藤丸探偵事務所


 立香はごく普通の女子大生だったが、就職活動を始めようとした段階で祖父から探偵事務所を継ぐよう打診された。
「いや、確かに夏休みに電話番のバイトは何度かさせてもらったことあるけど、探偵なんて絶対無理!!」
 全力で断ったのだが、大学卒業を目前にして祖父の急死とともに問答無用で継がざるを得なくなってしまった。
 ある科学系研究機関に事務員として就職も決まっていたこともあり、親に相談しても、「おじいちゃんのたってのお願いなんだから、少しやってみて駄目なら考えれば?あの内定先、なんか胡散臭くてブラックそうだし。」と気楽に言われてしまい、小学校教諭の忙しい兄には相談しづらく、大好きだった祖父からの最期の願いということもあり、結局立香が折れる羽目になった。
 急死と言えどいろいろと準備はしていたようで、きちんと孫娘宛に遺言を遺しており、それには「しっかりした助手を手配してあるから安心するように。」とあった。
 とりあえず一人ではないことに安心はしたが、そもそも探偵など、何をすればいいかわからない。恐らくその助手という人に頼りっぱなしになってしまうだろうと思うと、申し訳無さで頭痛の種にしかならなかった。
 大学に在籍している三月いっぱいは探偵事務所には臨時休業の看板を出しておき、その間に散らかった事務所を片付けて準備をする。
 そして三月末、立香が探偵事務所の掃除をして祖父が遺した資料などを見ていると、インターフォンが鳴った。
「え!?まだ臨時休業って出しているのに!今依頼なんて来ても絶対無理!!」
 セールスなどであるようにと祈りつつ、恐る恐る扉を開けると、扉の前に立っていたのは予想を大きく外れた人物だった。
 褐色の肌に艷やかな癖のある黒髪、仕立てのいいスリーピーススーツをまとった目が覚めるような美青年だが、どう見ても日本人ではない。
―え、いや、いきなり外国人とか、ハードルどころかもはや壁だよおじいちゃん…
「は…はろー…?」
 緊張で固まっている立香に、
「はじめまして。私はアルジュナ・パーンダヴァと申します。貴女のお祖父様より、貴女の助手を務めるよう依頼されて参りました。」
 美しい顔にふさわしい、耳に心地よい声で紡がれたのは、流暢な日本語。
「は?あ、え、ああ助手の方!お待ちしていました!」
 日本語も話せて依頼人ではないとわかって安堵したが、まさかの外国人とは。
「ふ、藤丸立香です、パーンダヴァさん。」
「アルジュナとお呼びください、フジマルさん。」
「あ、はい、では私も立香と呼んでください、アルジュナさん。」
「敬称は不要です。」
「えー…じゃあ、いろいろとご迷惑をおかけしちゃうと思いますが、よろしくお願いしますね、アルジュナ!」
「ええ、こちらこそよろしくお願いいたします、リツカ。」
 こうしてド素人立香と謎の外国人アルジュナとの探偵生活が始まった。

 アルジュナはインド系イギリス人だそうで、ケンブリッジ大学を飛び級して十代で卒業した挙げ句に法務の勉強のためにロースクールを出たという、とんでもスペックの人だった。
「イギリスと言えば探偵の本場だよね。ホームズ大好きだった!」
「私もホームズは愛読していました。しかし申し訳ありませんが、私自身は探偵業をやったことはありません。それでも弁護士事務所にも所属していたため、ある程度は把握しておりますので、お力にはなれるかと思います。」
「それにしても、そんなすごい人が日本で私の手伝いなんてしてていいの?」
 最初に立香が敬語で話しかけた際、「敬語も不要です。ただ、私はこれで日本語を覚えてしまったので、ご容赦ください」と言われたため、四歳年上だというアルジュナ相手でも友達に話すような感覚で話しかけるようにしている。
「お気になさらず。私の意思でやっていることです。」
「お給料…そんな出せないよ?」
「別に収入を得ておりますので、不要です。」
「マジすか…」
 立香の祖父と知り合ったのはイギリスだったとのことだが、何故地球の反対側で小さな探偵事務所の助手なんかになったのかと聞いても、完全無欠の営業用スマイルでかわされてしまうのが常だった。
 それでも、彼の存在は非常に助かる。
 非常に礼儀正しく、事務的ではあるが来客への対応も完璧だ。
 相変わらず謎の部分が八割以上の人だが、立香がわからないことや困ったときには懇切丁寧に教えてくれて経理業務もこなしてくれるため、いきなり一人で知らない世界に放り出された新社会人にとっては何より頼もしく、アルジュナを紹介しておいてくれた祖父に感謝する日々だった。
 そして、依頼人は思ったよりも来た。
 生前の祖父が築き上げた信頼のおかげだが、捜し物など地味なものが多いのはありがたい。むしろ派手な事件などは、ドラマの世界でしかないものなのだろう。
 今日も祖父が作ってくれたマニュアルを読みながら勉強していると、軽やかな音を立ててインターフォンが鳴った。まだ、来客があるとついびくりとしてしまう。
 簡単な仕事でありますように、と願いつつ訪問者を迎え入れると、落ち着いた雰囲気の女性と、彼女にしがみつく小さい女の子がいた。
 母娘だという二人を来客用のこぢんまりとしたソファに促しても、女の子は母親にしがみついたままぼろぼろと泣いており、どんな厄介な依頼を持ち込んできたのかと身構えていたところへ、アルジュナがお茶を淹れて出してくれた。母親には紅茶を、女の子にはジュースを出してくれているあたり、そつがない。
 女性は正面に座る若い立香と外国人であるアルジュナに少し驚いたような顔をしたが、お茶を一口飲んでから、口を開いた。
「ごめんなさい、以前お願いしたときは、お年を召した…」
「ああ、それは祖父です。祖父が亡くなったもので、私が継ぎました。」
「まあ、そうだったのですか…お悔やみ申し上げます。お祖父様には以前、私の離婚の際にお力を貸していただいたのですよ。いろいろあったものですから、私や娘のことまで、何から何まで頼らせていただきました。」
 指先で撫でた女の子の頬には、薄くなってはいるものの、無残な縫合痕があった。
 恐らくDVか何かから逃げるための調査を請け負ったのだろうが、祖父は優しい人だったから、仕事以上に母娘を助けたのだろうと思う。
