よく見かけるものよりずっと大きく強い敵のゴーストを倒し、白い影が霧散すると同時に一陣の風が吹いて後方にいた立香にも吹きつけた。 確かにそのとき、何かが首に絡みついたような感覚があったが、蜘蛛の糸が一瞬だけひっかかって消えたくらいのものでしかなく、風に吹き飛ばされた塵か何かが触れたのだろうと思った。 巨大ゴーストは倒したが、まだ他の魔物が残っている。 残るは雑魚ばかり、と引き続き立香がサーヴァントたちに指示を出さんとした瞬間だった。 立香の体が突然跳ね上がり、喉を押さえて天を仰いだ。 そのまま体をのけ反らせて真後ろに倒れるところを、すぐ側にいたアルジュナが咄嗟に支えたおかげで頭を打たずにすんだ。 「マスター!?」 「…っ…!?」 顔を真っ赤にして大きく開けた口から舌を突き出してひきつけを起こしたような様を見るに、呼吸ができないでいるらしい。 喉を掻き毟ろうとする手をアルジュナが引き剥がすと、その手を日頃の彼女とは思えないほどに凄まじい力で掴みしめる。 前線にいたジークフリートとジャック、そのすぐ後ろにいたマシュも異変に気づいたが、魔物を前に駆け寄ることができない。 「せ、先輩!?」 「マスターは私にお任せください!」 「構えろマシュ。ここはマスターの安全を確保するのが先だ。」 「うん、一緒におかあさんを守ろ!」 「…はい!」 サーヴァントたちに叱咤され、立香を守るためにマシュも盾を構える。 アルジュナに抱えられてもがき苦しんでいた立香の喉から、間も無く笛の鳴るようなか細い音が漏れ、呼吸が回復した。 ぜえぜえと必死に空気を吸い込み、ようやく落ち着いてきたところで、魔物の殲滅を終えた三人が駆け寄ってくる。 「先輩、先輩!どうしたんですか!?」 苦しさのあまりにぐったりとアルジュナの腕にもたれたまま、親友でもある後輩の問いかけに応えようと口を開いた瞬間、またもや喉を凄まじい激痛が襲い、呼吸ができなくなる。 「……っ…!!」 「先輩!」 「マスター!!」 まるで喉に栓をされてしまったかのように、口を開けて肺を動かしているのに呼吸ができない。 死に物狂いで空気を求めて首を激しく振るが、同時に喉にこれまで経験したことのないほどの激痛が苛む。 苦しい。 痛い。 死んでしまうかもしれないと本気で思うことは数え切れないほどあったが、今回は一際辛い。 窒息するとは、これほど苦しいものなのか。 意識が飛びかけたところで、喉に詰まっていた栓が外れたように気管に空気が流れ込み、それを思い切り吸い込むことができた。 呼吸はなんとか回復したが、凄まじい激痛と窒息で、既に立香は半死半生の状態だ。 涙が滲んだ目を薄く開け、自分を見守るサーヴァントたちへ自分の状態を説明しようとした立香の口をアルジュナが手が押さえる。 「声を出さずに。先程からの状況を見るに、これはもしや、声を出そうとすると起きる症状なのでは?」 「そんな!先輩、声を出さないで答えてくださいね。声を出そうとしたら、呼吸できなくなったんですか?」 言われてみれば、いずれもそんなタイミングだった気がする。 口を塞がれたまま、小さく頷く。 マシュが何度か質問を繰り返し、それに頷いたり首を横に振ったりして答え、症状を洗い出していく。 声を出そうとした瞬間、有刺鉄線で首を締め上げられるような激痛に襲われ、呼吸ができなくなってしまうらしい。 おそらく、その二つの症状だけだ。 そして今は痛みもなく、呼吸も問題なくできることを確認する。 「先輩、すぐに誰かに見てもらわないとならないですが、ここはカルデアからの通信が不安定です。かなり離れてしまいましたが、召喚サークルへ戻るまで耐えられそうですか?」 皆の手を借りて立ち上がり、頷いた。 