「おとうさま、またおしごと?」
「ごめんよ、ネル。次の休みには、好きなところに連れて行ってあげるからね。」
「うん、やくそくよ。だからはやくかえってきてね、おとうさま…」
 幼心にも、父の仕事は命がけの危険なものだと察していた。
 任務で出かけていく父が無事に帰ってきてくれるよう、毎日アペリスに祈りをささげるのが、いつの頃からか習慣になっていた。
 そして父が帰ってきたときには、土産に買ってきてくれる人形やお菓子より何より、真っ先に抱き上げて頬擦りしてくれるその瞬間が、一番の楽しみだった。
 いつだったろうか。
 自分も父と同じ隠密になると決めてそれを父に告げたのは。
 父は困ったような顔をしながらも、自分の決意が固いのを知ってようやく頷いてくれた。
 訓練は厳しかったが、総ては娘が生き延びられる力を得られるようにとの想いからだとわかっているので、少しも辛くなかった。
 早く一人前の隠密になって、クリムゾンブレイドである父を手助けしたい。
 一途にそう思い、ずっと修行に励んでいた。
 ようやく隠密として働き、少しずつ実力を認められはじめた頃に、その報せは届いた。
 父が死んだ。
 優しかった父が、強かった父が死んだ。
 近年戦争状態に陥ったアーリグリフの敵将に討たれたそうだ。
 嘘だ、そんなこと嘘だ。
 止める母を振り切って、敵将によって手厚く葬られたという父の墓へと走った。
 土砂降りの雨が墓標を濡らしていた。
 思えば、涙が枯れるまで泣きじゃくったのは、あのときが最後だったかもしれない。
 そして自分は父の敵討ちを心に誓い、家を出た。

 その頃はまさかあのような形で戦争が終わるなど、思ってもみなかった。
 突然の見たこともない星の船の襲撃、空の向こうの未知なる世界の存在、何もかもが一斉に押し寄せてきて、わけがわからないまま今に至っている感じだ。
 今カルサアを歩いていても、どこかに潜む必要はない。
 兵士とすれ違っても、好奇の視線を投げかけてくるだけだ。
 ネルはまっすぐに、大きな屋敷を目指して歩いていた。
 風雷の駐屯地でもある屋敷の門前に、いかめしい甲冑をまとった兵士が立っている。
 今までならありえないことだが、彼らはどうぞ、と会釈をしてネルが門をくぐるのを許してくれる。
 そんな彼らの態度を見ると、つい先日まで命をかけて戦っていたのはなんだったのかと思ってしまう。  アーリグリフから仕掛けてきた戦争だったが、彼ら兵士は平和を求めていたのかもしれない…。
 重い扉を開け、正面の階段を上り、二階にある一室の前に立つ。
 胸の奥がざわめく。
 そそけだつ氷のような感覚が、漣のように全身に広がっていく。
 この扉の向こうにいるのは、風雷隊長ウォルター伯だ。
 そして、父の敵でもある。
 全身を駆け巡る、凍りつくような感覚を押さえつけるように深呼吸してから、そっと扉を叩いた。
 中から、招き入れる声がする。
 さまざまな書類で山積みになった執務室の机にいるのは、ウォルター伯その人だった。
「…邪魔だったかい?私は…」
 名乗りかけるネルを、ウォルターは懐かしいものを見るように笑みを浮かべた。
「おぬしは、ネーベルの娘じゃな?」
 父の名が出て、どきりとする。
 敵は父を覚えていた。
 それは少なくとも、敵が父を軽んじていなかった証拠と思われ、わずかにほっとした。
 こうしてウォルターと二人で対面するのは初めてだった。
「よく似ておるのう。」
 一見、温和な老人に見える。実際、その瞳は温かな光を浮かべている。
 それでも気を抜けないのは、この老将の体の奥から戦士の気を感じるからだ。
 老いた獅子はその牙や爪をむやみに出したりはしない。そこが、常に牙を剥いているようなアルベルなどとは違うところだ。
 ウォルターは目の前で緊張しているネルに声をかけた。