―もしそんな仕事がきたとき、私にそこまでできるかな…
 今すぐは難しいだろうが、なんとか祖父が築き上げた信頼を壊さないようにしようと自らを鼓舞する。
 しかし今回の依頼は、身構えたほどに大変なものではなかった。
「ねこ!おうちのマリアちゃん探して!わたしたちの家族なの!」
 大きな目にいっぱいの涙を溜めた女の子が、猫の写真を何枚も出してきた。
「一昨日の夜に、鍵が甘くかかっていた窓を自分で開けて脱走してしまったのです…必死に探したのですが、まだ帰ってこなくて…」
「探して、探して!きっとひとりぼっちになっちゃって泣いてるよ!」
 泣きながら頼む女の子に、咽喉の奥がきゅっとする。
 立香は女の子の手を握り、
「うん、わかったよ。きっと見つけて、お嬢ちゃんのおうちにマリアちゃん帰してあげるね!」
「ほんと!?」
「だから泣かないで、ね?」
「うん…約束だよ、おねえちゃん!」
 慌てて目をこすって涙を拭う女の子と、指切りをした。
 母娘が帰ったあと、食器を片付けながら、
「ペット探しで、絶対という約束は難しいと思いますよ。もしかすると、事故に…」
 アルジュナに釘を差された。
「うん、わかってる。」
 依頼の書類と写真を見る立香の表情は、真剣だ。
 写真には、猫をだっこして満面の笑みを浮かべる女の子が写っている。
 写真の中の彼女の頬の縫合痕は、先程見たものよりも生々しい。
「顔にこんなひどい怪我をした子がすっごく幸せそうに笑って写ってる。何があったかは知らないけど、きっとすごく辛いことがあったと思うのに、こんな笑顔になれるくらい大事な猫なんだよ。せっかく泣かなくてすむようになった子が、またあんなに泣いちゃって…そんなのは絶対だめ。だから、何が何でも見つけてあげなくちゃ。」
「……」
「無事でいてくれるといいけど…ペット探しだから気楽な仕事だなんて思ってちゃだめだね。あの子にとっては大事な家族が行方不明になっちゃった、人生の一大事なんだから。」
 小さい女の子の涙に、自分の心得違いを思い知らされた。
「まだ初心者だからって、甘えてられない。依頼する人には関係ないんだもんね。」
 自分自身に言い聞かせるような立香を黙って見つめていたアルジュナの目が、ふと柔らかさを帯びる。
「わかりました。私も全力で探しましょう。」
「うん、頑張ろうね!て、珍しくいい笑顔だ!」
「は?」
 虚を突かれたのか、これまた珍しくきょとんとした顔をする。
「だって、さっきもそうだったけどいっつも完璧な営業用スマイルばっかだし。せっかく超イケメンなんだから、そういう自然な笑顔のほうがいいよー。」
「……」
 立ち尽くすアルジュナに気づかず、立香はソファから立ち上がって細い腕に盛り上がりもしない力こぶを作って気合を入れている。
「…頑張るのは結構ですが、初心者なのは事実です。おさらい、するでしょう?」
 先程まで立香が読んでいた、祖父の業務マニュアルを渡される。
「おお…至れり尽くせり、ありがとう…」
 持ち上げた尻を再びソファに沈め、いそいそとペット探しの基本が記載されたページを読み始めた立香を見つめるアルジュナは、自分の顔に手を当て、小さく首を傾げた。

 脱走した猫の保護は、保健所や警察に届けられていないことを確認し、いないとわかれば目撃情報を集めに行く。
 猫の活動範囲と思われる地域で情報を集め、実際に猫を探し、それでも見つからなければビラを貼ったり配ったりする…と祖父が立香のために作っておいてくれた業務マニュアルにあった。
 というわけで、猫の活動時間である夜に依頼人の家の周辺を捜索しはじめた。
 が、始めて十分も経たないうちに、
「おや、あの猫では?」
 アルジュナが指さした先に、塀の上でちんまりと座っている猫がいた。
 写真と見比べると、顔や模様、首輪の特徴まで一致する。
「え。早っ!」
 依頼人の家から100m程度しか離れていないのではないだろうか。
「マリアちゃん?」
 好物だと聞いて持ってきていた猫用おやつを手に名前を呼んでみると、こちらにとことこやってくる。人懐っこいとは聞いていたが、こんなに警戒しない猫も珍しい。立香が撫でても、逃げもしない。
 そのままだっこして、アルジュナが持ってきていたキャリーケースに入れて、あとは依頼人に確認するだけとなった。
 あまりにあっさり捕獲できて、違う猫だったのではないかとも思ったが、見事正解だったらしい。
 女の子は猫を抱きしめながら泣いて喜んでくれて、この件は一晩で完了してしまった。
「ああ、よかった!」
 同じ涙でも、嬉し泣きは良いものだ。
「またアルジュナのおかげかなー。」
「はい?私は何もしていませんよ?」
「だって、アルジュナと何か探したりすると、何でだか目的のものが向こうから来てくれるじゃない。それで簡単に終わってばっかだよ?」  そう、アルジュナの存在の何が一番ありがたいかと言うと、何故かこうして案件に係るものが向こうからやってきてくれることがやたらと多いのだ。
 浮気の現場を押さえろと言われれば速攻で証拠写真を撮れる状況に出くわしたり、こうして探しものをすればあっさりと見つかる。
 立香だけではだめでアルジュナが一緒にいると起こる現象だが、仕事が早いという評判になるのはありがたい。
「確かに、昔から何故かとても運がいいのは確かですね。…だからこそ、今ここにいるのですが。」
 後半はほとんど口の中で紡がれたもので、立香にはよく聞こえなかった。
「え?なんて?」
 きょとんとした顔で見上げる立香に軽く笑みを返し、
「いえ、なんでもありません。今日は遅いので、お送りします。」
 ここまでも、アルジュナの車で来た。
「あー…ひ、一人で帰れるから大丈夫だよ。」
「いえ、安全な日本とはいえ、夜に若い女性を歩かせたくありません。」
 レディファーストをごく自然にやってのけたり、アルジュナはとにかく紳士だ。
 そして、どう見てもとんでもなく金持ちだ。
 駐車場に着き、そこに停まっているメタリックな濃紺のポルシェの911カレラに視線を馳せる。
 車には詳しくないが、一千万超の高級車ということくらいは知っている。