どうやら黙ってさえいれば痛みもなく呼吸も普通にできるため、移動は問題ない。 口だけ「ごめん」と動かして、一旦撤退することにした。 今回はライダーが多い地域だということで、キャスターを連れてこなかったことが災いした。 なんらかの呪詛にかかってしまったことは確実だが、それを解呪する手立てがない。 ジャックが斥候に立ち、ジークフリートが先頭に、マシュが立香に寄り添い、アルジュナが背後を警戒する。 森の中を進んでいったとき、頭上から降り注いでいた木漏れ日がさっと陰った。 「!」 直後に炎が降りかかり、森の木々を焼く。 立香を抱えたアルジュナが跳び退り、マシュが盾を構えて炎を弾き、ジークフリートがバルムンクを振るって剣圧で炎を吹き飛ばす。 たとえ指示がなくとも、長いこと一緒に戦ってきた者同士、阿吽の呼吸で動くことはできる。 先行していたジャックも幸い炎を逃れられたらしく、焼けた木々を飛び越えてこちらへ戻ってくる。 その炎を放った主が何か、確認するまでもない。 焼き払われてぽっかりと穴が空いた木々の上、空から耳をつんざくような咆哮が轟いた。 「ドラゴン!?しかも、ものすごくたくさんいます!」 しかし立香がこの状況では、彼女の指示を仰ぐことはできない。 「マスター。ここは俺に任せろ。」 ドラゴンにはめっぽう強いジークフリートがバルムンクを構える。 「ライダー相手ならわたしたち得意だよ!」 ジャックもナイフを構えるが、しかし相手はざっと見て十頭以上いる。 「ドラゴンのブレスは私が防ぎます!アルジュナさん、先輩をお願いします!」 マシュが大盾を構えると、アルジュナが立香を右肩に担ぎ、地を蹴った。 「急ぐので少々荒っぽいですが、決してお声は上げませんように。」 肩に引っ掛けられたまま、自分の手で口を塞ぎ、何度も頷く。 「マシュ!」 「はい!」 駆け寄るジャックがマシュの大盾に飛び乗り、その蹴りに合わせて大盾を思い切り跳ね上げると、小柄な体が宙高く舞い上がる。 「いっくよー!」 空を飛ぶドラゴンの背中に飛び乗り、翼の付け根にあたる硬い鱗の隙間に正確にナイフを突き立て、ぐいと捻るとドラゴンが苦痛に咆哮をあげる。 たまらずに高度を下げれば、ジークフリートが待ち構えている。 伝説の竜殺しの英雄の刃を前に、名もなきドラゴンなど敵ではない。 ドラゴンの咆哮と木が燃える音、肉や骨を断つ音が、森の中を矢のように駆け抜けるうちにあっという間に遠ざかっていった。 戦闘の気配が全く感じられなくなるほどに離れたところで、立香を木の根元に下ろした。 「大丈夫ですか?」 下ろしてもらったときには目が回って腰が抜けていた。 肩に担がれた状態で枝から枝への跳躍を繰り返すサーヴァントの全力の超高速移動は、アーラシュ人間大砲の次くらいに怖い絶叫マシンだった。 乗り物酔いに似た感覚に吐き気さえ感じながら、 ―大丈夫じゃないよ! と思わず声をあげようとした瞬間、白い手袋をした手に勢いよく口を塞がれる。 「難しいことはわかりますが、声は出さぬようお気をつけください。」 危なかった。 指先で丸を作って頷くと、手を離してもらえた。 唇だけを動かして、 ―ごめん、ありがとう。 日本語ではあるが、サーヴァントであるアルジュナにはその唇の動きが紡ぐ言葉を理解できる。 「貴女が謝ることではありません。敵の攻撃から貴女を守れなかった私の責任です。」 そんなことはない。 戦闘中に起きることは自分の責任だ。 ましてや、一応魔術師の端くれとして、むざむざと呪いを受けるなどとは情けない。 おかげで仲間はこうして散り散りに逃げることとなってしまった。 召喚サークル設置ポイントまでは、まだ二日分の距離がある。 アルジュナは確かにとんでもなく強いが、こんな役立たずの自分を連れて、無事にそこまでたどり着けるか。 