シーハーツの双剣、女王に代わってその手を血に染めるクリムゾンブレイド。
 あの女が、シーハーツで最も強い女だと聞いていた。
 そして実際に会ってみれば、女王への絶対の忠誠とアペリス教への深い信仰、シーハーツを守るという断固たる決意に満ちた強い女だった。
 それが、最初の印象だった。



 しなやかな肢体を羽が生えているかのごとく身軽く宙に舞わせ、魔物の攻撃をかわす。
 そのまま中空で身を捻り、施力を込めた短剣を投げつける。
 魔物を切り裂いた短剣がブーメランのように戻ってきて、着地と同時にそれを受け止めながら地を蹴る。
 生まれ持った強い施力と、身軽さを最大限に利用した素早い動きで魔物を翻弄している。
 なるほど、噂どおりだ。
 今までアーリグリフの騎士団がさんざん手を焼いてきたわけだ。あの女に勝てる者など、そうはいないだろう。
 間もなく魔物を退けると、それぞれが今の戦いで負った傷を癒している。
 あの女は自分も怪我をしているにも関わらず、先に仲間たちにヒーリングを施している。どう見ても、相手よりも自分の傷の方が深いではないか。
 案の定、腕から流れる血に気づいた仲間が慌ててヒーリングを返してやっている。
 阿呆な女だ。
 俺は彼らに背を向け、ブルーベリィを口に放り込んだ。
 そんな俺を咎めるように睨む視線を背中に感じる。いいだろうが、別に。ヒーリングをかけるまでもない傷だ。おまえらの手を煩わせる必要はない。それなのに何が気にくわないと言うのか。
 それだけではない。ことあるごとに、あの女は俺につっかかってくる。
 それはそうだろう。
 ついこの間まで、アーリグリフとシーハーツは戦争状態だったのだ。それが突発的に起こった事件(俺は実際には見ていないが)によってあっけないほどに戦争は終わり、新たな敵に対抗するためにいきなり共同戦線を張るときた。
 そう簡単に切り替えがきかないのは、わかる。
 が。
 あの女はまるで、俺自身が戦争をしかけてきたかのような顔で睨んでくる。
 頭では戦争は終わったのだとわかっていても、どうしても割り切れないらしい。
 まったく、頭の固い女だ。
 戦争のことなんざ俺が知るか。ヴォックスが中心になって始めたことだ。
 より強い奴と戦いたいだけの俺にとって国だの戦争だのはどうでもいいことだが、あの凍てついた土地よりも豊かな土地が手に入れば、空腹と寒さの中で死んでいくガキどもを見なくてすむというなら…いや、それもどうでもいいことだ。
 とにかくこれだけは言える。
 腕っ節は強いわ気は強いわ、かわいげのない女だ。

