幼い頃より、容姿端麗頭脳明晰運動神経抜群な彼は特別視されていた。 両親や兄弟はできるかぎり他の兄弟と同じ扱いをしてくれたが、 「あの子はしっかりしてるから、安心。」 「あいつに任せておけば心配ない。」 「困ったら兄さんに頼もう。」 やはり何かしら頼られることがあり、他人となってはなおさらだ。 頼られればその期待に応えようと努め、そしてその都度応えられてしまったのもいけなかった。 我ながら、その対応は違うのではないかと思うようなことでも、何故か彼らはそれをありがたがって受け入れてしまった。 誰の目から見てもわかるような失敗をすればよかったのかもしれないが、つい真面目に対応したが故に、なんだかんだ解決に導いてしまってきたのが仇となった。 いつの間にやら誰もが彼を頼るようになり、生来の生真面目さと相まって、頼る者たちを切り捨てることができず、結果、 ―公明正大、常に正しく完璧なアルジュナ という男が出来上がってしまっていた。 一人称が「俺」から「私」に変わり、言葉遣いがやたらと丁寧になったのも、その状況から作り上げられたものだった。 だがしかし、ただ生真面目なだけで、中身はごく平凡な感情を持つ男なのだ。 間違いもすれば怒りもすれば悲しみもし、またうんざりしてすべてを擲ってしまいたくなることも普通にある。 しかし、そうすることができない。 彼の周囲が求める彼は、そんなことをしない人物だから。 生真面目すぎるが故に周囲の者の期待を裏切りたくないという気持ちが、自らを雁字搦めにしてしまった。 結果、皆が求める理想の男という仮面をかぶって生きることになってしまった。 しかしその仮面も、ごくわずかな人たちの前では外すことができた。 隣に住んで一緒に育ってきたカルデア家の兄妹、藤丸と立香。 彼らだけは、アルジュナを特別視しなかった。 彼らは特別視しないどころか、逆にこちらをぐいぐいと引っ張っていってくれる勢いで対してくれた。 間違っていれば、それは違うとはっきり正してくれるし、考えるべきときには一緒に考えて悩んでくれ、彼の喜びも悲しみも怒りも当然のものとして受け入れてくれる。 彼らだけが、自分を理想像を投影した存在ではなく、一人の人間として扱ってくれた。 彼らがいなければ、取り繕った自分の仮面の分厚さに呼吸ができなくなり、やがて崩壊してしまっていただろう。 彼らが自分を救ってくれた。 いや、今も現在進行系でそれは続いている。 ―ああ、だから立香… 私が貴女を愛し、求め、助けたいと思うのは、当然のことなのです。 アルジュナの朝は早い。 早朝に起き出して、場合によってはシャワーを浴びてから一時間ほどのジョギングに出かける。 その間に立香も起き出して、場合によってはシャワーを浴びてから朝食を作って待っているのが日課だった。 はじめは立香も一緒にジョギングとかいいかも、とも思ってみたが、毎朝約10kmは走っているそうで、そんな距離にもペースにも絶対ついていけないために諦めた。 ん? 場合とは、ですと? 場合は場合です。 日曜日の午前中、互いに高校も大学も休みなため、家事などを片付けてから昼食までの時間を潰していた。 「アルジュナっておっそろしく健康的な生活してるよね。」 言いながら、その声はシーソーに乗っているように上下している。 「そうですね。習慣になっているので、やらないと落ち着きません。」 こちらも若干息を弾ませながら声が上下しているのは、腕立て伏せをしているためだ。 決していかがわしいことではない。 アルジュナの背中には、立香が横座りに乗って足をぶらつかせている。 腕立て伏せをしているところにふざけて飛び乗ったのだが、びくともしなかったのでそのまま面白がって乗っている。 「ちょうどいい負荷なので、そのまま乗っていてください。」 「これがちょうどいいって、何目指してんの。リンゴの次はヤシの実でも握り潰すつもり?」 40kg以上ある立香を乗せて片手腕立て伏せをするアルジュナは着痩せする性質で誰もが騙されるが、実は全身無駄のない筋肉に引き締まっており、とんでもない馬鹿力である。 立香に言わせれば、この世にアルジュナが開けられない瓶の蓋はないそうだ。 瓶の蓋開けだろうと立香の役に立てれば何より、と今朝も買ったばかりのジャムの瓶を開けてくれたのだった。 確かに幼い頃から弓道で鍛えているのは立香も知っていたが、弓ってそんなパワー必要だったっけなあ、と思いつつ、そういえば同じ弓道部に所属していた兄の藤丸から、アルジュナの弓は張りが強すぎて他の誰にも引けないと聞いたことがあった。 最近は大学での勉強が忙しくて道場に行っていないそうだが、白い上衣と深い藍色の袴がかっこよかったなあ、と思い出して一人思い出し笑いをする。 「何を笑ってるんです?」 「へへ、自慢の彼氏ですーって思っただけ!」 「ええ、最高の恋人であると自慢してください。私も貴女が自慢ですから…っと、危ないですよ。」 両親はインド人でも本人は生まれも育ちも日本のくせに、メンタリティは日本人らしくなく、謙虚さはかけらもない。 照れ隠しに背中の上でぴょんと体を弾ませると、さすがにぐらついたものの、踏ん張ったのはさすがだった。 飽きもせずに腕立て伏せに付き合いながら、壁際の鉄棒のようなものに目を止める。 