「彼らならご心配には及びません。ジークフリートはドラゴン相手ならば無敵ですし、ジャックはライダーに強く、マシュは円卓の盾の使い手です。信じなさい。」 立香の眉根が下がったのを、彼女を逃してくれた三人の心配をしているのだと受け止められたようだ。 もちろん、皆は心配だ。 それでもマシュの絶対防御とジークフリートとジャックの攻撃力があれば、なんとかなるだろう。 まだ曇ったままの立香の表情に、 「…私だけでは不安ですか?」 不満そうなアルジュナの言葉に、それは違うと今度こそ思い切り首を横に振る。 ここに至るまでに魔物と出会ったが、アルジュナは立香を右肩に担いだまま、左手にガーンディーヴァを握って歯で弦と矢を番え、それでも過たずに敵を射抜く技を見せて危機をくぐり抜けてきた。 一緒にいてくれるのがアルジュナでよかった。 理由は、その強さのためだけではないのだけれど… ぎゅっと唇を噛む立香の髪を撫で、 「安心なさい。彼らとて、私ならば一人でもマスターをお守りできると踏んで任せてくれたのでしょう。このアルジュナ、今度こそこの身に代えても貴女を必ずお守りいたします。」 ―代えちゃだめ!絶対無事でいて! 声には出せずとも、口を動かして必死に伝えようとする。 「すみません。そうですね、私が斃れては貴女が一人になってしまう。ですから一緒に戻りましょう。」 ―約束してね。 そう口を動かすと、口角をわずかに上げてしっかりと頷いてくれた。 日が暮れるまで森の中を進み、魔物の気配を感じない地点で野営することにした。 落ち着いたはいいが、立香はあわあわと震えながらアルジュナの膝の上に座り、しがみついている。 何故なら、そこは地上から10mほどの高さの木の上だったからだ。 ものすごく怖い。 「大丈夫です、落としやしませんよ。あの妙な城の三段重ねをよじ登ったときよりは遥かに低いでしょう?」 声に若干棘がある。 チェイテピラミッド姫路城に連れて行かなかったことで当時もかなり拗ねられたが、未だに根に持っているらしい。 ―あのときはごめんってば。 「何のことです?」 誰がどう見ても根に持っているが、しらばっくれた様子で太い枝の上に腰掛け、その膝に立香を抱えている。 確かに熊や猪にも遭わず、地上を行く魔物が現れても枝葉に隠されて簡単には発見されない場所だ。 あのふざけたチェイテピラ以下略はここよりは遥かに高かったとはいえ、窓から窓への移動で外に出るくらいで、それほど長い時間をボルダリング(立香は負ぶさっていただけだが)していたわけではなかった。 それに比べ、今回この高さで過ごすのは一晩という長い時間だ。 これくらいの高さから落ちても何の問題もないアルジュナは平然として、むしろびびりまくっている立香を面白がっている様子だが、一般人代表としてはたまったものではない。 ―こっちの方が怖いよ! と拒否したくても今の立香にはどうしようもなく、大人しくアルジュナの言うことを聞くしかないため、こうして震えているのだ。 「ここでは調理できないので、こちらを召し上がってください。」 脇の枝に引っ掛けた荷物からレーションをとってくれるが、立香はこれがあまり好きではない。 携行性と栄養価だけを考慮して作られたこれは、はっきり言ってまずい。 しかしこの状況では贅沢は言っておられず、それを食べるしかない。 仕方なく、必死に下を見ないようにしながら勧められたレーションを食べるが、味を差し引いてもあまり喉を通らない。 「おいしくなくても、食べてください。呪詛は体力のない者を蝕みます。」 わかってはいるが、その呪いのことやはぐれてしまったマシュたちのことが気がかりでもあり、どうにも食が進まない。 