秘密の生活2


 梅雨の晴れ間の心地よい日差しの下、立香は仲の良いクラスメイトのメイヴに誘われて、昼休みに一緒に校庭のベンチで弁当を食べている。
 梅雨も間もなく終わりの頃なので暑いが、風の通る木陰は快適だ。
「あなたのお弁当、前からおいしそうだったけど、最近レパートリー増えたかしら?」
 自分のサンドイッチをつまみながら、メイヴが立香の弁当箱を覗き込む。
 両親が健在だった頃も弁当は自分で作っていたことは、友人たちは皆知っている。
「う、うん、同じお弁当ばっかりだと飽きちゃうし…これ、今回初めて作ったやつなんだけど、味見して?」
 ぎくりとしてしまったが、ごまかせただろうか。
 椎茸と筍を入れた鶏肉の和風ミートボールを勧めると、それを食べたメイヴはじっくり味わった後に大きくうなずいて、
「うん、おいしいわ!」
 褒めてくれて、お返しにとポテトサラダのサンドイッチをくれた。
 お世辞は言わない主義のメイヴの感想に、安堵する。
 おいしくできたようで、よかった。
 今頃大学で同じ弁当を食べているであろうアルジュナも、気に入ってくれるといいな…という期待感を胸の奥に隠しながら、もらったサンドイッチを食べた。
 友人とのとりとめのないおしゃべりを楽しみつつ弁当を食べるのは、以前と同じようでいて、違う。
 晴れて恋人となれた、ずっと好きだった人と同じ弁当を食べている嬉しさと、それを友人にも隠すことへの後ろめたさ。
 それが、この春までにはなかった要素だ。
 たったこれだけのことなのに新鮮な気分になるのが不思議だが、これもまたバレないようにしなくてはならなかった。
 他のおかずも我ながら及第点、と思える弁当を食べ終えたところで、メイヴがこれまでの雑談と変わらぬ調子で聞いてきた。
「ねえねえ立香、あなたと彼氏、最近どうなの?」
「え!?ああ、うん、まあ順調…です。」
 彼女は立香とアルジュナが特別な関係の幼馴染であることを知っている。
 というか、周囲はごく普通に「立香には彼氏がいる」と認識していた。
 本人たちにしてみれば、正式に付き合い始めたのはつい最近でも、傍から見ればずっとそういう関係としか見えなかったからだ。
 何しろ昔からことあるごとに立香の周辺で存在をちらつかせ、彼女に好意を寄せようという男子が現れないようにガードしている褐色の肌の美男子がいるのは有名な話だった。
 学園祭や運動会など、外部の者も入れるイベントでは必ず出没し、そうでないときでも何かと帰りに迎えに来たりする。そして彼女に少しでも粉をかけようとする男子がいれば、射殺さんばかりの目力でもって撃退してきたのだ。
 その抜群の容姿も相まってその行動が非常に目立つおかげで、立香にはインドのセ○ムがついている、という話は、幼稚園に始まって小学校中学校、そして高校に至る今、すっかり定着している。
 そのように外堀をがっちり埋められている状況に、渦中にいる本人は気づいていないのか、それともそれが当たり前なこととして受け止めているのか、メイヴに問われれば?に血をのぼせ、にへら、と呑気に表情を緩ませる。
 そんな立香の頬をにやにやしながらつつき、
「まあ、わざわざ答えてくれなくても、わかるけどね。やっとおあずけ解除してあげたんでしょ。」
「は!?おあず…っ」
 瞬時に顔を真っ赤にする立香の鼻先に指を突きつける。
「何慌ててるのかしら?今日だってメンズフレグランスの移り香なんて匂わせといて、わかりやすいったらありゃしないわよ。」
「え!?」
 慌てて自分の袖の匂いを嗅いでしまったが、よくわからなかった。
 確かに身だしなみに万事きちんとしているアルジュナが、爽やかないい香りのフレグランスを使っているのは知っている。
 立香もその香りは好きなのだが、まさかの移り香ですと!?