洗濯したはいいが、今にも雨が降りそうな空模様だったため、室内干しにした洗濯物を掛けてある。 「ところであれ、何?」 「あれもトレーニング用機器ですよ。今は使えませんが。」 「え、ごめん。部屋干しにちょうどいいやって使っちゃってた。ぶら下がり健康器?」 アルジュナから下りて、洗濯物を引っ張って脇の方に寄せる。 「ぶら下がり健康器って、必ず洗濯物干される運命にあるよね。」 「ですからぶら下がり健康器じゃありませんって。こうやって使っています。」 2m近い高さにあるそれに手をかけ、逆上がりするようにひょいと両足を上げて膝裏を棒に引っ掛けて逆さまにぶら下がると、上体を上まで持ち上げる。 ようするに逆さ吊り腹筋だ。 「うわ、そのばっきばきの腹筋はこれで作ってたのか…」 身軽く鉄棒から下りたアルジュナの腹を、ぺしぺしと叩く。 皮下脂肪のひの字も感じない。 それから自分の腹に触って見て、むう、と唸る。 太ってはいない。 いないが… 「私もやる!」 モデルのような引き締まった美しいボディラインに、やはり憧れがある。 鉄棒に飛びつこうとして失敗し、倒れないよう壁に固定された支柱をよじ登って横棒に足を伸ばそうとするが、そもそもそこまで足を上げられない。 「うぐぐぐ…」 「何を面白いことをやってるんですか…」 「私もさっきのやりたい!上げてー!」 「腹筋運動以前の問題に見えるのですが。」 「私も美ボディを手に入れるんだー!」 意地になってもがいていると、仕方ないとばかりにひょいと抱き上げられた。 そのまま立香の足が届くところまで持ち上げてくれ、なんとか膝を引っ掛けることができる。 どうやら立香の体重は、アルジュナにとっては米袋と大差ないらしい。 「うわー!ちょっと怖い!」 とりあえず膝裏を引っ掛けてぶら下がったが、怖い。 後ろから腰をしっかり抱えて支えてくれているので落ちることはないのはわかっているが、思ったよりはるかにきつい。 「…ふぬうう…!」 その体勢のまま、天井に向けられた手だけがばたばたと暴れている。 「何してるんです?」 笑いを含んだ声に、 「腹筋やろうとしてるんですー!もう、わかって言ってるでしょ!」 腕を持ち上げて顎をわずかに持ち上げるのが精一杯で、上半身がびくともしないのだ。 「このっ…」 腰を抱くアルジュナの腕を掴み、腕の力を使って上体を起こそうとするが、先程よりわずかに角度がついただけだった。 しばしもがいた挙句に、ついにだらんと重力に任せて垂れ下がる。 「…すいませんアルジュナ先生、目が回ってきました。ギブです。」 「何事にも挑戦する姿勢は買いますよ。」 頭に血が上ってギブアップしたところで、抱え降ろしてくれた。 床にひっくり返った立香の横に腰を下ろしてTシャツをめくり、白い腹をさらりと撫で、 「貴女には必要ないでしょうに。」 妙にいかがわしい動きで腹をくすぐる手をぱしっと叩き、 「…だって、アルジュナと海とかプールとか行くのにさ…アルジュナめちゃめちゃいい体してんのに、私がみっともなかったら恥ずかしいじゃない…」 ぷすっと頬を膨らませる立香の、ちょっとでも綺麗になりたいという乙女心である。 「貴女の体のどこがみっともないと言うのですか。この私にとって最高の体なんですから、自信を持ってよいのですよ。」 「褒めてくれるのは嬉しいけど、なんかニュアンスが違う気がする…」 「気のせいです。…まあ、私の独占欲という意味で貴女の水着姿を人には見られたくない気もします。」 起こして、と甘えて手を伸ばす立香の手を取って、引き起こしてやる。 「本当に腹筋運動をする気があるんですか?」 「次からはやるもん。」 立香といると、全く退屈しない。 起こしてやった勢いのまま自分の胸に引き寄せ、膝の間に抱える。 女性らしい柔らかさと、若々しい弾力が程よい。 「わかりました。女性でもできる筋トレの方法を教えますから。」 「やったー!ありがと!」 なんだかんだ言っても、結局は立香を甘やかしてくれる。 お礼に?に軽く口付けると、 「こちらにはしてくれないのですか?」 人の悪い笑みを浮かべ、自らの唇を指す。 「あーもう!」 ちゅ、と軽く触れるだけだったが、それでも立香には精一杯だ。 よろしい、と満足そうな声に笑みを含ませ、お返しにとこちらは思い切り深く口付けてきた。 いつもの呼吸困難になりそうなキスに、しばらくもがいていたが、ようやく解放されたところで恥ずかしさを紛らわすように胸を押しのけ、 「期末試験終わったら、水着買いに行くの付き合ってね!それまでに体形なんとかするから。」 「喜んで。男女で入れる試着室もあると聞きますので、貴女に似合うものを見立てましょう。」 「あんまりえっちぃのはダメだからね。」 「そういうものも魅力的ではありますが、他の男に見せたくないので普通のものを選びますよ。」 もし貸切プールなどに行くことになったら、容赦無くセクシーな水着を選ぶタイプだ… 「アルジュナのは私が選んだげるから、私のはほどほどでお願いします。」 もしアルジュナがエロい水着を立香に着せようとしたら、真っ白いブーメラン着せてやる、と密かに決意した。 ところで…と、座ったままの状態で立香を横抱きにする。 「汗だくの状態で貴女を抱えてしまいました。一緒にシャワー浴びませんか?」 