「きゃ…!」
 強力な破壊力の光線を放つ見たことのない武器をぶっぱなす、フェイトにやけによく似た女が魔物の攻撃をもろにくらって倒れる。
「マリア!?」
 振り返り、即座にヒーリングの呪文を詠唱し始めたのは、あの女だ。
 出来る限り素早く詠唱してはいるが、呪文の詠唱中は精神を集中させるため、まったくの無防備となる。
 敵のど真ん中で詠唱始める阿呆がいるか。
 ほら見ろ、真っ先に狙われてるじゃねえか。
 呪文に集中していた女も、魔物の牙が背後に迫った気配に気づいたらしい。しかし既に、かわせる間合いではない。
「…!」
 女を頭から喰らおうとした魔物が、横合いから襲い掛かってきた衝撃波によって切り刻まれる。
「とっとと詠唱すませろ、阿呆!」
 ぎょっとした女を背に回し、立て続けに襲い掛かってくる敵に斬撃を加える。
 驚きで思わず途切れた詠唱を慌てて再開し、女はマリアにヒーリングを唱える。
 自分の背中に向かって女が何か言いたそうに口を開きかけたのに気づいたが、それをわざと無視して残りの魔物を掃討しにかかった。
 ようやく敵がいなくなったのを確認してから、女がためらいがちにこちらへやってきた。
 俺が振り向くと、女は戸惑いに揺れるスミレ色の瞳を逸らし、
「…さっきは助かったよ。」
 やっとの思いといった感じでそれだけ言った。
「…ふん。」
 別に礼を言われたかったわけではないので適当に流すと、女は何かこちらの様子を伺っているようだった。
 きっと、俺が恩を着せようとしてやったのではないかとでも勘繰っているのだろう。
 つくづく、阿呆な女だ。
 そしてその頃から、俺は少しずつこの女の危なっかしさに気づき始めた。
 仲間が傷つけば、敵のど真ん中だろうと目の前にいようと、かまわずヒーリングをかけようとする。その結果、自分が重傷を負うことになっても。
 また、たとえ自分がひどい傷を受けていようと、さらに体力が消耗するというのに仲間を助けようとする。
 体力も精神力も消耗し、足元が危うくなってきても、仲間を援護するために攻撃をやめようとしない。真っ青な顔で、息もとっくに上がっているというのに、なおも敵に向かっていく。
 跳躍していた女が着地するより早く、鞭のようにしなる魔物の足がその体を捕える。
 咄嗟に身を捻ったが、かわしきれるものではなかった。
「…!!」
 まともに正面から攻撃をくらい、体をくの字に折り曲げたまま吹っ飛ばされ、地面に叩きつけられた。
 毬のように女の体が弾み、そのまま動かなくなる。しかし魔物は容赦なくとどめを刺そうと向かっている。
 あれは少しやばそうだ。
 他の連中は離れたところにいて、すぐに駆けつけられる状況にない。
 あんな行動を繰り返していたら、そういう結果になるのは目に見えていただろうが。
 自業自得だな。
 口の中で呟きながらも何故か俺は背を向けず、倒れたまま動けない女を狙う魔物に向かって刀を振るっていた。
 魔物の死骸を踏み越えて、倒れている女に歩み寄る。
 胸部のプロテクターが壊れ、苦痛に顔を歪めておかしな呼吸をしているのを見て、肋骨を傷めたのだとわかった。
 側に膝をつき、傷を見てみる。折れた骨の辺りに触れると、激痛が走ったのかその体が跳ねた。それでも幸い、肺は傷ついていないようだ。
 今はかえって邪魔になっているプロテクターをとめるベルトを外してやってから、
「おい。聞こえてたら、大きく息を吸い込め。」
「……っ」
 幸い意識は失っていなかったのか、瞼をわずかに持ち上げてこちらを見る。俺だとわかってその表情に警戒の色を閃かせたが、激痛がそれをかき消した。
「いいから、早く息を吸い込め。」
 少しの間を置いて、女が息を吸い込もうとする。
 膨らむ肺が折れた肋骨を押し上げ、その激痛に小さな悲鳴を上げる。
「もう一回やれ。」
「…っ…」
 荒療治に目が回りそうな激痛をこらえながら、言われるままにもう一度息を吸い込む。
 折れ曲がった骨が、音を立てて元に戻っていく。
 ようやく骨の圧迫から解放され、呼吸が少し楽になったようだ。それでもまだ呼吸を乱している女に、
「食えるな?」
 半開きになっている唇に、ブルーベリィを押し込んだ。
 まだ動けないでいる女の体を、一応傷に障らないようにしながら抱え上げる。
 やけに軽い。
 こんな細くて軽い体で、無茶をする。あんなことを繰り返していれば、いつかこの体はばらばらに壊れるぞ。既にもう、おまえの体は悲鳴を上げているではないか。
 それなのに…。
「おい、誰かこの阿呆にヒーリングかけてやれ。」 
 動けないため不本意ながら抱かれたままで俺を見上げる女の、激痛に潤んだスミレ色の瞳は、狼狽と動揺に揺れていた。