 アルジュナは車通勤で、いかにも紳士らしく帰りには毎度送ろうかと申し出てくれる。
 こんな車で乗り付けられるような御大層な家に住んでいないので恥ずかしいが、毎回断ってばかりも悪い気がして、今日は送ってもらうことにした。
「……うちのボロいアパート見ても笑わないでよ?」
「女性がセキュリティレベルの低い家に住むのは感心しませんが、そんなことで笑いませんよ。」
 断られなかったのが嬉しかったらしく、ぱっと閃いた予想外に無邪気な笑顔に思わず顔が熱くなり、ばれないように慌ててアルジュナがドアを開けてくれた車に乗り込んだ。
 シートが体にフィットする感じで少々窮屈だな…後部座席なんて人が座れるサイズじゃないし…などと思う立香が、この車が一千万どころか二千万を軽く超えるモデルだと知ったら、腰を抜かしていたかもしれない。


 ある夫の浮気調査をしたところが、妻に内緒でジムに通っていただけで浮気ではありませんでした、という調査結果の報告を無事に終え、業務を終了した。
 調査結果が相手を悲しませるものではないときは、こちらも明るい気分で仕事を終えられる。
 今日も「送りましょうか?」と申し出られたが、
「ありがとう、でもいいよ。帰りに買い物していきたいし。」
「そうですか…では、お気をつけて。」
 最近は残念そうな顔を隠さなくなったアルジュナに少し気が咎めつつ、駐車場とは逆方向にある駅に向かうために事務所の前で別れる。
 今日は駅前のドラッグストアがポイント五倍デーだから買いだめしよう…などと考えながら近道である人通りの少ない裏道を抜けていく。
 買うものを考えながら歩く立香は、右後方から低速で近づくワンボックスカーに気づいていなかった。
 そしてワンボックスカーが立香を追い抜こうというとき、ようやく気づいて道の端に寄った立香の真横でスライドドアが開いた。
 走りながらドアを開けたことに違和感を感じてふと視線を馳せた瞬間、車内から伸びた男の手が後ろから立香の口を塞ぐ。
「!?」
 同時に腕も掴まれて車内に引きずり込まれそうになって必死に抵抗するが、男の力に敵わない。
「〜〜〜〜っっ!!!」
―誰か助けて!!
 恐怖でこぼれそうになる涙を両目をぎゅっと閉じることでこらえて、声にならない叫びを上げた瞬間、後ろから何かが潰れるような鈍い音がした。
 同時に口と腕から手が離れ、手前に強く引っ張られる。
「!」
 何事かと目を開ければ、見たこともないほど怖い顔をしたアルジュナが立香を背に回して立ちはだかっている。
 鼻を押さえた男が悶絶して車内に倒れ込み、まさかの闖入者による反撃に慌てて後部座席から出てこようとしたもう一人の男に、その長い脚で蹴りを食らわせる。車内の奥に蹴り込まれた男も動かなくなり、ワンボックスカーはドアを開けたままで慌てたように急発進して逃げていった。
 その間、一分もかからなかったのではないか。
「リツカ、ご無事ですか?」
 ぺたんと座り込んで呆然としていた立香の前に膝をついたアルジュナの声に我に返り、反射的にしがみついた。
 一瞬驚いたようだが、そのまま抱えて髪を撫でてくれる大きな手に安堵して、思わず泣きそうになる。
「貴女と同じ方向へ行く妙な車を見かけたもので、念のために様子を伺っていてよかった。」
「ああああありがとう助かったぁぁぁ…」
 我ながらみっともないくらいに声が震えて上ずっている。
 突然のことに感情が追いついていなかったが、今になって恐怖が襲ってきた。
「怖かったでしょう、リツカ。私が来たからには、もう大丈夫です。」
 がたがたと震えている立香を、アルジュナは根気よくあやすように撫でてくれている。
 ややあってから少し落ち着いてくると、アルジュナにしがみついていたことが恥ずかしくなって慌てて体を離した。
「あ、ありがとう、もう大丈夫…アルジュナ、強いんだね。格闘技かなんかやってたの?」
「ええ、いろいろと。おかげで貴女を守ることができました。」
 本当に、何者なんだろうか。
「立てますか?」 「う、うん…」
 差し出された手を借りて立ち上がろうとしたが、膝が笑ってへなへなと崩れ落ちる。
「うわ、腰抜けたとか、みっともな…」
 恥ずかしくて顔を真っ赤にしながら笑ってごまかそうとした立香の体が、ふわりと浮いた。
 何が起きたか把握した瞬間、さらに赤面することになる。
 お姫様抱っこされていたのだ。
「っうええっ!?」
「買い物は後日になさい。今日はお送りいたします。」
 足をばたつかせてもよろめきもせず、軽々と抱えたまま歩き出す。
「ひいいいいいい…」
 誘拐されかけた上にインド系イケメンにお姫様抱っことか、どこかに「ドッキリ」の札を持った人が隠れていやしないか。
 しかも抱えられていると、すらりとした見た目にそぐわぬ怪力の主であるアルジュナの筋肉質な胸板や腕を感じ取れてしまい、もはや恥ずかしさで死にそうだ。
 すれ違う人に振り返られても問答無用で運ばれていき、911カレラのシートに恭しく下ろされるまで生きた心地がしなかった。
 車を走らせながら、先程のワンボックスカーがいないか確かめているようだが、幸い奴らは逃げ去ったようだ。
 それでも念の為と遠回りをしながら立香の家まで送ってくれた。
「ありがとう…」
「部屋までご一緒しましょう。」
 ブルジョワにド平民の住処を間近で見られるのは恥ずかしかったが、先程の恐怖がまだ拭いきれず、親切に甘えることにした。
 大学に進学時に一人暮らしを始めたときから住んでいる、ごく普通のこぢんまりとしたアパートの外階段を二階に上がる。
 そして部屋の鍵を開けようとして、立香が首を捻った。
「あれ…」
「どうしました?」
「鍵、開いてる…」
 いつも施錠したあと、ドアノブを捻ってきちんとかかっているか確認する癖があり、今朝もそうしたはずだ。
 それなのに…つい先程誘拐されかけたばかりなこともあり、背筋が凍りつく。
「下がっていてください。」
 指紋をつけないためかハンカチで手を包み、失礼、と一言添えてアルジュナがドアを開けて部屋の電気を点けると、その室内は無残な状態となっていた。
 彼の背中から覗いた立香が悲鳴を上げる。ワンルームの室内は嵐のあとのように家具がひっくり返され、めちゃくちゃになっていた。