「…と言いつつ、問答無用だよね。」 立香を抱えて浴室に歩き出しておいて、何を言うやら。 「汗臭くては不快でしょう?」 「アルジュナってほんとえっちだったんだねー…」 「貴女が愛しいからですよ。」 「あーもーすぐそうやってこっ恥ずかしい台詞を…」 言いながら、抵抗せずにそのまま運ばれていく自分もたいがいだと思う立香であった。 ダイエットも大事だが、それ以前に立ちはだかるのは期末試験だ。リビングで勉強していると、アルジュナが紅茶を淹れてくれた。 ついでに先日実家からもらったというプラムも剥いてくれている。 「そろそろ休憩はいかがでしょう。」 「ありがと!アルジュナの前期試験の準備は?」 「試験前だからと特に勉強しなくても、上位の成績を取るのは容易いですよ。」 「あーそういう人でした…」 レポートも一日あれば書けてしまうので、昔から試験勉強というものはしたことがないという恐ろしい男だ。 そんなとんでもスペックな脳みそは持っていない立香には、勉強中のおやつは素直にありがたい。 同棲するにあたって二人で決めたことのひとつに、学校の成績を落とさないことも含まれている。 それに限っては、わからないところは側にいるアルジュナがすぐ教えてくれるため、むしろ中間試験の結果は向上したので問題なさそうだ。 学校の先生たちからも、あんなことがあったのに成績を上げてきた健気な生徒だと、立香の評判はすこぶる良い。同棲という絶対にバレてはいけない生活を隠すのに、安心できる良い生徒だと思われることは重要だ。 おいしい紅茶と甘酸っぱくて瑞々しいプラムに舌鼓を打ちつつ、隣に座るアルジュナの肩にこてんともたれかかる。 「あーあ、早く夏休みにならないかなー。」 夏休みの計画を立てたのは、中間試験が終わった頃だった。 「伊豆!伊豆行きたい!」 たまたまテレビできれいな伊豆の海を見た立香が行きたがったのだ。 そこから二人でいろいろと調べ上げ、行く場所を決めた。 学生の強みは平日に動けることなので、夏休み期間中でも宿はとれた。 それからずっと楽しみにしており、地元の観光スポットやグルメなどを調べたり、夏休みを心待ちにしていた。 しかし今、夏休みという宝物の前に立ちはだかる巨大な壁を前にしたような顔で、テーブルの上の教科書みつける。 「…数学と物理と化学、どれですか。」 苦手科目で行き詰っていると察して声をかけると、 「全部!」 はいはい、と空になった皿を片付けて隣に腰かけた。 無事に期末試験を終え、苦手科目も含めて全体的にいい感じの成績をとれて安堵した。 そして今、立香とアルジュナは二泊三日の予定で伊豆の土肥にいた。 きれいな海と宿と温泉! と好条件が揃っており、アルジュナが抜け目なく貸切露天風呂まで予約してくれているそうである。 「海、すっごいきれい!来られてよかったー!」 「貴女もきれいですよ。」 「へへ、アルジュナもかっこいいよ!」 波打ち際で波を足先で蹴りながらはしゃぐ立香を微笑ましく眺めるアルジュナは、白地に青のトライバル柄のサーフパンツだ。 海に褐色の肌が何とも似つかわしく、鍛え上げられた無駄のない筋肉をまとう美しい肉体が、周囲の男性陣を怯ませる。 そのアルジュナの隣に跳ね飛ぶように駆け寄る立香は、同じく白地に青のトライバル柄のビキニだ。 アルジュナは立香の髪の色に合わせた色を選びたかったようだが、アルジュナとお揃いがいい!という立香の無邪気な要望にあっさり折れた。 トップスとアンダーのサイドがそれぞれ三本の細いコードというあたりがちょっと大人っぽいセクシーさだが、一応許容範囲だったため、白ブーメランの刑は執行されていない。 ビーチの適当なところに借りて来たパラソルを立て、ビーチチェアを並べる。 「今年は焼いちゃおうかなあ。小麦肌、かっこよくない?」 「ほどほどに。子供の頃に焼きすぎて、全身真っ赤になって痛い痛いと泣いてたじゃないですか。」 「う…そういえばそうでした…」 親の忠告を聞かずに兄と一緒に肌を焼きすぎて、二人して痛くて泣いた記憶がある。 「おとなしく日焼け止めを塗った方が身のためです。」 「そうします…」 立香が頼むより先に、当然といった顔で背中に日焼け止めを塗り始める。 しっかり水着の下まで手を滑り込ませて塗ってくれるものだからこそばゆいし恥ずかしいが、周囲のカップルも同じようなことをしているため、そう目立つことはなくほっとする。 「アルジュナはオイル塗ろ。」 「私がこれ以上黒くなってどうするんですか。」 「オイル塗っとくと、あとで肌がかさかさにならないよ?」 「そういうことでしたら、薄めにお願いします。」 弓道と筋トレで鍛えられた筋肉が盛り上がる背中にオイルを塗る。 これも周囲で同じようなことをしている人々が多いため、あまり気にならなかった。 …と思っていたのは立香だけで、色々な意味で目立つアルジュナは周囲の視線を集め、男性からは敗北感を、女性からは嫉妬心のこもった視線を浴びまくっていたのだが。 少し冷たいがきれいな海水は心地よく、海の家で借りた大きな浮き輪に乗ってアルジュナに引っ張ってもらったり、久しぶりの海に子供のようにはしゃぐ。 海水浴は久しぶりだ。 友達とはプールにしか行ったことがなく、海水浴は家族で五年前に来たのが最後だっただろうか。 