 だからといって、何で俺がこの阿呆で無茶で無謀な女をいちいち気にかけてやらねばならないのか。
 しかも相手は顔を合わせるたびに、何かといちゃもんをつけてくる。いくら餌をやってもなつかずに、毛を逆立てて威嚇する猫のようなかわいげのなさだ。
 それなのに、だんだんこいつの行動パターンが読めるようになってきた自分がいる。
 そして気がつけば、俺はそれをフォローするように動いている。
 この女はそんな俺の行動に、かえって戸惑っているようだ。
 まあ、当然か。
 てめえは俺たちアーリグリフからシーハーツを守るために戦ってきたんだもんな。
 それでもクリムゾンブレイドの片割れや他の隠密どもは、情勢の変化に従って俺への対応の仕方も変えてきているのだから、やっぱりおまえは融通がきかないということだ。
 俺は仕事柄、命がけで戦う人間をこれまでに大勢見て来た。シーハーツの隠密には女が多いだけに、ほとんどが男で編成されたアーリグリフ軍に対して死に物狂いで挑んできていたが、そいつらを見てもこの女から感じるほどの危うさは感じられなかった。この女だけが、何かと紙一重の危うさを感じさせる。それが一体なんなのか、まだわからないが。
 きっと、こんな無茶な女はこいつだけなんだろうと思う。
 さらに、この女が「仲間」や「部下」というものに極端に甘いこともわかってきた。
 甘さはそのまま弱みにつながるわけで、仮にも封魔師団の隊長だろうに、そんなことでいいのだろうか。確かに部下に人気は出るだろうが、いざというときに指揮官がそれでは全滅しかねない。以前シェルビーが勝手にあの女の部下を人質にとったときだって、あの女は単身漆黒の本拠地に乗り込んできたというではないか。
 そんな行動は、軍人として、それも隊を率いる立場の者として考えられない。
 …ん?
 もしかして、この女は軍人に向いていないのではないだろうか?
 なんとなくそんなことを考えながら、俺は刀を振るっていた。
 目の前の魔物を屠ってから、周囲の様子を見る。
 周りには、成り行きと、ウォルターのじじいの策略で仕方なく道連れになった連中――あの女の言うところの「仲間」とやらがそれぞれ戦っている。
 数で攻めてきた魔物の群れを相手に、手間取っているようだ。
 まったく、見ていていらいらする。
 一度はこの俺を退けたことがあるくせに、その戦い方はなんだ。
 俺はフェイトを囲む魔物の一角に切り込んでいた。
「ありがとうアルベル。助かったよ。」
「勘違いするな、阿呆。あまりの無様さに見てられなかっただけだ。」
 嬉しそうなフェイトと顔を合わせないようにしながら刀についた血脂を拭う俺の背中に、別の視線が注がれているのに気づいた。
 ゆっくりと視線を向けると、驚いたような顔をしたあの女のスミレ色の瞳とぶつかった。
 どうせ、いつもおまえを助けてやったときのように意外そうな顔をしているだけだろう。
 そう思って視線を外そうとした俺の視界の片隅で、ふいに花が咲きこぼれたような気がした。
 はっとして振り返ると、そこには微笑を閃かせたあの女がいた。
 …っ
 嬉しそうな、柔らかい微笑。
 あの女が笑ったところを初めて見た。
 何故か、目を逸らせない。
 その澄んだスミレ色の瞳を吸い込まれるように見つめたまま、阿呆のように突っ立っている俺を見て何と思ったか、あの女は微笑みを浮かべたまま背中を向けた。
 あの女が何故微笑んだか、なんとなくわかった気がした。
 あいつは、俺が「仲間」を助けたことが嬉しかったのだ。
 自分が助けられてもありがたがらないくせに、「仲間」が助けられると我が事のように喜ぶあいつは、俺があいつらを「仲間」だと認めつつあると思ったのだろう。
 そういう奴だ。
 …違う。
 俺はそんなことをしようと思ったんじゃない。
 俺はおまえが思っているような…
 何故か言いようのない罪悪感が胸の奥から沸き上がり、無数の棘となって心に突き刺さる。
 俺には…そんな微笑を向けられる資格はない。

