなセリフを繰り返す藤丸は、立香のたった一人残った保護者としての妙な責任感に目覚めてしまっている。 毎日必ずskypeで連絡すること、という取り決めまでして、念の入ったことである。 とはいえ、隠すのは彼女が高校を卒業するまでだ。 両親があらかじめ積み立てておいてくれた学費があるので、このまま高校に通って立香が希望する大学へ行くことはできる。 大学生になれば、同棲しようが問題はない。 それまで約二年弱、とにかく隠し通すのだ。 いざ同居を始めるにあたり、諸々の着替えや学校の道具などはアルジュナの家へ持ち込み済みだ。 完全に引っ越しするわけではないため生活用品は両方の家に置いておけばいいので、二人で簡単に運べた。 アルジュナの家は2DKだが一人暮らしするには広すぎる部屋なので、立香一人転がり込んだところで何の問題もなかった。 が、そこはそれ。 問題はおおありだ。 今は一部屋はアルジュナの寝室、一部屋はウォークインクローゼットとして使っている。 クローゼットにしている部屋を空けるか、と思いつつ、しかしそれまでどこで寝るかだ。 ベッドは立香に譲って、自分はソファで寝ればよいか、と考えていると、 「だめだよ、私の方が小さいし私がお世話になるんだし、私がこっちで寝る。」 「だめです。女性をそんなところで寝かせるわけにはいきません。」 どこかで布団を買ってくればよいか、ということになったが、その日はもう遅く、店も閉まっているだろう。 「よしわかった、一緒に寝ようアルジュナ!」 「は!?」 無駄に男気溢れる立香の申し出に、思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。 「え、嫌なの?」 「い、嫌なわけないでしょう!ですが…」 早い話が、一晩中理性との激闘になるとわかりきっている状況に、わざわざ臨みたくはない。 とても立香には言えないが、別の部屋でも一つ屋根の下で寝ると言うだけで、既にやばいのだ。 「じゃ、一緒に寝よ!」 とびきり無邪気にかわいらしい笑顔を向けてくれる立香が、天使の仮面を被った悪魔に見える。 せめてもう少し恥じらいをもって言ってくれれば、まだましだったかもしれないのに。 これが生まれた時から一緒に育った幼馴染のデメリットでもあろうか。 男としての自信を若干失いつつ、結局は立香に負けて、一晩苦行に挑むことになってしまったのだが。 が、寝る以前に試練は訪れた。 風呂上がりである。 ほこほこと湯気を上げ、上気した桜色の肌が寝間着からちらちらと見えるのだ。 ぴちぴちとした張りのある肌が、髪から滴った水を弾いている。 しかもその鎖骨に落ちた水滴は、そのまま寝間着に隠された双丘に挟まれた谷間へと伝い落ちていくのだ。 「先にお風呂使わせてもらっちゃってごめんね、ありがとう。」 まずい。 目の毒すぎる。 自分の中の黒いものがここぞとばかりにしゃしゃり出ようとするのを全力で抑え込む。 こうなったら死ぬほど酒を飲んで潰れて寝てしまおうか。 いや、中途半端に酔った時点で襲いかかる自信満々である。 互いに想いを伝え合って、晴れて恋仲となった。 何より愛しい立香を、ぶっちゃけもう何年も前から抱きたくてたまらなかった。 だがしかし。 さすがに一緒に暮らし始めて即座に手を出しては、あまりにがっつきすぎて節操がない。 彼女を守るために一緒に暮らそうと言ったはずなのに、早々に食っちまっていいものか。 え、いいんじゃない? よくない。 こんなうまそうな据え膳を前に何を聖人ぶってるんだ?これまで何度もおかずにしてたくせに。 うるさい黙れ黒。 じゃあなんで引き出しに新品のコンd やかましい!!! 健康な青年には拷問でしかない状況に頭を抱え、一人しょーもないことで自問自答していると、ふわりと甘いフローラルの香りがすぐそばから香ってきた。 「どうしたの?」 「!?」 顔をあげれば、立香がすぐそばにいて覗き込んでいる。 「いいいいいいいいいいや何でもありません私もこれから入りますので好きにくつろいでいてください!」 一気に言い切って、慌てて風呂場へ行く。 が、そこも安全地帯ではなかった。 立香が持ち込んだ石鹸やシャンプーの甘やかな香りに満ちている。 先程、立香から香ってきたものと同じ香りだ。 そして湯船には、つい先程まで立香が入っていた。 ぬああああああああ!!! 全力で壁に頭突きしたい衝動を堪え、ひたすらぶつぶつと元素記号を端から経文のように唱えつつ、早々に入浴を済ませた。 恐る恐る風呂から出て冷蔵庫から缶ビールをひとつ取り出してリビングへ行くと、テレビがついていた。 画面に映っているのは連続ドラマだ。 ソファに腰かけ、それをぼんやりした顔で見ている立香の表情は、先程までの明るさが掻き消え、いろいろな感情が抜け落ちてしまっているように見えた。 やはり、無理をしている。 隣に腰掛けると、こちらを見て微笑んだ。 しかしその笑顔はどこかぎこちなく、目の下には隈がある。 「疲れているのでしょう?早く寝た方がいい。」 「うん…ありがと。これ見たら寝る。」 缶ビールを開け、自分は見たことがないドラマを一緒に見ながら飲むが、苦味ばかり感じてどうも味気ない。 ことん、と肩に重みを感じた。 視線を下ろすと立香が頭をもたせかけており、その瞼は下りていた。 「立香、こんなところで眠っては風邪をひきます。」 「ん…」 軽く揺すっても起きない。 テレビを消して抱き上げるが、それでも目を覚まさない。 そういえば立香を抱えたことは子供の頃以来だったっけな、と思いつつ、そっと寝室に運んでベッドに下ろす。 布団をかけてやって離れようとしたが、寝間着がわりのTシャツの裾を引っ張られる感覚に立ち止まった。 薄暗い部屋の中で目を凝らして見ると、立香の指がアルジュナのシャツを掴んでいる。 「…立香?」 そっとその指先に触れると、かすかに呻いた彼女の伏せられた睫毛の下から涙が一筋こぼれ落ちた。 「……」 ああ、離れられない。 今は何のやましい想いもなく、ただ純粋に愛しいこの少女を一人にしておくことができないと感じた。 向き合うように横たわり、自分より一回り以上小さい体を抱きしめる。 それに応えるように、彼女の繊手がアルジュナのシャツをきゅっと掴んだ。 目元の涙に唇を寄せて拭う。 思えば、彼女が生まれたときから好きだった。 長じるにつれて、彼女の人となりに強く魅せられ、想いは募るばかりだった。 愛しくて愛しくてたまらなかった宝物にようやく手が届いたというのに、彼女は今、運命の悪意のために悲しみのどん底に突き落とされて泣いている。 彼女のこんな悲しい涙を、二度と見たくない。 何があろうと彼女を守り抜こうと心に誓いつつ、そっと瞼を閉じた。 ちなみに翌朝、下半身に違和感を感じて目を覚まし、まだ寝ていた立香に気づかれないように前屈みになってこそこそとベッドから逃げ出す羽目になったことは、誰にも言えなかった。 え?アルジュナと内なる黒い心の死闘? 三日目に敗北したらしいですよ。
fin.
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