まだ小学生だった自分と中学生の兄と… まさか五年後に不慮の事故で身罷ることになるとは、そのときは思いもしなかった幸せな頃… 思わず心を引っ張られそうになった瞬間、浮き輪を勢いよくひっくり返され、海に落ちた。 「ぶわ!!」 すぐにアルジュナが引っ張り上げてくれたので水を飲むことはなかったが、 「びっくりしたわ、こらー!」 「ふふ、すみません。」 全く悪いと思っていなさそうな謝罪の言葉を述べるアルジュナが自分を見つめる視線にこもった深い優しさに、立香は自分の心が過去に引きずられようとしたことをアルジュナが察してくれたのだと気づいた。 「……」 俯いた立香の顔を覗き込むように顔を寄せてくる。 「立香?」 「……このっ!!」 「とっ…!」 思い切りアルジュナに飛びついた。 不意打ちをくらわせて海の中で転ばせてやろうとしたのに、よろめいただけで踏ん張られてしまった。 「あーくっそー体幹の鬼め…!」 「甘いです。」 ひょいと抱えられ、放り投げられる。 「ひゃー!!」 見事に水中でひっくり返り、仕返しに水をぶっかけた。 「うわ!」 そこからはもう盛大な水かけ合戦となり、いつの間にか立香の沈みかけた心も吹っ飛ばされていた。 さすがに体が冷えたところで海から上がり、浜辺で買った焼きそばと焼きイカをかじる。 「……これでもかってくらい似合わないね、それ…」 ドバイのリゾートにいても全く違和感のないセレブ感を生まれ持ったインド系の男に、プラスティックのパックに無造作に盛られた焼きそばや箸に刺さった焼きイカは似合わないなどというレベルではない。 「私が食べたいって言ったせいだけど、なんかごめん。」 「まあ私にジャンクフードが似合わないのは自覚していますので、お気になさらず。このメニューも海水浴の醍醐味というものですよ。」 「それもそうだね。あとでかき氷も食べよ。知ってる?かき氷っていろんな色混ぜると紫っぽい変な色になるんだよ!しかも何でだかまっずいの!」 楽し気にかつて友達とふざけて遊んだときのことを話す立香を見つめるアルジュナの穏やかな表情は、仮面をかぶった彼しか知らない者には見られないものだった。 最近、妹の立香が怪しい。 藤丸はイギリスの下宿先で目覚まし時計を乱暴に叩いて消し、欠伸をしながらスマートフォンを手に取る。 毎日、先方は夕方、こちらは朝にビデオ通話で連絡をとっているのだが、やたらとアルジュナの気配を感じる。 連絡を取るのはほんの五分にも満たない時間だが、ちゃんと顔を出すこともあれば、焦ったように早く切りたがることもある。 そういうときは絶対にアルジュナと一緒にいるのだろう。 アルジュナからは、立香と正式に付き合うことになったとは聞いていた。 それは良いことだ。 妹が昔から好きだった男とうまくいくことは嬉しい。 しかも相手は自分にとっても幼馴染の親友であり、彼が妹をずっと好きだったことも知っていた。 妹と親友の二人が幸せならば、二重に喜ばしいことなのだ。 だがしかし。 「あいつ、本当に手ぇ出してないだろうな…」 念を押してみても、しれっとはぐらかされるので、よけいに怪しい。 本当は夏休みに帰省するつもりだったが、両親の葬儀のために先だって急遽帰国したために懐が寂しくなり、今年の夏休みはこちらにいることにした。 そのため、直接様子をうかがうこともできない。 我が身に重ねてみて、好きな女の子とあれだけ一緒にいて、手を出さない方がおかしい。 特に奴は自分と違って、相当に積極的だ。 うん、俺と違って… 俺だって出したいよ、うん… 思わず枕に突っ伏し、うっかり二度寝しそうになったところで慌てて跳び起き、スマートフォンを起動した。 ビデオ通話のアプリをタップして待つことしばし。 『ぐっもーにん、お兄ちゃん。』 『おはようございます。』 「おは…って、何やってんのおまえ!!」 寝起きだった藤丸の顔から、一気に眠気が吹っ飛んだ。 ビデオ通話がつながってみれば、水着姿の妹と、これ見よがしにその肩を抱いた親友が映っているのだ。 「ちょ、アルジュナてめえ何やってやがる!」 『立香と海水浴です。』 『伊豆だよ?。今日は温泉でーす!』 ちょっと待て。 付き合っていることは知っているし、しょっちゅうデートしていることも知っている。 だがしかし。 今日は温泉? しかも伊豆、ということは泊まり!? お泊まりデートということはようするにそういうことでさらに温泉ということはやはり 「アルジュナてめああぁくぁwせdrftgyふじこ」 『何言ってるかわかんないから切るよー。』 容赦無く通話を切られた。 今度は慌ててアルジュナにメッセージを送信する。 ―アルジュナてめえまだ手出すなつっただろ! 待つほどもなく、返信が来た。 ―確かに言われましたが、承諾した覚えはありません。人の恋路を邪魔するなら、ハイドパークにいる馬に蹴られてドーバーに沈んでください。 「ふっざけんなこの野郎!」 叫びをそのまま送信すると、こちらも間髪入れず、 ―黙れ童貞。 藤丸は枕に撃沈した。 その日、危うくバイトに遅刻するところだった。 「…黙ったね。」 「ですね。」 返信した後にポケットに突っ込んだスマートフォンに着信の気配はない。 地球の裏側でいじけているであろう藤丸は放っておいて立香の手をとると、握り返してくる。 