「うそ、だって朝、ちゃんとシャワー浴びて…っ」
 思わず口走ってしまった瞬間、満面の笑みを浮かべたメイヴと目が合う。
「うわああああああああ!!!!うそうそうそうそ!!!」
「別にそんなうろたえなくてもいいじゃないの。あなたたち昔から両想いだったんだし、好きな男を手に入れたことを素直に喜んでおきなさいよ。ていうか年上の男が、こんな無防備に目の前に転がる餌を今まで我慢してくれてた方に感心するわ。」
「ひぃ…勘弁してください…」
 同棲することは隠すが、付き合うことは隠さない、というのが立香とアルジュナで決めたルールだ。
 女子高生に大学生の彼氏がいるのは何もおかしな話ではないし、立香もアルジュナと付き合っていることを隠すつもりはないが、こうはっきり指摘されてしまうと、やはり照れくさい。
 そんな初心さ丸出しの立香とは対照的に、美人でスタイルもよいメイヴは男の噂が絶えない猛者で、立香の反応がいちいち面白くてならないといった様子だ。
 そしてさらにとどめを刺す一言が、彼女の色付きリップを塗ったつやつやの唇から紡がれた。
「で、あなたたち、今はどっちの家に住んでるの?」
 時間が止まった。
 …と思ったのは立香だけで、足元を雀がぴょんぴょんと跳ねている。
 蠱惑的な笑みを浮かべたメイヴは、立香の石化が解けるのを、それはもう楽しげに待っている。
 じわじわと首から上の石化が解けてきたところで、ようやく反応できた。
「……………………は、い?どう、いう…」
 我ながらぎこちなさすぎるが、どうしようもない。
「お弁当、彼の分も作ってるんでしょ?」
「は!?いやまさか何言って…」
 必死に首を横に振る立香に、メイヴはスマホの写真を突きつける。
 そこには、会員制のウェアハウスクラブでショッピングカートを押しながら並んで歩く立香とアルジュナの後ろ姿があった。
「あ…!」
「こないだの日曜、私もあそこにいたのよね〜。」
 まさか目撃されていたとは。
 写真を拡大しながら、
「カート押しながらでもあなたにボディタッチするのも忘れないとか、彼もやるわねえ。それにしてもまあ楽しそうに…どこの新婚さんかと思ったわ。」
「ごふっ、げふっ…!」
 なんとかごまかそうとパックのお茶を飲んだ途端、思い切りむせてしまった。
 立香の背中を叩いてやりながら、メイヴはにやにやと笑っている。
「や、やややややだなメイヴってば何言ってんの自分ちに一人でいるに決まってるでしょ!アルジュナが会員だから、連れてってもらっただけで…!」
 こんなときアルジュナならば平然としらばっくれられるのだろうが、自分には難しい。しかも相手が悪すぎる。
「ふーん、まあそういうことにしといてあげようかしら。」
「なななななんでそんな風に思うわけ!?」
 にやけていたメイヴが一転して真面目な顔になり、
「だってあなたの彼氏が、こんな状況のあなたを一人で放っておけると思えないもの。あなたを守るためなら、なりふり構わないでしょう、彼は。」
「う…いや、その…でも…」
「じゃあ、予告なくいきなり立香の家に遊びに行っちゃってもいいかしら?」
 まずい。
 同い年ながら百戦錬磨のこの友人には、何故だかモロバレのようだ。
「あのー…メイヴちゃん…メイヴさま…」
 こそこそと、揉み手をする。
「何かしら?」
「な、何か召し上がりたいものはございますか?」
「いらないわよ、そんなもの。こんな面白いウォッチ対象がなくなるのはもったいないから、誰にも言わないし。まあ、新作のお弁当の味見くらいはいつでも付き合ってあげるわよ。」
「メイヴちゃんさいこー!!」
 がばと抱きつく。
「よしよし。あなたすぐ顔に出るんだから、バレたくないなら、ちょっとのことで動揺しないようにね。まあ、あっちのことで困ったら、いつでも相談に乗ったげるわ。いろいろ伝授してあげてよ?」
「う、うす…」
 こんな調子で卒業まで本当に隠し通せるのか、甚だ不安であった。


 同棲を始めてから基本的にはアルジュナのマンションにいるが、家の手入れもあり、週に二三日は実家に泊まる生活をしている。
