願うものは永遠の


 聖杯戦争は、立香とアーチャーのサーヴァントであるアルジュナの勝利で終わった。
 延々と続いて来たようでもあり、一瞬で終わったようでもあり、もはや時間の感覚が麻痺してしまったが、これで命がけの理不尽とも言える戦いは終わったのだ。
 立香の手には、聖杯と呼ばれる小さな黄金の盃がある。
 こんなもののために、今回の聖杯戦争だけでなく、過去にも大勢の人々が命を失ってきたのか。
 たった一つ、願いを叶えたいがために。
 立香は、己の願いのために聖杯戦争に参加したわけではなかった。
 どうしようもない家の事情から、なし崩し的に参加せざるを得なくなってしまっただけ。
 そして召喚したサーヴァントが、たまたま最強クラスのアーチャーであっただけだ。
 参加したという実績があればよし。実力からして、立香を送り出した側の誰もが立香が勝つなどと思っていなかった。
 だから、本来ならば自分がこの聖杯を手にするはずはなかったのだ。
 しかしサーヴァントは違う。
 彼らは死してなお、生前からの願いを叶えるために召喚され、戦ってきたのだ。
 それならば―
 立香は隣に立つアルジュナを見上げる。
 その白と青の装束は血と煤に汚れ、芸術品のように美しく整った顔だけでなく全身に傷を負っている。
 私がもっと強い魔術師だったら、こんなぼろぼろにしなくても勝たせてあげられたかな…
 そんなことを思いながら、アルジュナに聖杯を差し出そうとする。
 と、その手をやんわりと押さえられた。
「マスター、この聖杯は貴女のものです。」
「え、で、でも…」
「貴女がどれだけ頑張ってきたか、私はお側でずっと見てきました。貴女の願いならば、いかなるものでも叶えられるべきものだと思います。」
 ああ、そんな優しい顔を見せないで。
 他者を押しのけてまで叶えたい願いなんてなかったけれど、戦っているうちに芽生えた願いは確かにある。
 しかしそれは、以前聞いたアルジュナの願いを打ち砕いてしまうものだから、絶対に言えない。
「ううん、これは…アルジュナにあげる。」
「何故です?これのために、貴女はこの辛い聖杯戦争を耐え抜いてきたのでしょうに。」
「いいの。私の願いは、ただの自分勝手な我儘だから…それに、アルジュナがいなかったらこれを手にすることなんてできなかった。だから私の独善的な願いより、何千年も苦しんできたあなたの願いこそ叶えるべきだよ。」
 あなたは生前から苦しみ続け、永遠の孤独を願ってきた。
 ―あなたと永遠に一緒にいたい…
 こんな私の自分勝手な願いは、許されるはずがない。
 アルジュナの願いが叶ったとき、それは永劫の別れだとはわかっている。
 それでも、私はあなたをこれ以上苦しめたくない。
 たとえ自分がどれだけ苦しむことになるとしても―
「アルジュナ…聖杯はあなたにあげる。あなたの願いなら、どんなものでも私は受け入れるから。」
 聖杯をアルジュナの胸に押し付けた手が、小刻みに震えている。
 鼻の奥がつんとして、それでも必死に笑みを浮かべる立香に、アルジュナは少し困ったように形の良い眉根を寄せる。
「マスター…」
 聖杯を持つ立香の手に、アルジュナの大きな手が重なる。
 すっぽりと包み込まれてしまった小さな手からは、既に令呪は失われている。
 最後の戦いで、残しておいた一画を使い切ってしまったからだ。
 その白い手の甲には、うっすらと痣のように令呪の痕が伺えるが、これも年月と共にきれいに消え去るだろう。
「…どのような願いでも受け入れる…その言葉に嘘はありませんね?」
「うん…アルジュナがずっと望んでた願いを、叶えて。」
 吸い込まれそうな黒曜の瞳に見つめられ、立香は頷く。
「…よろしい。この聖杯は私がいただきましょう。」
 立香の手ごと聖杯を持ったまま、黄金の盃を眼前に掲げる。
 黄金の輝きに照らされたアルジュナの顔を、立香は涙でかすむ目でしっかり見つめている。
 ああ…願いが叶う瞬間は、どうなるのだろう。
 永遠の孤独というからには、きっと願いが届いた瞬間にアルジュナは立香の目の前から消えてしまうのだろう。
 なんだ、普通の聖杯戦争の終焉と同じではないか。
 マスターとサーヴァントの契約が切れれば、サーヴァントは座に帰る。
 それと同じことではないか。
 ただ、そのあとに何度召喚しようとしても、二度と来てくれないだけ。
 わかっているのに。
 ああ、止まれ涙。
 アルジュナの姿が見えなくなってしまうではないか。
 最後の瞬間まで、私は彼の姿をこの目に焼き付けておきたいのに。
「聖杯よ、我が望みを叶えたまえ…」
 掌には聖杯の冷たさを、手の甲にはアルジュナの手の温もりを感じながら、彼の声を聞き逃すまいと耳をすませる。
「このアルジュナが永遠に―」
 ああ、アルジュナ、アルジュナ。
 今まで本当にありがとう。
 私の最強で最高のアーチャー。
 あなたがずっと好きでした。
 弱くて右も左もわからない、情けないマスターである私を支え、時に優しく、時に厳しく励まし、一緒に戦ってくれたあなたが好きです。
 あなたがいてくれなければ、この残酷な聖杯戦争に私の心はとっくに打ち砕かれていた。
 あなたが一緒にいてくれたから、私は今ここにある。
 あなたを召喚してよかった。
 あなたに逢えてよかった。
 辛くて悲しくて、死んでしまった方がましだと思ったこともいくらでもあったけれど、聖杯戦争に参加してよかった。
 初めて出会ったときのこと。
 初めて戦ったときのこと。
 普段の何気ない語らい。
 時折見せてくれる、柔らかな微笑。
 私だけに見せてくれたという、あなたの本当の心。
 走馬灯のように、思い出が次々と蘇る。
 あなたから魔力供給を求められたときだって…キスも、その続きも、あなたにとっては目的のための手段でしかなかったかもしれなくて、私も怖かったし恥ずかしかったけれど、あなたに触れてもらえて、本当は嬉しかった。
 あなたは私から魔力をもらっただけだと思っていたかもしれない。でも、私もあなたからもらったいろいろなもので、身も心もいっぱいに満ちている。
 令呪は消えてしまっても、私に刻み込まれたアルジュナという存在は決して消えない。
 大好き。
 大好き。
 大好き、アルジュナ…!
 ああ、やはり見ていられない。
 あなたが消える瞬間を見ることができない。
 ぎゅっと閉じた目尻から、涙が溢れる。
 そんな立香の手と聖杯を包む大きな手に力がこもり、今まさにアルジュナの願いが聖杯に注ぎ込まれんとする。
「あなたが好き…愛してます…」
 唇が震えてうまく動かせず、ほとんど声にならなかった言葉は、アルジュナの耳には届いていないだろう。
 それでもいい。
 言わぬまま別れて後悔するよりは、きっといい。
 目を閉じたまま、両手に感じる温もりを忘れまいと最後の瞬間をじっと待つ立香は、アルジュナの口元にふわりと浮かんだ穏やかに満ち足りた微笑に気づいていなかった。



