「ネルさん、おいしそうなお菓子があったんで皆の分も買ってきたんですが、ご一緒にどうですか?」 ペターニの宿での午後のひと時、買出しに行っていたソフィアに誘われて、彼女の部屋に行く。そこには、マリアとミラージュが既に待っていた。 「おや、他の連中は?」 「うふふ、女性限定なのです!」 楽しそうに笑いながら、ソフィアが台所でお茶を入れて運んできた。 「なんだよ、僕もお茶入れるの手伝ったのに、仲間はずれかよ!」 廊下からフェイトの恨めしそうな声が聞こえたが、ソフィアは無視して扉を閉めた。 そして箱から、見るからにおいしそうなケーキを取り出す。 「あら、おいしそう。」 「本当だ。目移りするね。」 「これは確かに、男性陣にはもったいないかもしれませんね。」 「でしょでしょ?ちょっと高かったけど、買っちゃいました!」 それでは、いただきま〜す、と女性のみのささやかなお茶会が始まる。 ケーキは見かけに劣らず、味も非常においしかった。 普段は甘いものをそれほど好んで食べないネルも、これは素直においしいと思った。 一息つこうと、お茶を口に運ぶ。 ペターニの宿は高級なだけあって、食器もいかにも高価そうだ。 その高価そうなティーカップを、ネルががちゃん、と音を立ててソーサーに落とした。 「どうしたの?」 「いや、なんか…胸がつかえたか…」 …な?と言い掛けたところで、いきなり ぼん! という音が室内に轟いた。 「きゃ!」 「な、なに?」 驚いて思わず閉じた眼を開けて、その音の発生源を確かめる。 …と、ネルが消えていた。 「あら?ネルは?」 「おかしいですねえ、ついさっきまで、そこに…」 隣の席にいたミラージュが、ネルがいた席を覗く。そして、あら、と小さく声を上げた。 「椅子の上に、こんなものがありますよ。」 それは、無造作に折り重なったネルの黒装束とマフラーだった。それを着ていた本人は、いない。 「え?どうしたんですか!?」 「ネルは?」 「もしかすると…」 ミラージュがマフラーをめくってみると、その下の黒装束の一部がもごもごと蠢いていた。それをじっと見守っていると、 「ぷはっ!」 と大きく息を吸い込んでネルが顔を出した。 「いったい、何が起こったんだい!?急に目の前が真っ暗になって、何かがかぶさってきて…」 そう言ったネルが見たものは、はるか上から見下ろす、やたら大きなソフィア、マリア、ミラージュの驚いた顔だった。 三人は、固まっていた。 ネル一人がわけがわからず周囲を見回していたが、突然巨大化したのは他の三人だけではなかった。今やテーブルも、はるか見上げる位置にある。 そして恐る恐る下を見たとき、 「うわあっ!」 思わず悲鳴を上げてしゃがみこんだ。 自分は服を着ていなかったのだ。 その声が、皆の金縛りを解いたようだった。 「ネ、ネネネネルさんがー!ち、ちちちちっちゃくなっちゃったー!!」 そう、ネルは掌に乗るほどのサイズに小さくなってしまっていたのである。 「なんてこと…」 「これは…恐らく、このお茶がきっかけだと思われますね。」 どんなときでも冷静さを失わない心技体を極めた女ミラージュの分析に、一同の視線がお茶に集まる。 そういえば、皆ケーキを食べることを優先して、まだ誰もお茶を飲んでいなかった。 「…確かに、これを飲んだのがきっかけだったわね。」 「ソフィア、これを入れたのはあなたですか?」 「……台所にいたらフェイトが来て、手伝ってくれました。その間に私は食器を用意してて…」 「フェイトね。」 「フェイトくんですね。」 いったい何を仕込んだやら。つくづく飲まなくて良かったと思った。 「フェイト〜!!」 女性陣のすさまじい剣幕に、本人とは関係ないはずの通りがかりのクリフが怯える。 「な、なんだおまえら!?」 「クリフ、フェイトくんを見ませんでしたか?」 「え?ああ、ついさっき突然猛ダッシュで外に駆け出してったなあ。あいつがどうかしたのか?」 「…逃げたわね。」 「と言うことは、やっぱりフェイトが犯人なんですね!」 「何の?」 ますます不審がるクリフに、ソフィアは胸に抱えていたものを見せた。 「…なんだこりゃ。」 そこにいたのは、ネルそっくりのよくできた人形…と、クリフには見えた。 掌にいるネルの人形(に見える)は、やけに顔が赤く、睨むような目つきをしている。しかも本人が絶対着ないようなかわいらしいフリルに飾られたドレスを着ている。 「へー、よくできてんなあ。」 そのスカートを指でつまんだ瞬間、 「凍牙!!」 いきなりその人形が動いて、小さな冷たい棘を投げつけてきたかと思うと、 「トライデントアーツ!!」 「フェスティブアベンジャー!!」 「ぐおうっ!!」 容赦ない攻撃を横合いから喰らい、巨体が見事に吹っ飛んだ。 「ななな何すんだい、このエロオヤジっ!!」 「へ?は?」 密かにHP表示が黄色くなっているクリフは、わけがわからない。 ネルそっくりの人形がいきなり動いてしゃべっているのだから、無理はない。 「クリフさん、お人形なんかじゃありませんよ!確かに小さいしお人形の服は着てますけど、本物のネルさんです。」 「そんなの、誰も人間だなんて思わねえよ!」 