レーションを持つ手が下がりかけると、その手を掴まれ、 「食べなければ、力ずくで詰め込みますよ。」 ―ごめんなさい食べます。 せめて今度、エミヤにレーションの味付けを監修してもらおう、と心に誓いつつ、ぼそぼそとまずいそれを無理矢理に飲み込んだ。 夜の森は冷えるが、木の上にいるため火は焚けない。 それでもアルジュナがマントで包んで懐に抱いてくれているおかげで、寒さは感じないで済んでいる。 立香が喋れないためにアルジュナも最低限のことしか話さないせいか、話し声の有無と言う点では静かだが、夜の森は案外賑やかなものだ。 動物の立てる物音、風が葉を揺らす音、虫の声が絶え間なく聞こえてくる。 しかしそれより、先程から密着している胸板から伝わる心臓の音が気になってしまって仕方がない。 すらりとした見た目からは想像しづらいが、実はジークフリートよりも腕力が強いアルジュナだ。 無駄のない筋肉で引き締まった腕に抱かれてすがる格好になっている、がっしりとした胸筋の奥から、規則正しく刻む心臓の鼓動が聞こえる。 思わずどきどきしてしまい、もしかして先程からずっと跳ね飛んでいる自分の鼓動が向こうにも伝わっているのかな?と思うと、なおさら恥ずかしい。 立香には、誰にも、マシュにさえ言ったことはない、秘密の想いがある。 アルジュナが好きだ。 カルデアのスタッフやサーヴァントたち全員が好きだが、アルジュナに抱くものは、好感ではなく恋慕だ。 当時は自覚はなかったが、北米の特異点で出会ったときから惹きつけられていた。 敵に回られて散々な目に遭わされたにも関わらず、最期はカルナとの約束を果たし、一人で二十八もの魔神柱を屠ってくれたと聞いたときから、何とか彼を召喚しようと心に決めたのだ。 その後、間もなく召喚に応じて立香のサーヴァントとなってくれたときは、本当に嬉しかった。 先に来てくれていたカルナと事あるごとに角突き合わせるのは困ったものだが、それは嬉しい悩みでしかない。 ただでさえエジソンvs.テスラのどつき漫才で毎回施設内の修理だ何だとひどい目に遭わされてきたカルデアスタッフにとっては、破壊力が桁違いの兄弟喧嘩は地獄だったらしく、さすがに二人を正座させて叱ったあとは、物理での喧嘩はやめてくれるようにはなったようだ。 そうしてなんだかんだでカルデア内でもレイシフト先でも一緒に過ごし、ひょんなことから完全無欠な表向きの姿に反した本当の顔を知ってしまってから尚更想いは募り、自分でもその気持ちを認めざるを得なくなってしまった。 それでも、マスターとサーヴァントだ。 恋愛感情を持ってはいけないと自らを律し、決してこの想いは口にはするまいと決めているが、よほどのランサー祭りでもない限り、レイシフトのメンバーには組み込んでしまう。 アルジュナがトップクラスに強いからという理由で、それはなんとかごまかせるが、カルデア内で世話をしてもらう役目がずっと彼なのは、言い訳のしようがない。 そこはまあ、アルジュナが厳しくも結局はなんやかんや甘やかしてくれるから…と、苦しい言い訳はしているが。 そう、アルジュナは自分をとても大事にしてくれる。 はじめのうちはヒマラヤよりも高い壁を築き上げていたアルジュナも、共に過ごすうちに壁を取り払って自分を特別な存在として扱ってくれるようになっている。 その特別扱いに甘えさせてもらえるだけで充分だった。 なのに。 夜の森で二人だけ、彼の懐に抱かれているこの状況は、立香のキャパシティを完全にオーバーしている。 だからといって、こんな木の上で体を離すのは怖くて無理だ。 せめて普段自室で過ごしているときのように、とりとめもない会話をすることができれば気も紛れるのに。 