 そして今日は、立香の実家で過ごす日だった。
 大学の講義が三限までだったアルジュナは先に立香の家に帰っており、弁当箱を洗っていた。
 朝食はアルジュナが朝にジョギングする習慣があるために立香が作ってくれ、そのついでに弁当も用意してくれる。そして夕食は二人で交代または一緒に作る、というのが今現在の分担だ。
 二人とももともと自炊していたので、料理はできる。
 ただ立香の方がレパートリーが多く、今も料理の本を図書館から借りてきたり、料理上手で名高いという学校の家庭科の先生にレシピを教えてもらってきたりなどしており、差をつけられてしまっている。
 彼女の努力は自分を喜ばせようとしてくれるためとはわかっており、それは素直に嬉しいのだが、任せっぱなしの負けっぱなしではいささか悔しい。
 せめてもと、母から本場のインドカレーの作り方を教わって振舞ったところ大喜びしてくれて、かろうじて面目を施せたりしたものだ。
 今日の弁当に入っていた肉団子もおいしかった…と思い返す。
 残念ながら、自分には栄養も見栄えもよく弁当のメニューを考えるスキルはまだない。立香に作ってもらうようになるまで、昼食は学食で済ませていたからだ。
 今日も昼に学食兼フリースペースで弁当を広げていると、いつもどおり定食のトレイを持った友人たちが覗き込んできて、
「お前、最近は弁当なのな。」
「うまそうじゃん。愛妻弁当?」
「そうですよ。」
 つまみ食いしようと伸ばされた手を払いつつ、さらりと肯定した言葉に、友人たちだけでなく周囲の学生も騒然とした。
 アルジュナは何しろ、この容姿だ。
 ひたすら彼を狙う女子は後を絶たず、告白された回数は枚挙にいとまがない。
 それでも彼は全く相手にせず、
「心に決めた人がいますから。」
 で撥ねつけてきた。
 それでも諦めきれず、できるだけアルジュナの視界に入るように近くをうろうろしている女子は多い。
 そんな彼女たちも、「愛妻弁当」の言葉を聞き逃さなかった。
「え、マジか!前から言ってた子?」
「はい。」
「いやー!嘘だって言ってー!!」
「残念ながらほんとだと思うぞ…こいつのスマホの待ち受け、女の子とのツーショだもん。すっげーかわいい子。」
 先日、立香がふざけてアルジュナのスマートフォンを使って一緒に自撮りして、勝手に待ち受け画像に設定していたものだ。
 もともと待ち受けにはこだわらずデフォルト画像のままだったが、写真の立香がとてもかわいらしかったこともあり、そのままにしておいた。
 そういえば立香が設定しながら、
「へへー、虫除け!」
 などと言っていたことを思い出して待ち受け画像を見せてみると、周囲の女子たちを軒並み敗北感の嵐が薙ぎ払っていったので、確かにその効果はあったらしい。
「マジかわいいな…しかも料理もできるとか、羨ましい…」
「やっぱ世の中イケメン有利にできてやがる…ちょっとは自重しろこんちくしょう。」
「ええ、私の自慢の恋人です。」
 自ら「虫除け」などと言って自分が写った写真を待ち受け画像に設定しておいて、実際にこんな形で自慢されていると知ったら、立香は恥ずかしがって大騒ぎするだろう。
 そんなかわいらしい虫除け画像が入ったスマートフォンから、メッセージ着信音が鳴った。
 立香からの着信は音と振動を変えているので、彼女からのものだとすぐわかる。
 洗い物を終えた手を拭ってからメッセージを読んだアルジュナは、その内容にいささか慌てた。
―これから先生が家庭訪問来るってやばい
 よほど焦っているのか、句読点も何もないメッセージが届く。
 さて、どうしたものか。
 考えた挙句、洗った弁当箱とリビングに置いてあった鞄を手に、二階の藤丸の部屋に移動した。


 お昼休みにメイヴにこてんぱんにされた立香をさらなる恐怖が襲ったのは、放課後のことだった。
 帰ろうとしていたところで、今日は担当する授業がなかったため会っていなかった担任の源頼光先生が声をかけてきたのだ。