「そう硬くなるでない。もう戦争は終わったのじゃ。で、わしに何か用かの?」
「…あなたに、聞きたいことがあるんだ…」
 相手は父の最期を看取った男だ。
 その言葉だけで察したウォルターは、ネルに椅子を勧め、遠くを見るように目を細めた。
「そうさな…ネーベルは、わしが遭った誰よりも手強く、敵ながら尊敬に値する男じゃった。」
「……」
 アーリグリフ軍に追われ、深手を負ったネーベルの前に立ったのは、幾度となく刃を交えたウォルターだった。
 互いに身構えながら、一流の戦士である彼らだけに通じる何かがあった。
 どちらからともなく笑みを浮かべる。
「敵ながら死なせるには惜しい男だ。だがわしは、そなたを殺す。」
「…ありがたい。」
 隠密が敵に捕まれば、過酷な拷問が待っている。この男をそのような目にあわせたくなかった。
「言い残すことはあるか?」
「そうだな…俺が死んだら、いつか娘にこの短剣を渡してほしい。」
「……」
「それと、幸せになってくれ、と伝えてもらいたい。」
「承知した。」
 ウォルターは大剣を構えた。
 尊敬するに値する敵に対しては、自分の持つ最高の技でもって臨むのが礼儀だと思った。
「…恐らく、ネーベルは苦しまずにすんだはずじゃ。」
「……」
 目を閉じているネルの中に、懐かしい父の姿が蘇る。
 手を振りながら屋敷を出て行く、最後に見た背中…。
「少々遅くなったが、ネーベルとの約束を果たせるの。」
 ウォルターは鍵のかかった引出しを開け、中から布に包んだものを取り出した。
「受け取れ。おぬしの父の形見じゃ。」
「…!」
 急いでそれを受け取り、柔らかな布をとくと、中から二振りの短剣が現れた。
「竜穿…!!」
 手入れの行き届いた美しい短剣は、間違いなく父のものだった。
「ネーベルとの約束は、確かに果たしたぞ。」
「……」
 短剣を持つ手が震えるのを、押さえることはできなかった。
 じっと俯いているネルに背を向け、ウォルターは窓の外に広がる空を見上げる。
「おぬしの父は、本当に優れた男じゃった。できれば平和な時代に会いたかったが、娘のおぬしとこうして見えることができたのも、何かの縁かのう…」
 ウォルターは眩しそうに微笑んだ。
 父の形見の短剣を抱いたネルは、ウォルターのもとを辞するや走り出していた。
 無我夢中で走り着いたのは、墓地だった。
 戦争で大勢の人間が命を失い、墓地には無数の墓標が林立している。
 ネルはその中を迷わず走り、奥のほうにある一本の大樹の下にたどり着いた。
 濃い緑の影を投げかける大樹の下に、小さな墓標があった。
 石に刻まれた文字はかすれているが、ネーベル・ゼルファーと見てとれる。
 ネルはその墓標の前に崩れるように手をついた。
「お父様……お父様…!!」
 搾り出すように泉下の父を呼ぶその唇が、大きくわなないた。

 どれくらいそこにいたのだろうか。震える肩を撫でる風が、冷たくなってきた。
 何者かの足音が近づいてくるのが聞こえ、我に返ったときには墓地を夕日が染めていた。
 反射的に父の短剣を構えたネルの前に、夕日を背に浴びて立つ長身の姿があった。
「あ、あんた…!」
 アルベル・ノックス。この男もまた、つい先日まで敵だった男だ。
 何の因果か仲間として同行することになったが、この男が率いる漆黒にはさんざん苦汁を飲まされてきた。いい印象があるはずがない。
 しかし当の本人はネルとは正反対に身構える様子もなく、
「…こんなとこで何を泣いてやがる。」
「!?」
 ネルはぎくりとして目元に手を当てた。
 もはや涙は止まっているはずなのに、どうして…。
 誰にも見られたくなかったものを見られた恥ずかしさから、顔を背けて慌てて切り返す。
「あんたこそ、なんでこんなところにるんだい!」
「俺の親父の墓があるからだ。」