アルジュナと話せないのは、寂しいな… 心情的にも状況的にもそんな思いを口にできないまま、大人しくその胸に体を預けていると、こちらは闇夜でも見通す千里眼で周囲を絶えず警戒していたアルジュナが声をかけてきた。 「マスター、起きていらっしゃいますか?」 穏やかな口調から、特に何かが起きたわけではないようだ。 顔を上げるが、夜目の効かない立香にはアルジュナの顔が見えない。 さすがに暗さに目が慣れたとはいえ、彼の褐色の肌色のせいで、こちらからは彼の白い衣装と白目がうすらぼんやりとしか見えない。 しかしアルジュナからはこちらの様子はしっかり見えているようで、普段と変わらぬ様子で話しかけてくる。 「首の様子を見せていただいても?」 頷くと、襟のボタンを外され、喉元にひんやりと夜気を感じた。 喉に、絹の手袋に包まれた指先が触れる。 するりと撫でられて、少しくすぐったい。 アルジュナの小さなため息が聞こえた。 「見た目はなんともありませんが、触れるとわずかに痺れるような魔力を感じます。」 その声はどこか悔しそうだ。 「苦しくはないですか?」 声を出そうとさえしなければ、つい呪いのことを忘れてしまいそうなほどに、なんともない。 「最高のサーヴァントなどと言っておきながら、このような呪詛に対して手も足も出ない己が情けない…」 ああ、それであんなにも悔しそうだったのか。 アルジュナに、そんなことはないと言いたいのに声に出せないことがもどかしい。 代わりに、その手をぎゅっと掴む。 しっかりと骨ばった大きな手は立香の両手でもってしても包み込むことはできないが、これで少しは伝わるといいな、と念じながら額に押し当てた。 「貴女はお優しい。苦しくて不安なのは、貴女の方でしょうに。」 アルジュナの顔は見えないが、その声音にはほろ苦い笑みが滲み、立香の手を握り返してくれた。 大丈夫だよ、アルジュナがいてくれるから。 これも伝わるかな? 恥ずかしいから、伝わらない方がいいかな。 さやさやとした絹の手触りの下にある手の温もりを両手でしっかりと感じながら、こちらも笑みを返した。 「マスター…」 ふいに、立香の肩を抱いていたアルジュナの手が伸ばされ、その掌が立香の口を覆った。 「!?」 驚く間に、その白い喉に口付けられ、きゅっと吸われるような刺激を感じる。 口を押さえられていなかったら、危うく声を上げてしまうところだった。 ―いきなり何しやがるんですかー!!! きっと今自分は、首から上が耳まで真っ赤になっているはずだ。 その様子はこの闇の中でもしっかりと見られていると思うと、恥ずかしくて爆発してしまいそうだ。 密かに想う男に抱えられているだけでも恥ずかしくて死にそうなのに、さらに想定以上のことをされて照れ隠し半分、抗議半分で癖のある黒髪をぽかりと叩くと、 「まじないのようなものです。」 ―何の!?ていうか今、ちょっと笑ってたでしょ! 抗議しようにも言葉にできず、アルジュナは顔を背けたのか、わずかに見えていた白目さえも見えなくなってしまい、仕方なくその胸を叩いた。 ちょっとだけ嬉しかったことは表情に出ていないといいな、と思いながら。 ―後ろ! 思わず叫ぼうとした瞬間、喉を激痛が襲う。 息ができない。 アルジュナは間一髪、背後から襲いかかった敵の攻撃を交わし、宙を跳びながら矢を放つ。 首を押さえ、必死に息を吸い込もうとする立香の前に着地し、 「何があっても声を上げようとしてはなりません!却って気が散ります!」 叱りつけながらも、アルジュナは傷だらけだ。 目的地まであと少しというのに、よりによって強力なランサーたちのシャドウサーヴァントの群れに囲まれるとは。 せめてカルナのシャドウがいないことだけは救いかもしれないが、アルトリアやクー・フーリン、スカサハに書文までいる。 