 慌てて部屋に飛び込もうとする立香を抑え、
「早く警察へ電話を。室内のものに触らないように。」
「あ、う、うん!」
 空き巣に入られたと通報すると、すぐに来てくれた。
 調べた結果、お金は(ほとんどなかったが…)盗られておらず、祖父の自宅にあって事務所にまだ運んでいなかった仕事関係のものをまとめて「おじいちゃんの荷物」と書いておいたダンボール箱が消えていた。
 わずかなお金とささやかなアクセサリーは無事でも、家具が壊れて食器が割られ、立香としてはダメージが大きい。
 結局その日は捜査や諸々の手続きのために警察署でほぼ徹夜することになってしまい、終わった頃にはへとへとだった。
 とりあえず近くの24時間営業のファーストフードの店に入って熱いコーヒーを飲む。
「なんかつきあわせちゃってごめん…」
「いえ、お気になさらず。空き巣と貴女が鉢合わせしなくてよかった。」
「うん…でも、おかげで助かった。あんなことがあったあとに空き巣とか、一人だったらパニックになってたかも。」
「お役に立てたなら、何よりです。」
 ふあ、と欠伸をした立香に
「少しお休みになっていいですよ」
 と促すと、素直にテーブルに突っ伏した。
 よほど疲れていたのか、あっという間に寝てしまった立香の背中に、アルジュナは自分のジャケットを着せかける。
 立香に向けられたアルジュナの視線は、柔らかい。
 しかしそんな表情から一変、うすらぼんやり夜明けの気配が感じられるようになってきた窓外の街に向けられた顔は険しいものとなった。
 立香の誘拐未遂、空き巣に祖父の遺品が盗まれた件は、誰が考えてもつながっているとしか思えない。
 あのとき立香を襲った男を捕まえればよかったと後悔しつつ、立香が目を覚ますまで思案に耽っていた。


 立香はしっとりとした革の感触が心地よいソファに座り、身を縮めていた。
 今日は平日だが、探偵事務所は臨時休業だ。
「どうぞ。」
 アルジュナがミルクをたっぷり入れた紅茶をガラステーブルに置いてくれる。
「あ、ありがとう…」
 ぎこちなく応えた立香は今、アルジュナの家にいた。
 誘拐未遂犯と空き巣は恐らく同一だと考えると、立香は家まで知られていることになる。
 至急、身の安全を確保する必要があるが、実家は遠く、友達も巻き込みたくないため、セキュリティが万全なアルジュナの住むマンションにしばらく厄介になることになった。
 広い。
 この家に立香の部屋どころかアパートもまるごと入ってしまいそうだ。
「なんか迷惑かけっぱなしだね…それに、アルジュナだって狙われたら…」
「迷惑などと、全く思っていませんよ。貴女を助けるために介入していますから、この件に関しては既に関係者です。私自身についてもご心配なく。」
 ゲストルームには寝具もあり、立香一人転がり込んだところで何も問題はない。
 着替えや化粧品など必要なものは自宅から運んだが、空き巣被害の捜査のためにかなり持っていかれてしまっており、足りない分はアルジュナが買ってくれた。
 いつもはファストファッションやプチプラの服や化粧品を使っているが、いずれも桁が違うブランド品である。
 百貨店に連れて行かれてブランドショップで値札も見ずに立香に似合うものを選び、見たことのない色のカードで買うアルジュナの後ろで、好奇心いっぱいの視線を浴びる立香はいたたまれず、
「あの、こんなすごいのじゃなくても…」
「緊急のことで、既成品で申し訳ありません。」
「え、いや、その…とんでもないです…」
 心底申し訳無さそうなアルジュナにぴったり合った仕立ての良いスーツやシャツは、恐らくオーダーメイドなのだろう。
 遠慮しすぎるのも却って失礼だと思い、大人しくお任せすることにした。
 それでもさすがに下着は自分で買わせてもらったが、買ってもらった服が高級品すぎるため、ついいつもより奮発してしまった。
 さらに若い男の家に居候という展開で、緊張するなと言う方が無理だ。
 何しろ、異性の友人はいるものの何故かいずれも交際には発展せず、彼氏いない歴=年齢なもので、異性の家に一人で来たことさえ初めてなのだ。
 それでも連続で怖い目に遭ってしまったため、一人で怯える必要のない状況は何とも有難かった。
 香り高くおいしい紅茶を飲んで体が中から温まってくると、ようやく落ち着いてきた。
「あいつら、おじいちゃんが遺した何かを狙ってるらしいんだよね?」
「奴らが盗んだものを考えると、そう考えるのが妥当でしょう。目的がわかれば簡単なのですが…」
「でも、なんで事務所には来ないんだろ?」
「そういえば、お祖父様から継いだ事務所に初めて入ったとき、やけに散らかっていたとおっしゃっていましたよね。」
「うん…あ!もしかして、そのときにはもう家探しされてたあとだったとか!?」
「私はその状況を見ていないために何とも言えませんが、可能性は高いかと思います。」
「うっそーん…もうやだ、私鈍すぎでしょ…」
 当時、「もう、おじいちゃんてば、だらしないなあ!」などと悪態を吐きながら掃除をした自分の探偵としての眼力のなさに絶望しか感じない。しっかり拭き掃除もしてしまったので、侵入者の痕跡も何も残っていないだろう。
「あなたは大学を卒業したばかりの素人なのですから、仕方ありません。むしろ、下手に怪しんで調べようとしなかったのがよかったのではないかと思います。」
「うう…そりゃそうだけど…」
「まずはお祖父様の資料から、何かそれらしいものがないか調べましょう。」
「うん…そうだね。」
 今日はお疲れでしょうから、ゆっくりお休みください。との申し出に、空き巣のせいで寝不足の立香はありがたく従った。

 祖父は過去の記録を丁寧にファイルに残してくれていた。
 それらをきちんと時系列を追って並べてみると、いくつか抜けがあった。
 祖父は業務ファイルの他に小さな手帳にもメモを残しており、幸いそちらは立香が携帯していて無事だったため、何が抜けているかはそこから調べることができた。
 残った祖父の記録を、立香が読み上げていく。
 アルジュナは日本語の会話は達者で読み書きもできるが、本人曰くまだ小学生レベルとのことで、難しい漢字や祖父の手書きの崩し字を読むには苦労するからだ。