 召喚サークルの前にへたり込んでいた少女を見たときは、正直に言って落胆した。
 こんな弱そうな少女では、いかに私の力を持ってしても聖杯戦争を勝ち抜くことなどできないと思ったからだ。
 そんなふうに思った私は、後に己の見る目のなさを大いに恥じることになる。
 確かに魔力は弱く、魔術師としても未熟だが、貴女は決して挫けぬ強い心と戦闘指揮の天賦の才だけを頼りに、私と共に戦った。
 貴女には特に聖杯にかける自身の願望などなかった。
 それでも参加せざるを得なかった責任から逃げず、どれだけ打ちのめされても諦めずに何度も立ち上がった。
 心優しい貴女が、血みどろの聖杯戦争の中で幾度も慟哭したのを見てきた。
 貴女はこんな戦いに身を投じるには、優しすぎた。
 他者を傷つけるより自身が傷つく方を選ぶような貴女が、ここに至るまでにその心をどれだけずたずたに引き裂かれてきただろうか。
 どれほど理不尽で残酷な現実を突きつけられても、貴女はその優しく温かい心を失うことはなかった。
 ついには私の中の決して誰にも見せることのなかった心の闇まで、受け止めて柔らかく包み込んでしまった。
 だから私は貴女を支え、貴女のために聖杯戦争を勝ち抜くと決めたのだ。
 何があっても貴女の身も心も守り抜こうと決めたのだ。
 確かに召喚されて間もない頃に貴女から聖杯にかける願望を聞かれたときは、
「永遠に孤独になりたい」
 そう答えた。
 それは貴女に出会うまでは真実、私が望んでいたことだったから。
 しかし、貴女は知らない。
 今や、私の願いが変わってしまっていることを。
 貴女は人の気持ちは敏感に察するくせに、自分に関わることになると呆れるほどに鈍感だ。
 魔力供給にかこつけて、貴女が大切にとっておいてあったという唇どころか純潔さえ奪ったのも、ただ貴女が欲しかったからだ。
 私にすべてを委ねてくれている絶対の信頼をいいことに、本当は魔力供給の必要などなかったのに、不自然なまでに幾度も貴女を求めたことにも、貴女は疑問さえ抱かずに健気にも都度応えてくれた。
 そんな愚かしいほどにまっすぐで純粋な貴女は、今に至るまで気づいていない。
 このアルジュナが、清廉潔白な英雄として己を律することも忘れて欲望を剥き出しにするほどに、貴女を欲していることに。
 数千年の願望をあっさりと捨て去るほどに、藤丸立香という女を愛してしまったことに。
 我が手で包み込んだ小さな手が、かわいそうなくらいに震えている。
 貴女のわななく唇から溢れた、サーヴァントでなかったら聞き逃してしまったであろうかそけき声が、私の魂を温かな光で満たす。
 そして、貴女の温もりを手に包み込んだまま、聖杯に私の願いを注ぎ込む。

「―このアルジュナが永遠に…藤丸立香と共にあることを願う。」

 涙で濡れた大きな琥珀色の目を見開いて、びっくりした顔を勢いよく上げる。
 私が永遠の孤独を願うと信じていたのだから、驚くのも当然だ。
 ただあまりに驚きすぎたのか、ぽかんと口を開けたまま声も出ないでいる貴女は、私の言葉の意味を理解しかねて混乱しているのだろう。
 立ち尽くしている小柄で華奢な体をかき抱くと、おずおずと私の背中に回された腕がぎゅっとしがみついてくる。

「私も貴女を愛しております。」

 私の胸板に押し付けられた柔らかな?を涙が滑り落ち、私の服に染み込んでいく。
 抱きしめる腕に力をこめれば、抱きつく腕にも力がこもる。
 願いを受け入れた聖杯から放たれた強烈な光が二人を飲み込み、何も見えなくなる。
 しかし、両の腕には何より愛しい存在をしっかりと感じる。
 もう決して離れない。
 何があろうと離さない。

「貴女は私のどんな願いでも受け入れると言ったのですから、覚悟なさい、リツカ。」

私と貴女の魂は永遠に寄り添い、共にある。





fin.


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