そんな敵を前にして、アルジュナは一人でこの役立たずのマスターを守らなくてはならない。 立香を小脇に抱えて跳び、ようやく回復した呼吸も荒く酸素をとり込んでいる立香を大木の影に下すと敵を引き付けるために跳躍しながら矢を放つ。 元がミサイルかというくらいにとんでもない攻撃力を持つ彼の弓は、何故か矢の勢いを殺してしまうランサー相手でもかなりの威力を誇る。 が、同時に受けるダメージが大きい。 白い衣装を血に染めるアルジュナを、黙って見ているしかない自分がもどかしい。 喉を押さえ、血が滲むほどに唇を噛みしめる立香と、シャドウのスカサハの窪んだ洞穴のような目が合った。 「!」 彼女の槍が、自分めがけて飛んでくる。 これが本物のスカサハであったなら、槍が飛んでくるという認識をする前に貫かれて死んでいたであろう。 咄嗟に身を伏せようとした立香の視界が真っ白くなった。 「ぐっ…!」 いや、視界が白くなったのではない。 立香の前に立ちふさがったアルジュナの白いマントが視界を覆ったのだ。 その背中がぐらりと揺れる。 膝をついたアルジュナの前に慌てて回り込むと、その腹に黒い影が凝ってできたようなゲイボルグが突き立っていた。 「!!」 思わず声をあげそうになった立香の口を、またもやアルジュナの手が乱暴に押さえる。 「ご無事、ですか?」 それどころではない。 真っ青になって激しく首を横に振ると、 「大丈夫、です。本物のゲイボルグならいざ知らず、こんなものでやられはしません。」 唇の端から、ごぼ、と血がこぼれる。 槍を引き抜くと噴き出した血が白い衣装を真っ赤に染め、シャドウのゲイボルグを片手で握り潰すようにへし折った。 ふらりと立ち上がってガーンディーヴァを握り、再び飛んで来たゲイボルグに向けて正面から射放つ。 真正面から激突した矢と槍。 それはクラスの相性を超え、真の英霊の矢がシャドウサーヴァントの槍を打ち砕いた。 矢はそのままシャドウサーヴァントの胸に突き立ち、黒い塵となって霧散する。 しかしまだ一体倒しただけだ。 地を蹴ったアルジュナが先程までいた地面に、大きな血だまりができている。 立香の両目から、涙がこぼれ落ちそうになる。 しかしぐいと手の甲で涙を拭い、きっと正面を見据えた。 ここでサーヴァントを助けられず、何がマスターか。 私はアルジュナを助けたい。 「っ…」 声帯を動かそうとするだけで、呪いの荊棘が首を締め上げる。 こんな痛みが何だ。 アルジュナは自分を庇って槍に貫かれても、戦っている。 彼の痛みに比べたら、どうということはない。 空気が吸えなかろうと、この一瞬、息を吐き出せればよいのだ。 咽喉が破れようと肺が潰れようと、構ったことか。 そうなったら、そのときはそのときだ。 大きく息を吸ってから、アルジュナに向けて右手を力強く突き出す。 「…っ…!!」 凄まじい激痛が喉を襲い、呼吸が止まる。 それでも歯を食いしばり、喉に絡みつく見えない戒めを引き剥がすように、全力で肺の中の空気を絞り出した。 「令呪をもって命じる!アーチャー霊基修復!次いで宝具解放!」 天にも届けとばかりに轟いた立香の叫びに応じて、右手の令呪が赤い光を放つ。 「マスター!?」 その声に思わず振り返ったアルジュナの体を柔らかな光が包み、傷が瞬時にふさがって全身に魔力が満ちる。 「いけ、アルジュナ!!」 渾身の叫びとともに、立香が崩れ落ちるのが見えた。 「リツ…!!」 しかし今は彼女が命がけで託してくれた力でもって、やるべきことがある。 破壊神の青い閃光が、敵を焼き尽くした。 「…リツカ…リツカ!!」 大木の根元に蹲るように倒れていた立香は、呼吸をしていなかった。 慌てて抱き起こして胸に手を当てると掌に心臓の鼓動が伝わってきて、彼女がまだ生きていることに安堵するが、状況は一刻を争う。 