 とにかく、早く解決したい。
 下手に長引かせて、家族にまで被害が及んではたまらない。
 しかし、依頼人から何かを受け取ったという記述があっても、その返却日はきちんと記録されている。預かりっぱなしのものなどない。そして手帳のメモにはそこまで詳細は書かれていないため、ファイルがない案件での物品のやりとりなどはわからなかった。
 やはり盗まれたファイルの分がポイントになるだろうが、それも複数あって、メモの内容だけでは絞りきれない。
「こうなったら、ファイルがない分のお客さんに聞いてみるしかないかなあ…みっともないけど。」
「なら、この案件に書かれている担当弁護士は知人ですので、私から聞いてみます。」
「よろしく!あーもーおじいちゃんてば、こんな大変なことがあるなんて聞いてないよ…」
 ソファに埋もれるように天井を仰ぎ、立香は祖父に悪態を吐いた。


 何の進展もないまま、舞い込む依頼を必死にこなしているうちに、一か月以上経ってしまった。
 自然消滅するように有耶無耶になって終わるのでは?と思ってしまいそうなほど、平穏だ。
 その日は、朝からアルジュナが外出していた。
「申し訳ありません、銀行に用がありまして、どうしても外出しなくてはなりません。」
 まだ詳しくは教えてもらっていないが、どうやらアルジュナはヨーロッパ、北米、アジアにかけて複数展開する高級ホテルのオーナーらしい。
 なるほど、道理でブルジョワなわけだ。
 実務は基本的に腹心に任せて、いつもはパソコンなど通信機器を使ってそちらの仕事をしているようだが、自分で出向かねばならないこともあるらしい。
 まだ事件が解決していない今、立香一人で探偵事務所にいるのは危険なため、その日は臨時休業となった。
 そういうわけで今日は立香一人でアルジュナの家で留守番だ。
「貴女がこの家にいることは奴らに把握されていると思います。ですから、絶対に外には出ないでください。」
 きつく念を押されてしまった。
 このだだっ広い部屋に一人だと寂しいな…などと思っても、仕方がない。
 そういえば、アルジュナの家に転がり込んで以来、一人きりになることはなかった。お風呂やお手洗いはもちろん別だが、呼べば声が届くところに常にアルジュナがいた。
 日々の買い物でもボディガードのように周囲に目を配りながら必ず付き添い、絶対に立香を一人にしなかった。
 それでもスーパーマーケットでの買い物が物珍しいらしく、いろいろなものに興味を示すアルジュナを連れての買い物は、なかなか楽しいものだった。
 そんなわけで久しぶりの一人きりの状況だが、家から出ることもできないため、とりあえず家事を片付けることにした。
 何かをしていないと、寂しさを痛感してしまいそうだったから。
 アルジュナはブルジョワらしく、掃除はハウスクリーニングを依頼し、洗濯物もクリーニングに出している。
 立香が来るまで、掃除機どころか洗濯機やアイロンもなかった有様だ。
 しかしちょっとした日々の掃除や洗濯は自分でやりたいため、それらを買ってもらって自分でなんだかんだとやっていた。
 初めはさすがに下着を洗われるのにはアルジュナも難色を示して、
「使い捨てにしていますから…」
 などとブルジョワ発言が飛び出したが、
「お父さんやお兄ちゃんのも洗ってたから気にしない!」
 と、押し通してしまった。
 そして実際に洗う段になって、家族とは違う男の下着というものに恥ずかしさを感じてうろたえてしまったが、今はもう慣れたものだ。
 洗濯物と掃除も午前中に終わってしまい、簡単に昼食をすませ、さて午後はどうしよう…食材の買い置きはあるから、夕食にちょっと手の込んだものでも作ろうかなどとぼんやり考えていたところで、インターフォンが鳴った。
 立香のアパートと違って、マンション入り口のオートロックに来た相手がモニターに映る。
「はーい?」
 応答すると、
「藤丸さん、お荷物です」
 と返答が来る。確かに有名な配送業者の制服だが、念の為に差出人を確認すると、母の名を言って中身は食料品だと答える。
 ああ、お母さんが何か送ってくれたのか。
 母は数ヶ月おきに、お米など食料品を送ってくれるのだ。
 じきに廊下から、がらがらとカートを押す音が聞こえてくる。
 そして部屋のインターフォンが鳴り、モニターで先程の配送業者だと確認してから部屋の鍵を開けた瞬間、肝心なことを思い出して背筋が凍った。
―お母さんに、ここの住所伝えてない!
 何故、忘れていたのか。
 己の迂闊さに青褪めて、慌てて鍵を閉めようとするより先に、強くドアを引き開けられた。


 冷たいコンクリートの床に、粘着テープで手足を縛られた立香が転がっていた。
 常に携帯していた防犯ブザーを鳴らすどころか声を上げる間もなく、配送業者を装った男にスタンガンを押し当てられ、身動きできなくなった隙に粘着テープで拘束されて誘拐された。
 カートに押し込まれたまま車で運ばれているらしい音と振動くらいしかわからない状態で、やがて動かなくなり、音もしなくなった。
 どうやらどこかに放置されているようだが、どうしようもないまま時間が過ぎる。
 そしてふいに周囲が騒がしくなったかと思うとカートを倒され転がり出て、今に至るというわけだ。
 せっかくアルジュナが買ってくれたかわいいブラウスが汚れてしまったのが悔しく、それでもせめてスカートではなくパンツを穿いていてよかった…などと場違いなことを考えながら周囲を見回す。
 どこかの倉庫のようで、最小限に灯されたランプに照らされた大きなコンテナがいくつもある。
 わずかに見える外は暗く、昼過ぎに誘拐されてからかなり時間が経っている。
 口にも粘着テープを貼られて声を上げることもできない立香の前に、目出し帽をかぶった男が五人いた。
 彼らは、立香が一人になるときを狙っていたのだ。
 立香がこうならないようにずっとアルジュナが側について守ってくれていたのに、平和ボケした自分が一人で迂闊な行動をしてしまったがために、このザマだ。
 どうしよう。
 でも、どうしようもない。
 だって、自分にはこいつらの捜し物がわからないのだから。