 源先生は生活指導の先生でもあるので、全力で後ろめたい身としては思わず身構えてしまったが、普段と変わらぬ柔らかな笑顔で、
「突然、ごめんなさいね。今日、このあと何か用事はありますか?」
 もともとまっすぐ帰るつもりだったので、用事はないと答えると、まさかの家庭訪問の打診だったのだ。
「急なことでごめんなさいね。教頭先生もご一緒したいのだけれど、なかなか都合がつかなかったものですから。」
 ここで断れないのが、脛に傷持つ身だ。
 幸い今日は自宅に戻る予定の日だし、なんとかなるか?と思い、怖いことはさっさと済ませる方がよしという主義に沿って承諾する。
 それにしても、昼間のメイヴのことといい、今日は厄日だろうか。
 そんなこんなで立香と源先生を車に乗せて一緒にきたのは、教頭のケイローン先生だ。
 ケイローン先生は少々話が長いが教え方もわかりやすく親切で、生徒からの人気は高い。おまけにとにかくイケメンなために、女子生徒の支持は圧倒的だ。
 源先生は長身美女だ。普段は優しいものの、風紀を乱す者には非常に厳しい生活指導の先生なのに、その美貌と超爆乳でかえって男子生徒を惑わせる恐ろしい天然トラップでもある。
 二人ともとても良い先生だが、今回ばかりは非常に困る。
 先程アルジュナには連絡したので恐らく退避してくれているだろうと思いながら玄関を開けると、三和土に自分の普段履きの靴と一緒にアルジュナの靴がそのままあった。
 思わず息を飲んだが、
「お邪魔しますね。あらあら、これは…」
「お兄さんの靴ですか?防犯対策として良いですね。」
「あ、はい!そうなんです!」
「しかし、同じものを置きっ放しではバレてしまうと聞きます。ときどき別のものと交換したり、置き方を変えると良いそうですよ。」
「はい、わかりました!」
 助かった。
 これでもし男物が室内にあっても、防犯対策としてごまかせる。
 恐らくアルジュナもそれを狙ったのだろう。
 そういったことに抜かりない男であるとわかっていても、心臓に悪い。
 リビングでお茶を出しながら、先生たちと話す。
 二人とも両親の葬儀に来てくれているので当然事情を知っており、今回の訪問も一人になってしまった生徒を案じてのこととわかっている。
 主に、何か困っていることはないかなどと先生と話しているところで、ちょうど兄の藤丸との定期連絡に使っているビデオ通話の呼び出し音がスマートフォンから鳴った。
「あ、先生。留学先の兄と毎日ビデオ通話で連絡してるんですけど、出てもいいですか?」
 日本とイギリスの時差は八時間だ。
 立香の放課後が藤丸の通学前になるため、このタイミングで連絡を取り合うことに決めたのだ。
 ちなみに立香が夜で藤丸が昼過ぎという時間設定にしなかったのは、同棲がバレるのを防ぐためであり、アルジュナとの時間を邪魔されたくないためでもあった。
 表向きの理由としては、「高校の方が授業が終わる時間が正確だから、連絡とりやすいでしょ?」ということにしてある。
 生徒がきちんと対策を練っていることに安堵の表情を浮かべながら、二人とも了承してくれた。
 ビデオ通話をつなぐと、起きたばかりで寝癖だらけの藤丸が映った。
 どうせ相手は妹で、他にいても親友のアルジュナくらいなので、いつもこのざまである。
『おはよー。今日もなんもないかー?』
「おはよ。今、先生が来てるから、話す?」
『は!?え、ちょまっ…』
 慌てて髪やよれよれのTシャツを直そうとするのを無視して、先生たちにスマートフォンを向ける。
「こんにちは。ああ、そちらはおはようございますですね。」
「お邪魔しています。」
 二人とも藤丸の慌てぶりにくすくすと笑いながら応答する。
『ああああすみません!妹がお世話になっています!』
 両親の葬儀で挨拶を交わしていたため、先生二人と藤丸は初対面ではなく、この兄が今の保護者代わりということも承知している。
 学校のことなどいろいろと三人で話し、通話を切ってじきに、
―いきなり先生につなぐなアホ!