「あの防波堤まで行ってみましょうか。」 「うん!」 互いに指を絡めて、港を囲う防波堤へと歩き出した。 防波堤に並んで座り、少しずつ夕方の気配を匂わせる空を見上げる。 「ここだと、水平線に沈む夕日とかは見られないかな。」 「そうですね。湾の中ですからね。」 西に向かいつつある太陽に、途中で拾ったきれいな貝殻を透かして眺めていた立香は、ふと自分に注がれる視線に気づいた。 「な、なに?」 「いえ、なんでも。」 「て、アルジュナ、景色見てる?」 「あなた越しには視界に入ってますね。」 ようするに、さっきからずっと立香を見ているということだ。 急に気恥ずかしくなる。 顔を赤くして手元の貝殻をいじる立香の肩を抱き寄せ、 「暑かったら言ってください。」 「言うとどうなるの?」 「困ります。」 「なにそれ。」 思わず吹き出し、肩に頭をこてんともたせかけた。その頭に、アルジュナの頭がもたれかかってくる。 防波堤のブロックに打ち寄せて砕ける波の音が、よく響く。 言葉は交わさずとも、同じ時間や場所を共有しているだけで、心地よく安らぐ。 潮の香りがするひなげしの色の髪に口づけると、それに気づいてこちらを仰ぎ見る。 琥珀色の瞳に夕日がきらきらと映る様がなんとも美しく、今度は髪ではなく唇に口付ける。 「ちょ、ここ、外…!」 「誰も見ていませんよ。」 恥ずかしがって慌てる立香の唇を再び塞ぐと、遠慮がちに伸ばされた立香の手がアルジュナのパーカーをきゅっと掴んだ。 ちなみに、すぐ後ろで釣り人たちが全力で歯噛みしながら爆発の呪詛を放っていることにアルジュナは気づいていたが、立香には秘密だ。 貸切露天風呂を真っ先に見つけて、さっさと予約しておくあたり、アルジュナは抜け目ない。 「いや、うん、嬉しいけどね?なんか恥ずかしいよー!!」 「家ではよく一緒に入るではないですか。」 「だってやっぱり、外だと思うとね!?」 「大丈夫ですよ。貸し切りとはいえ公共の場ですから、ここでは何もしません。」 「当たり前じゃー!!」 家ではユニットバスにぎゅうぎゅうと二人で無理矢理浸かっていたが、やはり大きな湯船で手足を思い切り伸ばせるのは気持ちがいい。 外には綺麗な夜景が広がっており、遠く海辺の景色も見える。 岩を積んだ湯船に寄り掛かるアルジュナの膝の間におさまっていた立香は、景色を見たくてアルジュナと向かい合う形で膝立ちになって身を乗り出し、 「海の上の光って、船かな?」 「ここなら漁船も客船もタンカーもたくさんいそうですね。」 「あれはきっと客船だね。豪華客船の旅とか、いいなあ!」 無邪気にはしゃいでいたが、 「…立香。」 「ん?」 「何もしないとは言いましたが、この状況は相当に忍耐力を必要とします…」 「え…」 アルジュナと相対する姿勢で膝立ちになって身を乗り出していたため、その乳房が彼の文字通り目と鼻の先にある。 立香がはしゃぐに合わせてぷるぷると揺れる、桜色に染まったそれを指先で弾かれ、 「ぎゃー!!」 慌てて身を引いた弾みで、湯船の中で後ろ向きにすっ転んだ。 「まったく、何をしてるんですか。」 「ああもう、早く言ってよ?!」 「いい眺めではあったのですがね。」 腕を引いて起こされ、座りなおした立香に軽く口づける。 「楽しみは後にとっておきます。」 「へ?楽しみ?」 「そのままの意味です。」 海に続いて、ここでも盛大にお湯をぶっかけられた。 旅館の豪勢な朝食や朝風呂を堪能してからバスに乗って、恋人岬へ来た。 バス停から展望台へは結構な道のりだったが、海を望む展望は素晴らしい。 駿河湾の彼方には対岸の静岡県が、さらに少し霞んではいるが、富士山も見える。 ここは恋愛のパワースポットでもあり、午前中でも結構な賑わいだ。 デッキにある鐘を鳴らしながら、互いの名前を叫んでいるカップルがいる。 「あの鐘を鳴らしながら好きな人の名前を呼ぶと、想いが叶うそうですよ。」 「えー!まさかやるつもり!?こっ恥ずかしいんだけど!」 「私の想いはもう叶っていますから、今更必要ないでしょう?」 「うわ、もっと恥ずかしい発言きた…」 肘で小突きながらも、互いの手はしっかり握っている。 手すりにもたれながら景色を満喫していると、階段の方から一際大きな男性の歓声が聞こえた。 その声に聞き覚えがあり、ふと視線を向ければ見知った顔がこちらへ向かってくるところだった。 「あれ?金時さんだ!」 「よう!奇遇だな!」 派手な金髪をおかっぱにした、筋骨隆々たる大男もこちらに気づき、気さくに挨拶を返す。 アルジュナは、立香が他の男と無闇に親しくするのが好きではない。 立香もそれはわかっていて、彼が眉を顰めるより先に、 「アルジュナ、この人は私の学校のOBで、源先生の息子さんだよ。」 なるほど、それならば知己であろう。 そして源先生といえば、彼女たちの急な家庭訪問のせいで女装する羽目になったことを思い出し、別の意味で眉を顰める。 母親の所業を知る由もない息子の大柄な背中から、こちらは小柄な女性が顔を覗かせた。 「あら〜、お知り合いどすか?」 柔らかな京都弁の、不思議な色気漂う美人だ。 「お、デートですか〜?」 にやにや顔の立香に、金時が真っ赤になってうろたえる。 この男、豪快な外見と違い、初心なようだ。 