 ある日、宿を求めにカルサアに立ち寄ったときだった。
 夕食までの時間で買い物をする者もあれば、休む者もあり。俺は時間を持て余し、町の中をあてもなく散策していた。そして墓地の側を通りかかったとき、物陰から聞き覚えのある声が上がった。
 それも、尋常でない驚きの声だ。
「そんな…!あの子が!?」
 そっと様子を伺ってみると、見慣れた赤い髪が見えた。シーハーツの服を着た男と向かい合っている。本国と連絡をとりあっているようだ。戦争が終わった今、そんな物陰でこそこそと話す必要はないだろうに、相変わらず用心深い連中だ。
「はい…昨夜連絡が入りまして、遺髪はシーハーツまで持ち帰ったとのことです。」
「……」
 やがて報告を終えたらしい男が立ち去ると、女もこちらへと戻ってきた。
 なんとなくそのまま見ていると、女はすぐ側を通ったにも関わらず、こちらに気づくことなく歩きすぎていく。その小さな背中が、いつも以上に小さく見える。
「…おい。」
 どうして声をかけたのか、自分でもよくわからなかった。
 女はそのときになってようやく俺の存在に気づき、驚いたように顔を上げた。
 こちらを向いた女の顔を見た俺は、思わず息を飲んだ。
 そこにいたのは、俺の知っている女ではなかった。
 鋭いスミレ色の瞳と炎のような赤い髪にふさわしい強い意志を持つ女は、そこにはいなかった。
 立ち尽くしているのは、その細い肩を悲しみに抱きすくめられた女だった。
 呆然としていた俺を引き戻したのは、その女の精一杯取り繕った声だった。
「…こんなところで何やってるんだい。」
「それはこっちの台詞だ。」
 俺の顔を見ようとしない瞳は揺れ、いつもの光が消えている。
「何を泣きそうなツラしてやがる。」
「……」
 明らかに動揺が見られた。
 そんな女をじっと見据えていると、蒼ざめた顔と同様血の色を失った唇がわずかに開いた。
「…グリーテンにやってた部下が、殺された。」
 ぽつりと呟いた言葉に、かえってこちらが驚いた。
 いつもなら絶対にしゃべらないようなことだ。今日に限って、どういう風の吹き回しだろうか。そう思いながらもあえて口にせず、
「ほう…それでてめえは泣きそうになってるわけか。」
「…っ!」
 睨みつけてくる瞳に、いつもの力がない。
 溢れ出ようとするものを必死に堪えているようだ。
 ああ、この女は本当に泣きそうなんだ。
 そう思った俺の表情に、何かを感じたのだろうか。女は俯いて唇を噛み、
「…私がこの件で動けないから…代わりに行かせたんだ。その子が死んだんだよ…。」
「……」
「本当なら、私が行くはずだった…あの子は死ななくてすんだんだ…」
 細い肩が、小さな拳が震えている。
「私のせいで、死なせた…」
「……」
 何故、この俺にそんな話をする気になったのか。それだけショックが大きく気が弱くなっているのだろうが、もしかすると、俺が同じように部隊を率いる立場にいる人間だからかもしれない。
 やっぱりおまえは…
 小さく溜息を吐き、
「それだけの能力がない奴を行かせた。ま、てめえの人選ミスだな。」
「…私が、行っていれば…」
「阿呆。」
 切り捨てるように言われ、女がきっと俺を睨む。それにはかまわずにわざと嘲うように、
「封魔師団とやらは、てめえ一人いればいいようだな。」
「なんだって…?」
「部下に何も任せることもできず、いちいち隊長が出張ろうってんだ。てめえ一人で充分じゃねえか。」
「それは…」
「てめえの部下はそんな役立たずしかいねえのか?」
「そんなことないさ!あんた、皆の努力も知らないくせに…!」
「何があっても死なねえように鍛えて、その努力の成果とやらを見せる機会を与えてやるのが指揮官だろうが。」
「…っ」
 女が言葉を詰まらせる。
 この女も、本当はわかっているのだ。
 やっぱりおまえは…軍人には向いていない。
 能力云々以前に、性格的に向いていない。
「あんたに言われなくてもわかってるさ!でも…」
 俯いた顔にかかる赤い髪が、揺れている。
「でもやっぱり……私が死なせたんだ…」
 消えゆくような言葉の端が、震えている。
 ああ……
 頑なで強いはずだった女の震える肩に触れたら、砕け散ってしまいそうだ。
 やばい……
 その細い肩に、触れたい。
 力の限り抱きしめ、粉々に打ち砕いてしまいたい。
 そうすれば、この女はもう二度と苦しまずにすむ…
 拳を握り締め、沸き起こる衝動を必死に押さえる。
 この女は確かに強い。
 しかしそれは、必死さの現れで。
 仲間を失いたくない、守りたい想いが、この女に己を捨てさせ、鋼のような意思を支えていた。
 本当は、誰一人死ぬのを見たくないくせに。
 自分以外の誰かが死ぬことが耐えられないくせに。
 人々の悲しみを止めるために自分を犠牲にすることを厭わず、その結果自分が死んだことによって、残された者がどれだけ嘆き悲しむかということに思い至っていない女。
 多くの部下の命を一身に背負い、自らの責任感に押しつぶされそうな女。
 だからおまえは、誰より危うかったんだ。
 戦士として生きるには、おまえは優しすぎる。
 俺は……
 次に顔を上げたとき、この女はもとの気丈な顔を取り戻しているだろう。
 それでいい。
 おまえの強さは決意の証なのだから。
 それでも、おまえの涙を、あの微笑をもう一度見たいと思うのは、許されないことなのだろうか。
 クリムゾンブレイドの仮面の下の、ネル・ゼルファーという女の素顔を。

 やばい…
 垣間見た女の素顔を俺の胸から打ち消すことができなければ…


 俺は…この女から逃れられなくなる……


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