呪いによって声を出せなかったはずの立香が、あのとき確かに叫んだ。 自分の名を呼んだ。 恐らくはただの気合いと根性だけで呪いを跳ね除けて自分に勝利を与えてくれたであろう彼女を横たえて顎を上げさせてから覆い被さり、重ねた唇から息を送り込む。 止まってしまった呼吸を蘇らせようと人工呼吸を繰り返すうちに、びくりと体が跳ね上がった。 「っっ…!」 大きな琥珀の瞳が見開かれ、慌てて酸素を取り込もうとして却って喉を詰まらせて盛大に咳き込む。 立香を抱き起こし、全身を震わせながら涙を滲ませて必死に酸素を求める彼女の背を撫で、 「落ち着いて。ゆっくり息を。」 呼吸に合わせて撫でているうちに、だんだんと呼吸が落ち着いてきた。 通常の呼吸が完全に回復したところで、安堵にさすがのアルジュナの肩も落ちる。 「貴女は何という無茶を…」 「ごめん…」 ごく普通に応えてから、互いに顔を見合わせた。 「あれ?」 「マスター、声が…!」 はっとして首を触るが、どこも痛くない。 呼吸もできる。 「やった治ったー!!!!げほっ、ごふっ…」 大声をあげすぎて、今度はむせてしまった。 何をやってるんですか、と背中を叩いてくれたアルジュナに、立香ががばと抱きついた。 「ごめん、ごめんねアルジュナ!私のせいであんな怪我して…!もう痛くない?ちゃんと治った?」 「ご心配をおかけして申し訳ありません。おかげさまで、もうなんともありません。」 「…私の盾になるなんて、もう…もう絶対やめて…!」 立香の声が震えている。 「あのとき敵の槍を射落とすには、槍がもう貴女に近すぎました。射落とした衝撃で砕けた破片がそのまま貴女に突き刺さってしまうため、私の体で受けることを選んだのです。」 「だからって…もしアルジュナに何かあったら私…」 アルジュナの肩に顔を埋めたまま、首を何度も横に振る。 自分のせいだ。 一緒に帰ろうと約束したのに、危うくそれをできなくするところだったのは、自分だ。 情けなくて涙がぽろぽろこぼれてしまう。 ぎゅうぎゅうと抱きついて涙をこぼす立香を、そっと抱き返してくれた。 「貴女にあんな無茶をさせてしまった私こそ、不甲斐なく情けない。倒れる貴女を見たときは、危うく宝具の威力を制限するのを忘れるところでした。」 「だめ、だよ…それじゃ世界が滅んじゃう…」 泣いていた立香の声に、やっと笑いが滲む。 立香の体を抱く腕に力を込めた。 細くて小さい、世界の命運を背負うには、頼りなさ過ぎる体だ。 「…貴女の声が出なくなったとわかったとき、目の前が真っ暗になりました…」 「頼りないマスターでごめん、アルジュナ…」 「いえ、そうではないのです…貴女の声がどれほど私の耳に心地よいものだったかを思い知りました…」 「え…」 耳元で囁かれた声のあまりに切ない響きに、呪いとは全く違う痛みとともに喉の奥がきゅっと詰まる。 「…そして、もう貴女が私を呼んでくださることがなくなってしまうのではないかと…絶望で震えそうでした…」 それって、どういうこと…? 触れあっている頬が、互いの熱以上に熱くなる。 「私の名を呼んでください、リツカ。」 「あ…アルジュナ?」 「はい…もっと呼んでください…」 「アルジュナ…アルジュナ…アルジュナ…ほんとにこんなんでいいの?」 「ええ。いいのです。」 あまりに満ち足りた声音に、恥ずかしくなってきた。 しかも今、思い切り抱き合っている状態だ。 心臓が暴走して口から飛び出しそうである。 でも… 「私もね…」 頬の熱に浮かされて、これくらいは言ってしまってもいいかもしれない。 広い背中に回した手にぎゅっと力を込め、 「すごく、怖かった。