「なっ、そ、そんなんじゃね…」 「あら、ちゃうの?うち酒呑どす。よろしうねぇ。」 慌てふためく金時をよそに、機嫌よさそうに笑う酒呑と名乗った女性に、立香とアルジュナも自己紹介する。 「まあ、どうごまかそうと、ここ恋人岬ですからねえ。」 「こないな場所に来といて、何を今さらねえ。」 立香と酒呑が二人して人の悪い笑みを浮かべて、金時をからかう。 こうして初対面相手でも一瞬で意気投合できる立香のコミュニケーション能力は、幼馴染みのアルジュナも毎度舌を巻く。 「あ、あああアンタだって同じようなもんだろ!」 「え!?」 しかし今回ばかりは、藪蛇だったようだ。 「うふふふ、そちらさん、ええ男どすなあ。かいらしい彼女とお似合いどす。」 「ありがとうございます。」 アルジュナはけろっとしたもので、少しも慌てた素振りがない。 「では、私達はそろそろ行きましょうか。お二人の邪魔をするのも野暮です。」 アルジュナの助け舟に乗って階段へと向かいながら、 「あ!金時さん、ここで会ったことは先生には秘密に…私も先生には言いませんから!」 「OK、助かるぜ!男前の彼氏といい思い出作れよ!」 「うふふふ、あんたらも楽しんでぇ〜。」 彼らの姿が見えなくなってから、 「あーびっくりした!まさか、こんなところで知り合いに会うなんて!」 「来たのが母親の方じゃなくて助かりましたね。」 並んで階段を降りるアルジュナの頬を、立香が両手で挟み込んだ。 「口とんがってるよー?」 「は?そんなことは…」 わずかに目が泳いだのは、無自覚の自分の表情にうろたえたものか。 「もー、アルジュナってばほんとにやきもち妬きだなあ。」 「そ、それは…うぶっ」 挟み込んだ手で、頬を潰す。 「私だって、今更鐘鳴らして名前呼ばなくてもいいって思ってるよ。」 照れているのか早口に言い切った立香の手を、己の手で包み込むようにしてとる。 「…愛しています、立香。」 その柔らかい視線も、微笑みも、他の誰かに向けられることはない立香だけのものだと、彼女はわかっているだろうか。 「ふふ、私も愛してるよ。大好き!」 我が手を握りしめるアルジュナの手を握り返し、弾むように階段を降りていった。 土肥の港へ戻ってきたところで、昼食をどうしようという話になった。 ランチは現地で実際に見て、おいしそうな店を適当に探すつもりだったのだ。 二人で漁港の辺りをうろついていると、こちらへ誰かが駆け寄る足音がして、振り返るより先に足音の主が滑り込むように立香の正面に回り込んできた。 「あ、やっぱり立香でした!!」 「え?うそ、武蔵ちゃん!?」 「立香もここに来てたんだ!しかもアルジュナさんにも会えるとは!ほんっと偶然!!」 武蔵は立香の親友で、アルジュナも度々顔を合わせている。 先程、金時に会ったときも驚いたというのに、間を置かずにまたもや知己に会うとは何たる偶然か。 驚きながらも、ひととおりきゃあきゃあとはしゃいで挨拶を交わすと、武蔵が背後を振り返って手招きする。 それに応えるように、体格の良い老人が歩み寄ってきた。 「立香、この人はうちの爺さまの柳生宗矩。」 「はじめまして!カルデア立香です!えっと、で…」 立香が斜め後ろに視線を馳せてアルジュナをどう紹介するか一瞬迷った隙に、武蔵が先んじて口を開いた。 「こちらはアルジュナさん。立香の未来の旦那様だよ。」 「!?」 武蔵がにやにやと笑いながら、顔を真赤にして固まった立香を面白そうに眺めているのが悔しい。 さらにアルジュナが動じる素振りもなく、当然といった顔で挨拶をしているのも恥ずかしくてたまらない。 そんな立香の動揺をよそに、武蔵の祖父は落ち着いて挨拶を返す。 「お初にお目にかかる。孫娘が世話になっていると聞いておる。」 「うん、私の大事なお友達!まさかこんなところで会えるなんて、夢にも思いませんでした!」 「これから、ばあべきゅうをやるのだが、一緒にいかがかね?」 武蔵の祖父はいかにも厳格な雰囲気を醸し出しているが、微笑むと案外優しげな顔になる。 「え、でもお邪魔じゃ…」 「なに、孫が日頃世話になっておるのだ。それに野外での食事は若者が多いほうが楽しかろう。」 「うんうん、そこの市場で仕入れてきた、海鮮BBQだよ!」 二人の後ろには、新鮮な魚介がトロ箱にたっぷり入っている。 ちなみに箱の隅にうどんもあるが、これはBBQでどうやって使うつもりだろうか。 結局彼女の家族のBBQに参加させてもらうことになり、 「では、こちらは私が運びましょう。」 アルジュナは食材を運ぶのを手伝って、武蔵の祖父と先に行く。 立香は遅れて武蔵と歩きながら、 「もー、変な紹介しないでよ。びっくりするわ。」 「え?だって事実でしょ?まあ、そう言う方が年寄りには覚えがいいものよ。」 「うう…」 「でもせっかくのデートを邪魔しちゃう感じになっちゃって、ごめんね。」 「ううん、いいよ、そんなこと気にしないで。ちょうどお昼どこで食べるか探してたところだから。」 武蔵たちのBBQは、親戚の子供たちも総出の賑やかなものだった。 人数も多く、もはやパーティーと言っていい賑やかさは家族旅行とは程遠く、立香が亡くした家族を思い出す暇さえない。 立香が武蔵と喋っていると、一際高い子供たちの歓声が上がった。 