「じいさんが遺産の情報を持ってんのは確かなんだ。どこに隠したか教えてくれりゃ、痛い目を見ずにすむぞ?」
 なるほど、それが捜し物だったのか。
 しかし、それをたった今知った立香に、どうしろと言うのか。
 口に貼られていた粘着テープをはがされた途端、外に聞こえることを願って大声で喚く。
「だからそんなの知らないし!おじいちゃんのものはもうあんたらが盗んでったじゃないの!」
「それでも見つからねえから、聞いてんだよ。」
「本当に知らない!私があそこの事務所に来たの、今年の三月からだし!」
 たとえ知っていたとしてもこいつらには教えたくないが、知らないものは本当に知らないのだ。
「こんな無駄なことするくらいなら、事務所のもの全部持ってったらいいじゃない!」
 男たちは顔を見合わせる。立香の様子から、本当に知らないと判断したのだろうか。
「こいつの他に、外人の男がいたよな。」
 傍らの仲間に確認する。頷いた男は目出し帽の鼻の辺りが不自然に膨らんでおり、苦々しげにそこに手をやる。
 最初に立香を誘拐しようとしてアルジュナにぶん殴られたのは、こいつだったかもしれない。
「あいつ、クソ強かったぞ。」
「こいつを人質にしてるから大丈夫だって。それに、今日はこっちの人数も多い。」
 彼らの剣呑な会話に慌てる。
「あ、あの人は私よりあとに来たんだから、よけい知るわけないってば!」
「お前らは探偵だろ?知らなくても、調べさせればいいんだよ。報酬はお前ってことでさ。」
 祖父に頼まれたためか、過保護なまでに立香を守ってくれているアルジュナだ。
 立香を盾にされたら、こいつらの言うなりに動いてしまうかもしれない。
 しっかりした社会的な立場のあるアルジュナに、自分のせいでこれ以上迷惑をかけたくない。
「私が調べるから!あの人を巻き込まないで!!」
 縛られた足をばたつかせると、鼻の辺りが膨らんだ男がにやにやしながら立香の前に屈む。間近で見れば、目出し帽の目の穴から大きなガーゼが覗いている。
「こんな状況で心配してもらえるなんざ、羨ましいねえ。」
 思い切り睨みつけるが、残念ながら相手を怯ませるには至らない。
「そんなでっかい目で睨んだって、全然迫力ねえぞ?にしても、こうやってよく見りゃ結構かわいい顔してるのな。」
「さ、触るなー!!」
 こちらに伸びる手に怯えて縛られたままの足で相手の向こう脛を蹴飛ばすが、ダメージを与える代わりに怒りを買ってしまったようだ。
「いってぇな!」
 頬を思い切り殴られ、吹っ飛んだ。受け身もとれずに床に倒れ込み、口の中に鉄臭い味が広がって頬がじんじんと熱くなる。
 アルジュナはどうしているだろうか。銀行から戻ってみれば自分がいなくて、恐らく慌てていることだろう。
 ごめんなさい。
 あれだけ気を遣って守ってくれたのに、自分の不注意からこんなことになってしまった。
 これ以上、彼を巻き込むわけにはいかない。
 それでも…かつて誘拐の危機に駆けつけてくれたとき、どれだけ嬉しかったか。
 馬鹿な自分がこんなことを言えた義理ではないけれど…
―助けて、助けてアルジュナ、アルジュナ…!!
「おいおい、まだ取引前なんだから、手荒なことすんなよ。」
「ちょっとくらい、大丈夫だろ。」
 声に、嗜虐的な響きが混じっている。アルジュナに殴られた腹いせをしようというのか。
 その卑劣さに腹が立ち、
「抵抗できない女なら殴れるんだ!?あの人にワンパンでやられたポンコツのくせに!」
 後先考えずに煽ってしまってから、後悔する。
 殴られるだけで済めばいいが…。
「こいつ…っ」
 男が立香を蹴飛ばそうと足を振り上げた瞬間、その場にひっくり返った。
「いでえっ!!」
 何が起こったのかと見れば、男が足を押さえている。
 その足には血が滲み、すぐ横のコンテナに跳ね返ったらしい短い矢が落ちている。
「彼女に触れるな!」
 倉庫の入り口に、その人はいた。
 まくった袖から伸びる褐色の肌に映える白い手袋を嵌めた手に持った何かを、男たちへ向けている。
 夢ではないか、本当に来てくれた、いや、やはり夢かも?
 目の前の光景がぼやけるのは、涙が滲んできたせいか。
「アルジュナぁ!!」
 感極まって叫ぶと、薄暗い中でもはっきりと見えるアルジュナの目がこちらを捉える。
 やはり、夢ではない。
 立香の腫れ上がった頬を見た瞬間、アルジュナの全身から凄まじい怒気が迸った。
 自分に向けられた怒りではないとわかっていながらも怖くなってしまうほどのその様子に、ここにいる連中を殺してしまうのではないかという気がして慌てる。
「ア、アルジュナ、殺しちゃだめだからね!?」
「………大丈夫ですよ。伏せていなさい、リツカ。」
 微妙な間が気になりはしたが、邪魔にならないように身を捩らせながらコンテナの影に潜り込み、こそっと顔を覗かせる。
 アルジュナは、小型の洋弓を手に乗り込んできていた。
 あとで聞いたところ、コンパウンドボウというらしい。有名な映画で爆薬をつけたそれでヘリコプターを墜とした、あれだ。
 迷いなくすぱんと放った矢は過たずに目標を射抜く。
 それも、立香を拘束していた男の他は、服の裾を壁に縫い止めたり、人体には一切当てていない。
「この野郎!」
 一人がポケットからナイフを取り出し、立香が思わず悲鳴をあげる。
 が、男が振りかぶったナイフを、矢が見事に弾き飛ばす。
 驚く男の顔の左右を間髪入れずに矢が掠め、男は竦んで身動きがとれなくなる。
 他の男が何らかの得物を手にとっても、それは尽く矢によって手から離れ、あっという間に丸腰にされてしまう。
 薄暗い倉庫なのに、とんでもない腕前だ。
 男たちが怯んで後退っただところで、
「お前たちの探し物はこれだろう?」
 アルジュナが、一枚の小さな紙を懐から出して見せる。
 その指に挟まれた紙を覗き見て、思わず声を上げる。
「え、私?」
 それは立香の写真だった。
 成人式のときに撮った、振り袖を着て精一杯めかしこんだその写真が、何故彼らの目的のものとなるのか。
「これの裏に貸し金庫の情報が書かれていてな。そこにはお前たちの目的のものが入っていたぞ。」
 なるほど、そういうことか。
 いや、それより、何故そんなものが立香の写真に?