 という兄からの恨み節のメッセージが届いたが、放置だ。
 たまには噂の彼女と朝でも迎えて、妹への定期連絡なんか忘れてみろと言いたい。
 妹にはそんな話はついぞしたことがなかったためにバレているとは思っていないだろうが、留学先でかわいい後輩と付き合い始めたという話をアルジュナから聞いて知っているのだ。
 ここぞというときにネタにしてやろうと思い、こちらもまだ知らぬふりをしているのだが。
「お兄さんともお話できてよかった。何か困ったことがあったら、いつでも連絡してくださいね。」
「遠慮することはありませんよ。話し相手が欲しいときでもかまいませんから。」
 二人とも忙しいだろうに、それぞれ個人の連絡先まで教えてくれて、心強い。
 先生たちもそうだし、いろいろな人たちに助けられ、本当に恵まれていると思う。
 感謝を込めてお礼を言うと、感極まった源先生に抱きしめられた。
「うぶっ!!」
「ああ、あなたはこんなにいい子なのに、何故このような…!あなたさえよければ、私の家に下宿しませんか?」
「う…うぐ…むうう???!!」
「源先生、お気持ちはわかりますが、彼女が窒息しています。」
 超爆乳に埋まり、呼吸ができずに必死にタップアウトする立香をケイローン先生が救出してくれた。
「ぶへ、はあ、はあ…あ、ありがとう、ござい、ます…」
 うん、確かにいい先生ではあるのだが…危うく殺されるところだった。
 おっぱい怖い。
「で、でも、こ、ここの家を離れたくないので、このままでいいです…」
「ええ、ですが、正直心配なところもあります。どなたか頼れる大人は近くにいますか?」
「やはり女の子一人では心配だわ…どうしましょう…」
「だ、大丈夫です、幼馴染のお隣の家族が面倒見てくださってるので…」
「まあ、では念のためお隣の方にもご挨拶したいわね。」
 げ。
 クンティーおばさんだけがいてくれればよいが、アルジュナたち兄弟の末の弟である双子は実家暮らしなので、鉢合わせたら困る。隣の家族がおばさん以外は全員男だと知れたら、この先生は何を言い出すかしれたものではない。
 どうやってこの場を凌ぐか焦っていると、二階から扉が開く音がした。
「あら?どなたかいらっしゃるの?」
 アルジュナだ!
 やばい、まだ先生帰ってないのに!
 さらなるピンチに心臓が口から飛び出しそうになるのをよそに、階段を下りて来る音がする。
 やばいやばいやばい!
 よりによってこんなところに若い男がいるなんて知れたら、確実に詰む。
 しかも自分は先生と一緒に帰って来たので、帰宅前から家に男が上がりこんでいたということがバレてしまうではないか!
 ぎぃ。
 背後のリビングの扉が開く。
 ぎぃやああああああああああ!!!!
 追い詰められたホラー映画の脇役よろしく心の中で絶叫しながら頭を抱えた立香の頭上を、思いもよらぬ声が飛び越えていった。
「いらっしゃい、立香ちゃんの先生ですか?」
「へ?」
 聞いたことがあるようでないような、若干ハスキーがかった高くて柔らかい声…
「あらまあ、もしかしてあなたがお隣の方ですか?」
「カルデア立香さんの学校の担任と教頭です。はじめまして。」
「は?」
 恐る恐る振り返った立香は、今日二度目の石化状態になった。
 リビングの入り口から覗くのは、褐色の肌の、輝くような絶世の美女だった。
 あれ?クンティーおばさん?
 いや、似てるけどもっとずっと若いな。
 て、あれ?ん?
「うおあぁア゛!?」
 思わず奇声を発しかけたところで、うっとりするほど美しい笑顔を浮かべたままの黒曜の瞳が放つ無言の圧力に抑えられた。
 ロングスカートの下で少し屈んでいるのかいつもより背が低く、ゆったりした衣装に細身ながらも逞しい体を隠し、長い黒髪のウィッグをかぶって化粧を施した美女は、立香の恋人アルジュナだ。
 顔色が赤と青を行ったり来たりしてナスのような色になっている立香をよそに、アルジュナ(美女)と先生二人が挨拶を交わしている。
「カルデア家と昔から家族同様に付き合っております、隣のパーンダヴァ家のブリハンナラと申します。立香ちゃんは私たちの妹のようなものですから、私たち家族でしっかり支えますわ。どうぞご心配なさらないでください。」
「いえいえ、我々も安心いたしました。」
「ええ、本当に。学校でのことは私たちにお任せくださいましね。」
 ごくごく普通の会話だが、心臓が止まりそうだ。
 というか止まった。
 魂も抜けて三途の川を渡っている。