見れば、アルジュナが割れた牡蠣の殻を手に、困った顔をしている。 「どうしたの?」 「すみません、貝はあらかじめ開いておいた方がいいそうで…やってみたら、このように…」 力任せにこじ開けようとしたのか、アルジュナの手の中で牡蠣の殻が粉砕されていた。 「いやほんと、どんな握力してるの…」 牡蠣をぶっ壊したパワーに、子供たちは喜んでいる。 またぐしゃってやってー!と差し出された牡蠣を横から奪い、 「このおにいちゃんに渡すと、全部握り潰されちゃうからねー。そしたら牡蠣食べられないから、おねえちゃんにちょうだいね。まあ、牡蠣は私もあんまやったことないんだけどね…」 この辺に貝柱があるんだよね、とナイフを差し込む隙間を探してねじ込み、貝柱を探り当てて切る。そうやってきれいに開いた貝に、子供だけでなくアルジュナも武蔵も感心する。 「はい、じゃアルジュナはエビの背わた取っといて!」 「すみません、今度やり方を教えてください。怪我には気をつけてくださいね。」 「うん、軍手してるから大丈夫だよ。」 そんなやりとりを横から見ていた武蔵は、立香を手伝うために一緒に牡蠣を手にしながら肘で小突く。 「愛されてますなあ。」 「そりゃもう、愛してますからなあ。」 照れ隠しに口調を真似ておどけながらも、嬉しそうに笑った。 子供たちとも意気投合し、遊びながら新鮮な海鮮BBQに舌鼓を打っていると、側にいたアルジュナが突然はっとしたように顔を背け、 「立香、ちょっと隠れますので、あとはよろしく。」 「え?どうし…」 そそくさと物陰に急ぐアルジュナに声をかけるより先に、理由の方から声をかけられた。 「あら?あらあらあら!?」 突然投げかけられた意外過ぎるその声に、思わず飛び上がる。 それは本来、ここで聞くことのないはずの声… 恐る恐る振り返ると、そこにいたのは、 「み、源先生〜!?」 「カルデアさん、宮本さん、奇遇ですね!」 にこにこと微笑むのは、立香たちの担任の源頼光だった。 武蔵もまさかの担任の出現に、呆気にとられている。 え、ちょっと待ってまずい。 とりあえずアルジュナと同棲しているのはバレてはいないが、風紀にとんでもなく厳しいこの先生が、男と旅行していることを許すはずがない。 アルジュナは素早く逃げたものの、危険が去ったわけではない。血の気が大瀑布のごとく轟音を立てて引く立香をよそに、 「皆さんで旅行ですか?」 その声には探るような響きがある。 女子高生だけでの旅行は、やはり要注意なのだ。 しかし武蔵は動じることなく、 「はい、私の家族と一緒です。今は皆でBBQなのです!」 見ればBBQの参加者の中に見知った保護者の顔もあり、源先生の警戒が緩む。 両親を亡くして独りで夏休みを過ごすことになってしまった立香を旅行に誘ったのだと理解し、一転して満面の笑みとなる。 「まあまあまあ…あなたたちはとても仲良しですものね!」 第一の危機を脱してほっとしたのも束の間、宗矩がやってきて挨拶をする。 おじいちゃんがアルジュナのこと喋っちゃったらどうしよう!? 慌てるものの、口を塞ぐわけにもいかない。 そんな心配をよそに、宗矩はアルジュナの存在には触れずに挨拶をすませ、立香のことも、 「孫の親友ならば、我が孫も同然。子供らのことは万事お任せあれ。」 それだけ言って頼光を安心させてくれた。 無事に第二の危機突破である。 「ところで、先生はここに泊まってるんですか?」 立香が探りを入れたいことを、武蔵が聞いてくれた。 「いえ、私は息子に会いに立ち寄っただけです。あの子は忙しいからって、なかなか実家に帰ってきてくれなくて…ここに来るという話を聞きつけて来たのですが、まだ会えないのですよ。悪い虫にでも捕まっていなければよいのですが…」 「は、はははは…」 立香の脳裏に、先程会ったばかりの酒呑の顔が浮かぶ。 どこか退廃的な色香漂う彼女は、どう考えても源先生のお眼鏡には叶うまい。 「いろいろ調べたのですが、どうも西伊豆の方へ行くらしいので、もう少し南下してみますね。」 何をどう調べたのか、考えるのも恐ろしい。 先生としても怖いのに、母親となるともはやホラーだ。 とりあえずは土肥に滞在しないということに安堵し、金時の健闘を祈りつつ、源先生を二人がかりで押し出すように見送った。 「ふへー…びっくりしたー…」 「アルジュナが見つからなくてよかった…」 一気に疲れ果てて戻ってくると、いつの間にやらアルジュナも戻っていて、宗矩と何やら話している。 宗矩はニヤリと笑って立香に目を向け、 「ふふ…若いうちこそ、勉学も恋も楽しむものよ。」 どうやら承知の上で庇ってくれたようだ。 「ありがとうございますうううう!!!こんなにご馳走になっちゃってる上に、そんな…」 「よい、よい。先程のな、孫の親友ならば我が孫も同然という言葉は方便ではないぞ。さあ、食べ物はまだまだある故、好きなだけ食べるがよいぞ。」 両親を失う以前から祖父母もいなかった立香は、胸が温かくなって、それでいてぎゅっと締め付けられるようで、思わず我が手を胸の前で握りしめる。 自分はなんと周りの人に恵まれているのだろうと、ひしひしと感じるのだ。 「牡蠣焼けたよー!!」 子供たちの声に引き戻され、アルジュナと武蔵に促され、紙皿を手に焼き網へと走って行った。 