 ひたすら混乱する立香をよそに、話は進んでいく。
「そいつをよこせ!!」
「もう遅い。それは担当弁護士から正しい相続人へ渡っている。」
「なんだと!?」
「お前たちの雇い主も、その相続人の大叔父だとわかっている。相続権一位の相続人から遺産を横取りしようとは、たいしたものだ。」
 アルジュナって敬語以外も喋れたんだ…などと呑気なことをぼんやりと考える立香が覗き見る中、アルジュナは胸ポケットに写真を丁寧にしまってからコンパウンドボウを床に置き、男たちに歩み寄る。
「お前たちの仕事はもう終わりだ。雇い主へも既に伝えたからな、言い訳を考えておけ。」
「この野郎…!」
「さて、ここからは個人的に仕返しをさせてもらおうか。」
 アルジュナが指の関節を手袋ごしに派手にごきごきと鳴らし、その口元に凄惨とも言える笑みを浮かべた。
 謎の経歴を持つハイスペック男は、とんでもなく強かった。
 五人を相手にして一発もかすらせず、殴り、蹴り、あるいは投げて行動不能にしていく。
 もし相手が銃を持っていたとしても、先程の腕前を見れば、コンパウンドボウで仕留めていただろう。
 強さで名高いイギリスの特殊部隊出身なのではないかと思うような戦闘力で五人全員をあっという間にぶちのめして気絶させたところで、もう彼らに興味はないとばかりに手袋を外して立香に駆け寄ってきた。
「アルジュナぁ〜!」
「ご無事ですか!?遅くなって申し訳ありません!」
 急いで粘着テープをはがし、拘束を解いてくれた。
「ありがとう、うん、大丈夫だよ。心配かけてごめんなさい。」
「よかった、よかった、リツカ…貴女に何かあったら私は…」
 苦しいくらいにぎゅうぎゅうと抱き締められる。シャツの下のがっしりした胸筋と、ほんのり甘くスパイシーな香水の香りに自分でも不思議なくらいに安心感に包まれて、戒めを解かれた手が広い背中に自然に回る。
「きっとアルジュナが来てくれる気がしたから、怖くなかったよ。でも、そんな弓?持ってるのはちょっとびっくりした。」
 恐怖がゼロかといえば嘘になるが、それでも怖くなかった。
 あれほど巻き込みたくないと思っていたくせに、心の底ではきっと助けてくれると信じていた自分の調子の良さに呆れてしまう。
 出会ってからまだ少ししか経っていないけれど、アルジュナへの信頼は自分で思っている以上に大きくなっていたことを自覚する。
「…引きましたか?アーチェリーは趣味でやっていたので、小型のものを日本に持ってきていたのです。」
「ううん、相手も武器持ってたし、素手じゃ危なかったよね。それに…」
 ちょっと躊躇ってから、意を決して言ってみる。
「…かっこよかった。」
 思い切って言った言葉は嬉しかったようで、立香を抱き締める腕にさらに力がこもる。
「…うぐ…アルジュナ、ぐるじい…」
「ああ!失礼しました。」
 ようやく開放してもらえた。
 自分も抱きついてしまったことが急に照れくさくなり、慌てて服の汚れを払ってごまかす。
「よくここがわかったね…あいつらから呼び出された?」
「貴女に防犯ブザーを渡してあったでしょう?それにGPSもついていましたから。持っていてくださってよかった。」
 首から下げていた、今回使えなかった小型の防犯ブザーにそんな機能もついていたのか。
「私個人の用事だったとはいえ、貴女も連れて行くべきでした…」
 用事のついでに知己である過去の案件に関わった弁護士に会い、偶然その相手が当たりで、事件の真相に至ったのだという。
 こんなところでも、アルジュナの幸運が発揮されたということか。
 弁護士は、祖父の親友だったそうだ。
 犯人たちはすでにその弁護士のところに来ており、弁護士が情報を持っていないと知るや、金に取り憑かれた者の執念で調べ上げて立香の祖父に行きついたようだ。
 相続人は未成年で、先方も安全を考えて貸し金庫の情報を信頼できる立香の祖父に預けたはずが、その祖父が急死して、さらに巡り巡って情報を仕込んだ写真がアルジュナの手に渡っているとは思わなかったという。
 そして弁護士に伴われて遺産である金塊や権利書などを別の貸金庫へ移し、その情報を今度は本来の相続人に直接渡してから帰宅した際に、ドアの鍵がかかっておらず立香がいないことを知った。
 それからGPSで居場所を探し、殴り込んできたというわけだ。
「そうだったんだ…面倒かけてごめんなさい。」
「こちらこそ申し訳ありません、私が持っていたものが原因だとは…」
 貸し金庫の情報が書かれた立香の写真は、成人式のときに撮ったスナップ写真を祖父に分けたうちの一枚だ。裏に文字があるのは知っていたが、殴り書きの日本語が読めなかったため、それが貸し金庫の情報とはわからなかったのだ。
 常に持ち歩いていたかわいい孫娘の写真は恰好の隠し場所だったのだろうが、祖父が意図したものか間違えたのか、メモ入りのものがアルジュナの手に渡ってしまったようだ。
「でも、なんでこれをアルジュナが持ってんの?」
 しかしアルジュナは答えず、立香の殴られてしまった頬に触れる。
 腫れて熱を持っているせいか、彼の掌が冷たく感じて、気持ちいい。
「おかわいそうに…貴女に怪我をさせてしまうとは。申し訳ありません、私がもう少し早く着いていれば…」
「これくらいなんともないよ!」
 あまりに落ち込んだアルジュナの様子に、慌てて立ち上がって元気なところを見せようとしたが、足首に痛みが走って床にぺたんと尻を落としてしまった。
「あれ?」
 拘束された不自由な体勢でもがきまくったため、その途中で傷めたかもしれない。
 今まで興奮状態にあったせいで痛みに気づかなかった。
「恐らく捻挫かとは思いますが、口の中も切ってしまったのでしょう?病院で診てもらいましょう。」
「あ、そういえば、通報とかした?」
「ええ、倉庫で男たちが喧嘩している、と匿名で通報しましたから、じきに警察が来るはずです。おっと、さすがにこれは回収しなくては。」
 コンパウンドボウと矢を回収すると、手早く分解してケースに収める。
「喧嘩って…ばっくれる気満々でしょ。」
 彼らも、わざわざ誘拐の件を警察に話して罪が重くなるような真似はするまい。
 黙っていれば、せいぜい不法侵入とちょっとした器物損壊で済むはずだ。
「日本語で何と言うのでしたか…君子危うきに近寄らず、で合っていますか?」
「合ってまーす。でも、あいつらまた来ないかな?」
「奴らの雇い主には、あとで釘を差しておきます。それでもまた来るようなら、改めて法的にも物理的にも制裁します。」