 生きた心地がしない時間が延々と続くかと思ったが、いろいろと確認できて安堵したらしい先生たちがようやく帰ることになった。
 立香とアルジュナ(美女)は玄関先で二人を見送り、ケイローン先生の車のエンジン音が遠ざかっていくまでその場を動かなかった。
「……」
「……」
 立香が勢いよく振り返るのと、アルジュナ(美女)が顔を背けるのはほぼ同時だった。
「アルジュナっ!?」
「私を見ないでください!見るなー!!」
「いいから見せろーーーー!!!!」
 逃げ込んだリビングまで追いかけて、褐色の肌に思い切り血が上っている顔を覆う手をひっぺがし、無理矢理顔を見る。
 うん、確かにアルジュナだが、超弩級美女だ。
「えーと、お、おかげで助かったけど…どしたのその格好?」
「ふ、藤丸の部屋にあったものを使いました…」
 え、兄に女装趣味なんてあったっけ。
 首をかしげたところで思い出した。
「あ!もしかして何年か前に学祭でやらされたって言ってたやつ!?」
 立香は共学に通っているが、兄とアルジュナは高校は同じ男子校だった。
 その学園祭で美女(男)コンテストがあり、生贄…もとい出場者となった藤丸が使った衣装と化粧品が、押入れに隠したままになっていたらしい。
 そのことを、当時藤丸の部屋に何度も遊びに来ていたアルジュナは知っていたのだ。
 と、そこまで思い出したところでもう一つ思い出した。
「…そういえばその前の年に、この日は絶対に学祭に遊びに来るなって言ってた日があったよね。もしかしてそのときアルジュナ…」
 顔を覆って真横を向いたまま、小さく頷いた。
 藤丸が女装した前年の美女(男)コンテストにはアルジュナが出場したと兄から聞いて、こっそりでも見に行けばよかったと死ぬほど後悔したのを思い出した。
 元からとんでもなく美形であることは知っているが、少し化粧しただけでこれだけ美しくなるとは。
 ぶっちぎりで優勝して殿堂入りの伝説を残したらしいが、この姿を見ればそれはもう当然の結果だろう。
 というか女でも勝てる気がしない。
 一時は男子生徒のストーカーが現れたりして苦労したらしく完全な黒歴史と化しており、このことについては絶対に話してくれなかったので忘れていた。
 それなのに、先生たちによけいな詮索をさせないため、禁断の女装姿を敢えて晒してくれたのだ。
 その心意気が嬉しくもある。
 メイヴに同棲がバレるわ、先生に突撃されるわで厄日としか思えない日だったが、まさかこんなご褒美が待っていたなんて。
 むしろ、アルジュナが厄日だったのかもしれないが。
「捨て身の助太刀、ありがとう。」
「…お役に立てたのなら…」
「うんうん、すごく助かった!」
 アルジュナが名乗ったブリハンナラとは、海外にいる親戚の名をたまたま思い出したそうだ。
 生徒を心配する先生たちの親切に立香が困らされることを見越して、二階でこっそりとこんな解決策を準備して実行してくれたとは。
 お礼に、あとでいっぱい甘やかそう。 「アルジュナほんとありがとう、大好き!それで、ね…」
「却下です。」
「まだ何も言ってない!」
「貴女が何を言いたいかくらい、わかります!」
「写真撮らせて!!」
「そんなこったろうと思いました!絶対にいやです!!!」
 ぎゃあぎゃあと揉み合っているうちに、リビングの扉が開いた。
「え。」
「あ。」
 同時に固まって振り返ると、そこにはアルジュナの異父兄カルナがいた。
「玄関が開いていたもので、勝手に入ってしまってすまない。」
 その手には白い花束がある。
 花屋に努めるカルナは、立香の両親の弔いのために定期的に花を届けてくれる。そういえば、今日はこちらの家にいると立香自身が届け先を伝えていたことを忘れていた。
 カルナはまだ固まっている二人を眺めながら軽く首をかしげ、
「…お前…アルジュナか?そういう趣味もあったのか?」
「あるかーーーーー!!!出てけ貴様ああああああ!!!」
「似合っているぞ。」
「黙れ死ね殺す!!!」
 慌てて花を救助し、取っ組み合いをはじめた兄弟を廊下に放り出した。
 仲が悪いようで実は仲が良いのではないかと言う疑惑のある二人が暴れている音を聞きながら、
 これでせっかくの女装が崩れちゃうなー…写真取り損なったなー…もう二度とやってくれないよねー…
 などと残念に思いつつ、花瓶に花を活ける。
 さて、そろそろ家が壊れる前に止めに行かなければ、と台所からおたまを二つ持ち、廊下へ出た。





fin.


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