武蔵たちと別れたあとは、再び二人だけの時間になる。 近場の金山へ行ったりと観光を楽しんでから土産物屋を冷やかしていると、突然アルジュナの腕を立香が引っ張り、 「あれやりたい!」 子供のように目を輝かせる立香の指差す先を何かと思って見てみれば、花火セットが並んでいる。 やりたいやりたいと一直線に店へ引っ張っていく立香の無邪気さに破顔しながら、 「では、夕食後にやりましょう。」 「やった!」 無邪気にはしゃぐ姿を見ていると、嬉しくもあり、安堵する。 まだ両親を失くしてから数ヶ月しか経っておらず、日頃は押し隠している悲しさがふいに表に出てしまうことがある。 それでも心配をかけまいと空元気で笑顔を作る立香を見るのは、辛い。 悲しみが消えることはないだろうが、それに負けぬように少しでも楽しい記憶を作って積み重ねてやりたいと思う。 そんなアルジュナの想いを知ってか知らずか、 「夏休み、アルジュナと行きたいとことかやりたいことがいっぱいあるんだけど、花火もその一つなんだよね。」 「ふふ、それは嬉しいですね。全制覇を目指しましょう。」 「うん、あ、今度花火大会も行こうね!家庭科の授業で作った浴衣、結構うまくできたんだよ。」 「そういえば、まだ見せてもらっていません。」 「ふふー、楽しみにしててね!友達とかわいい柄を選んだんだから。」 「なら、私も浴衣を誂えますか。どこで売ってましたっけ…」 「その辺のショップで結構見かけるけど、アルジュナは手足長いから、サイズ合うのあるかなあ。あ、私の浴衣地選んでくれた友達が神社の娘でそういうの詳しい子だから、聞いといたげる!」 「お願いします。」 「楽しみだな?。アルジュナきっと似合うよ!」 無邪気に喜ぶ立香の笑顔に笑みを返しつつ、いつかまた浴衣を作る機会があったら、そのときは私に柄を選ばせてくださいね、と心の中で呟いた。 夕食後、花火セットの他に打ち上げ花火など二人でやるには余るほどに大量に買い込み、宿で借りたバケツとライターと蝋燭を手に、再び浜辺まで足を延ばす。 立香は早速子供のようにはしゃいで花火を振り回したりしながら、 「そういえば何でだかお兄ちゃんとカルナって、必ずねずみ花火に追いかけられてたよねえ!」 「どちらかといえば、カルナが追われる確率が高かった気がします。」 明滅する花火の強い光に照らされた立香が嬉しそうに笑ったのは、恐らくカルナの話題を振られてもアルジュナが自然に答えたためだろう。 立香の口から他の男、それも特にカルナの名が出ることは面白くないが、せっかくはしゃぐ立香の楽しみに水を差すつもりはさらさらない。立香にしてみれば、カルナも昔からかわいがってくれたおにいちゃんたちの一人なのだとはわかっている。 ここは何もかも放り出して供に楽しもうと、アルジュナも童心に帰って花火を楽しんだ。 浜辺のコンクリートブロックに並んで腰かけ、最後にとっておいた線香花火に火を点けた。 ぱちぱちと小さな音を立て、かわいらしい菊の花のような火花が弾ける光景はなんとも素朴で美しい。 アルジュナに立香がもたれかかり、彼女の肩に腕を回すと嬉しそうに微笑んでアルジュナを見上げる。 「今日はごめんね、私の都合で巻き込んじゃって。いやじゃなかった?」 「そんなことはありませんよ。貴女と一緒ならば、いやなことなどありません。しかし、あの先生が来たときはどうなることかと思いましたが。」 「心臓止まるかと思ったわー。金時さん、逃げ切れたかな…」 「あの人が相手では、難しいかもしれませんね…」 互いに顔を見合わせて笑う。 「…ありがとね。」 ふいにこぼれたお礼の言葉に、アルジュナは首をかしげる。 「どうしたんです?」 「アルジュナ、私が楽しいように、すごくすごく考えてくれてるよね。めいっぱい甘えさせてくれて、ありがと。」 「私こそ、いつも甘えさせてもらっているのですから、当然です。」 消えかかって暗くなってきた線香花火の光を映す立香の顔に、くしゃっとした笑みが浮かぶ。 「ううん。私が急に寂しくて悲しくてどうしようもなくなっちゃったとき、必ずアルジュナがいてくれるんだよ。なんでわかるのかな、すごいよね!アルジュナがいてくれなかったら、私まだきっと一人でしょんぼりして、何していいかわからなかったよ。」 線香花火の火が消え、辺りが真っ暗になる。 両腕で立香を抱き寄せ、 「…私は貴女の笑顔が見たい。ですが、私の前で自分の心を偽らないでください。本当の貴女を見せてください。泣きたいときはいくらでも泣いていいんです。弱音を吐きたければ、いくらでも吐けばいいんです。私がそうさせてもらっているように…」 「うん…そうする。でも、いつか私もアルジュナに何かお返しできるといいな。」 「貴女からはもう有り余るほどいろいろともらっていますよ。」 そう。 この世界に立香だけがいてくれればそれでいい。 そして彼女がこうして自分の腕の中にいてくれれば、それだけで生きていける。 だから立香が幸せでいられるように、自分は力を尽くすのだ。 立香のひなげしの色の髪に顔を埋め、潮の香りに負けないシャンプーの甘い残り香を肺いっぱいに吸い込んだ。 まだかろうじて燃え残っていた蝋燭の芯が倒れると二人の影も夜の帳に飲まれ、打ち寄せる波音だけが響いていた。
fin.
|