「うわお。じゃ、とっとと逃げちゃお。」
「貴女もなかなかですね。」
 悪戯っぽい笑みを互いに見合わせた。
 よっこらしょ、と痛めた足首をかばいながら立ち上がろうとすると、体がふわりと浮き上がる。
「!?」
 またもやお姫様抱っこかと思いきや、今回は右腕一本で抱え上げられていた。
 左手には、コンパウンドボウのケースを持っている。
 このすらりとした見た目のどこから、このパワーが出ているのか。
 恥ずかしかったが、疲れ切っていたこともあって素直に体を預けると、怪我をした足に響かないようにゆっくりと歩き出す。
 遠くからパトカーのサイレンが聞こえる気がするが、アルジュナの足取りは落ち着いている。
 もしかして今なら…という予感とともに、前々からの疑問を口にしてみた。
「ねえアルジュナ。なんで私の助手なんて引き受けたの?」
「貴女のお祖父様とはイギリスのパブで偶然会いましてね。写真を見せられ、散々孫自慢をされました。」
 そういえばおじいちゃんからイギリス旅行のお土産もらったな…と思い出すうちに、薄暗い倉庫から出た途端の朝日に目を射られ、すぐ側にあるアルジュナの顔が見えなくなる。
「そのとき、何かの際には孫娘を頼むと、あの写真をいただきました。」
「へ?」
「冗談かと思いましたが、実際にお祖父様から遺言をいただいたときは嬉しかったのですよ。貴女に会ってみたくてたまらなかったのですから。」
「は…え?」
「貴女はお祖父様のお話以上の方でした。私が誰かと供にいて心から楽しく安らぎを感じたのは、貴女が初めてですよ。」
 ずきずきと痛んでいた頬と足首を差し置いて、心臓がどきどきと跳ね始める。
「あの写真を見せられた瞬間に一目惚れしていたのでしょうね。…貴女に会えてよかった…リツカ。」
 アルジュナが笑ったような気がしたが、眩しくてよく見えなかった。


 もう立香を狙う輩も現れることはないであろう今、もとの狭いアパートへ帰っても問題はない。
 しかし、足の捻挫が治るまで…と、なんだかんだ二週間経過していた。
 実際、階段がある立香のアパートでは辛かったし、アルジュナの車で送迎してもらえるマンション暮らしは助かった。
 それでもさすがにもう足も治ったし、アルジュナの家にいる理由がなくなってしまった。
 それに、若い男の家に居候という状況に、その恥ずかしさを抑えていた恐怖心が消えた上にまさかの告白を聞いてしまった今、立香としてはどうしていいかわからずにいた。
 アルジュナはこれまでと変わらず接してくれているが、意識するなという方が無理だ。
 決していやというわけではない。
 むしろその、ええと、逆というか、ただ恥ずかしくて、その…
 誰に向けているかわからない言い訳を胸中に並べつつ、荷物をまとめる。
 最初に持ち込んだものより、かなり増えていた。
 これもそれも、アルジュナが買ってくれた服だ。そういえば、家から持ってきていた自前の服は着ていなかった。
 高級品ばかりで気後れしたが、せっかく買ってくれたものだし、やはり女子の端くれとして、きれいでかわいい衣装は嬉しくて、毎日どれを着ようか悩むのも心が浮き立つ時間だった。しかもいちいち「お似合いです」「かわいらしいです」などと褒めてくれるものだから、浮かれてしまうのも当然だろう。
 手にとったワンピースは、一番のお気に入りだ。
 このワンピースを着て一緒に鰻を食べに行ったとき、初めて鰻を見たアルジュナのおっかなびっくり食べる様子がおもしろかったなあ、などと思い出す。
 この家で過ごすのも、緊張しながらも楽しかった。
 誰かと一緒の暮らしというものは、大学進学とともに一人暮らしを始めて以来、久しい。
 借りてきたDVDを、横幅が2m以上ある大きなテレビで見るのも楽しかった。
 アルジュナが派手なアクション系を好むのは意外だったが、自分も好きなので一緒に楽しめた。
 料理をしたことがないというアルジュナは、朝昼晩、全部外食だったそうだ。
 そんな食生活は体に悪い!と、自宅から持ち込んだ調理道具や、足りないものは買ってもらって食事を作ると、とても喜んでくれた。
 洋食も和食も好き嫌いなく何でも食べるが、焼き魚に苦戦したのが悔しかったらしく、こっそりネット動画を見て勉強し、次に食べたときにかなり上達していた彼の得意気な顔を思い出すと、思わず口元が緩んでしまう。
 普段は緩く上げている前髪を家にいるときはおろしているのだが、その案外長い前髪のせいで少し幼く見えるギャップが、年上の男なのにかわいいと思ってしまった。
 さらにどうやら自分だけに見せてくれるらしい自然な微笑が…
 次々と思い出される記憶に、激しく動揺する。
 そして何より、また一人の生活に戻ることが寂しい。
 え、なに?これじゃ私まるで…
 一人、両手で頬を包み込んで座り込む。
 掌が熱い。
 それでもなんとか気を取り直して荷物をまとめ、お礼を言おうとアルジュナのもとへ向かう。
「長いことお邪魔しちゃって、お世話になりました。ありがとう。」
 我ながら永遠の別れの挨拶のようだと思い、慌てて、
「ま、また明日からもよろしくね!」
 わざとらしく付け足すが、なんだか怖くてアルジュナの顔が見られない。
 伏せたままの視界に、アルジュナの足先が入る。
 今、彼は目の前に立っているのだ。
 何か言わなければ。
 でも、何を?
 必死に言葉を探すうち、
「…リツカ。」
 どこか狂おしげな声音に思わず顔を上げ、アルジュナの顔を見てしまった。
 それは予想に反し、どこか緊張したような、不安そうな顔だった。
 いつも自信に満ち溢れたアルジュナらしくない表情に戸惑うより先に、彼の腕が伸びて抱き寄せられた。
「!?」
 口から心臓が飛び出しそうになる。
「ふぇ!?な、アルジュナ…?」
 動揺しまくるものの、アルジュナの心臓の鼓動も早くなっている気がする。
 そんなことに気づいてしまっても為す術なく、身を縮めたまま固まる立香のつむじにアルジュナの顎が乗せられ、意を決したような彼の声が降ってくる。
「…よろしければ、このままここで暮らしませんか?」
「え…」
 何より頼もしい胸板に押し当てられた頬が、見る見る熱くなるのを感じる。
 実家の家族になんて説明しよう…などと思いながら。





fin.


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