このまま声が出なかったら、マスターじゃいられなくなっちゃうんじゃないかって…皆と…アルジュナと一緒にいられなくなるなんて、絶対にいやだって思って無理矢理叫んじゃったら、呪いも解けたみたい。」 全身の空気を吐き出すような、深い深いため息がアルジュナの口から漏れる。 「…貴女という人は、本当にめちゃくちゃだ。」 「知らなかった?」 「いえ、よく存じております。だからこそ―」 「―」 立香が発しようとした声は、重なってきた唇によって遮られた。 召喚サークル設置ポイントで合流したときには、全員傷だらけではあったものの、いずれも無事だった。 「マシュが川に流されたときはびっくりしたけどねー。」 「水深を見誤った俺のせいだ。すまない…」 「すぐに助けてくれたじゃないですか。ジークフリートさんは余裕で背が立つ深さだったんですから、仕方ないですよ。」 マスター抜きで動かなければならなかった三人も、苦労してここまでたどり着いたようだ。 そんな彼らを心配させまいと、シャドウランサーの群と戦ったことを黙っている立香に倣ってアルジュナも何も言わず、血まみれになってしまった礼装も霊基を修復した際に傷と一緒に直ったため、重傷を負ったこともばれていない。 立香が自らの言葉で呪いが解けたことを伝えると、マシュは抱きつかんばかりに喜んでくれた。 本当は抱きつこうとしたらジャックに先を越され、抱きつき損ねてしまったというところのようだが。 「ああよかった先輩!どうやって治せたんですか?」 「え?いや、なんかよくわかんなくて…気がついたら治ってたって感じ?」 「ええ、本当に。何故でしょうね。」 涼しい顔でしれっと応えるアルジュナを見上げたが、ぼん、と音を立てて己が?に血がのぼった気がして、思わず視線を逸らしてしまった。 そんな立香を横目に見るアルジュナが、これまでに見たことがないほどに柔らかい笑みを閃かせたことに気づいたマシュが、二人を見比べながら首をかしげた。 ともあれ理由はわからずとも呪いは無事に解けたようではあるが、本当に解けたのか、何らかの副作用などはないかなど確認する必要があり、予定通りにカルデアに帰還した。 最悪な通信状態の中でもかろうじて状況だけは把握しており、準備を整えてくれていたロマ二が急いでチェックしたところ、バイタルは問題なし。 呪いについてはマーリンがチェックしてくれ、こちらも完全に解けて後遺症もないと確認された。 「なんで解けたんだろ?無我夢中で叫ぼうとしたら、声出せたんだよね。」 「まあ、そうややこしい術式の呪いではなかったようだし、術者も消滅していたから、ど根性の力技で解けたのかもね。」 言いながら、立香の喉を見るマーリンはやけににやにやとしている。 その表情は気になったが、呪いが解けたという喜びの方が勝って、いそいそと襟のボタンをしめる。 「まあ、もう心配ないから大丈夫だよ。君を心配してさっきから廊下を行ったり来たりして待ってる英雄に報告しておいで。」 手をひらひらと振って医務室から立香を追い出すと、廊下から 「アルジュナー!もう大丈夫だって!」 「そんな大声を出さずとも、聞こえていますよ。」 「へへ、声出せなかった反動?」 楽しげに弾む声が、元気のいい足音とともに遠ざかっていく。 「にしても、彼女じゃ解呪なんてできないだろうに、うまく解けてくれてよかったよねえ。」 カルテをしまいながらロマ二が笑うと、 「ははは、姫君の呪いを解くのは王子のキスだと、昔から相場が決まってるのさ。」 楽しそうに笑うマーリンが自分の咽喉を指先でつついてみせると、何か察したらしいロマ二が苦笑してため息を吐いた。
fin.
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