 顎で示した先に視線を動かすと、ネーベルが眠る場所とさして離れていない場所に、その墓標はあった。
 グラオ・ノックス。確か、息子を守って命を落としたと聞いたことがある。
 ここはカルサアなのだから、カルサア出身のアルベルの父親がここに眠っていたとしても、少しもおかしいことではない。
 形見の短剣を握り締め、父親の墓に寄り添うように立ち尽くすネルを見て、アルベルはにやりと笑った。
「ふん…なるほどな。てめえの親父の敵を討ち損なってきたってわけだ。」
「!」
「てめえが持ってるその短剣をジジィが手入れしてるのを、一度だけ見たことがある。大事な戦友との約束のものだとかなんとか言ってたのは覚えてんな。」
「……」
 顔を背けたままのネルを、アルベルはおもしろそうに見下ろしている。
「…で、なんで首とってこねえんだ?あんなジジィ、てめえなら殺れんだろ。」
「……そのつもりだったさ…」
 必死に押し殺した声が、震えている。
「でも、できなかったんだ…」
 たとえ戦争が終わったとしても、ウォルターは父の敵であることに変わりはない。その扉を開けるときは、殺すつもりでいた。
 しかし父との話を聞くにつれ、体の奥底に秘めていた殺意が揺らいでいくのを感じた。
 出て行くとき、ウォルターは敵をとらなくていいのかとも聞いてきた。それでもネルは、首を横に振ってしまった。
「父の敵なんだ…殺してやりたいと思いつづけてたさ…!」
 父の死と、その父の命を絶った相手の名を知った瞬間から思い定めてきた。
 それなのに、果たすことが出来なかった。
 もしあのときウォルターが父を殺さなければ、父はどうなっていただろうか。
 恐らく生け捕りにされたことだろう。
 死ねば、生け捕りの屈辱も、拷問の苦しみも味わうことはない。
 隠密として、戦士として生きていくうちに、敵に敬意を払うということがどういうことなのか、だんだんわかってきた。
 ウォルターは父に最大の敬意を払い、殺したのだ。
 思えばあの日、絶対に父の敵を討つと誓った娘を、母は悲しそうに見つめていた。あのときはその理由に気づくことができなかったが、きっと母は敵が夫を殺した理由をわかっていたのではないかと思う。
 ならばずっとずっと胸の奥に秘めてきた憎しみは、恨みの刃はどうすればいいのか。
 唇を噛み締めるネルを見下ろすアルベルは鋭い目をわずかに細め、
「…阿呆だな。」
 彼の口癖で簡単に片付けた。
「…そうだね。」
 阿呆と言われても、反論する気にもなれない。誰よりも自分自身が愚かだと思えるから。
 アルベルは自分の父親の墓標に視線を馳せた。
「てめえにはきちんと敵がいる。ジジィを生かそうと殺そうと、てめえの自由だ。まあ、ほっといてもじきにあの世にいくだろうがな。」
 親父の敵は、俺自身だ。
 そんな呟きが聞こえた気がして、ネルははっと顔を上げた。
 アルベルの父の死は、アルベル自身が招いたものだ。
 その場合、父を奪われた怒りや憎しみはどこに向ければいいのだろうか。燃え盛る憎しみの炎は己を焼き、振り上げた刃は己を刺す。
 その思いを外に向けられるだけ、自分はましだというのだろうか。
 喉まで言葉がでかかったとき、アルベルの右手の指がまだ湿り気の残るネルの目元を拭った。
「…!」
 驚いて声も出ないネルに背を向け、振り返りもせず声を投げてよこした。
「てめえは用事があって出かけてることにしといてやる。だから腫れあがったマヌケな泣きっ面が治ってから帰って来い。」
 慌てて手をやった顔が、心なしか熱い。
 アルベルの姿が見えなくなっても、ネルはそのまま墓地に立ち尽くしていた。
 お父様…私は…
 胸に抱いた刃は、沈みゆく夕日の光を温かく宿していた。


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