「人形だと思っていたから、スカートをめくったんですか?」 「…最低ね。」 「え、いや、その…」 「あとでアルベルさんに言っちゃいますよ。『クリフさんがネルさんのスカートめくった』って。」 「これが今生の別れとなりますね。」 「とりあえず、さよならとだけ言っておくわ。」 「ご、ごめんなさい…言わないで…」 土下座しながらも、恐る恐る顔を上げる。 「…もしかして、それがフェイトの仕業なのか?」 「そうよ。」 「だから彼を探しているのです。」 「ふーん…道理で、おまえらが下りてくる物音を聞いた途端に逃げ出したわけだ。」 「そうなんですよ。そんなわけで、私の分がまだでした。…サザンクロス!!」 「ぎゃああああっっ!!」 宿の壁をぶち抜いて墜ちてきた隕石の下、クリフは潰れた蛙のような格好でくたばった。 「…うるせえぞ。がたがた騒いでんじゃ…」 階段を下りてきた怒気を孕んだ無愛想な声の主に、三人は思わず声を上げた。 「ああっ!アルベルさんっ!!」 「…いいところというか悪いところというか…」 「まあ、どちらにしろ黙っているわけにはいきませんからね。」 「…?」 「聞いてください、アルベルさん!ネルさんがたいへんなんです!」 その名前に、アルベルの表情がぴくりと動く。 「ネルさんが…ネルさんが、クリフさんにスカートめくられたんですよー!!!」 「そっちかい!!」 やっと隕石の下から這い出てきたクリフと、アルベルの目が合う。 「……」 「……」 「……いよぅ、アルベルくん…元気?」 必死に浮かべた笑顔が、強張った。 その直後、隕石で開いた宿の壁の大穴から、どでかいマッチョなオヤジが彼方へ吹っ飛ばされていくのを、ペターニの住人は目撃することになった。 さすがのアルベルもその事件を聞かされて、さらに目の前に掌サイズになってしまったネルを突きつけられては、二の句が次げなかった。 「私たちは、とにかくフェイトを探してきますから!」 「どうやってネルをこんなにしたのか、聞き出さないと!」 彼女たちは呆気にとられているアルベルにネルを押し付け、ものすごい勢いで外に飛び出していった。 仕方なく部屋にネルを連れ帰り、テーブルの上に乗せる。 小さい。 本当に、クリフが人形と間違えるのも無理はない。 だからと言ってスカートをめくるなエロオヤジ、などとも思うのだが。 「…そんなにじろじろ見るんじゃないよ!」 ネルが怒っているのは、自分の格好が恥ずかしいからだ。小さいことより何より、この衣装である。 スミレ色の地に細かな花模様を散らしたドレスに、白いレースがふんだんにあしらわれたドレスなど、本人なら死んでも着ないような衣装だ。 これを買ってきたのは当然ソフィアだ。 体だけ小さくなってしまい、着る服のないネルがまず外に出られるようにと、ソフィアが大急ぎで人形の服を買ってきてくれたのだが。 「よかった、ぴったりです!」 「……気持ちはうれしいんだけど…他のはなかったのかい?」 「えーと、黒にピンクのしましまの猫の着ぐるみがあって、それもかわいかったから迷ったんですけどねえ…」 「…こ、こっちでいいよ、ありがとう…」 そんなわけで、この衣装を着ている。 テーブルの上のネルを眺めたまましばらく彫像と化していたアルベルが、ようやく口を開いた。 「こんなサイズじゃ入らね…」 「サンダーストラック!!」 小さくても、雷は痛かった。 「開口一番何ほざいてんだい、この大バカっ!!」 「ってえな…本当のこと言っただけじゃねえか。」 「この…うわっ!」 詰め寄ろうとしたところで、今や深い溝となっているテーブルの木の継ぎ目に足をとられた。 ぽふ、と倒れこんだのは、アルベルの掌で。 その掌に突っ伏して、ネルは言いようのない恥ずかしさで真っ赤になりながらアルベルを睨むが、怪獣のように巨大なアルベルを見上げているうちにがっくりとうなだれた。 「…はあ…なんかもう、こんなんじゃ怒る気力も湧かないよ…」 脱力したようにアルベルの指にもたれかかったネルは、本当に小さい。 さらさらとした赤い髪をつまんでも、的が小さすぎていつものように指の間を滑る感触を楽しむことが出来ない。 「…あのクソ虫め、くだらねえことを…」 忌々しそうに毒づいたアルベルに、 「ねえ…私、元に戻れるかな。」 「は?」 アルベルの掌を大きなソファーのようにしてすっぽりと収まり、膝を抱えている。 俯いたその様子から、さすがにショックを受けていることがよくわかる。 「もし…もしもだよ。私がずっとこのままだったら…あんた、どうする?」 思わず口に出してしまったが、直後にネルは後悔した。 もし…もしも… 答えを聞きたくない。 耳を塞ごうとした小さな小さな手を、アルベルの大きな指がつまむ。 「くだらねえこと考えてんじゃねえ、阿呆。小さくする方法があるなら、逆の方法がねえわけねえだろ。」 ネルの小さすぎる頬を、指の腹でそっと撫でる。 「でもまあ…戻るのに時間がかかるって場合もあるからな。それまでは持ち歩いといてやる。ただし寝るときは枕元にいろよ。潰しそうだ。」 「うん…気をつけるよ…」 その答えが嬉しくて、一瞬でも不安を抱いた自分が愚かしくて、泣き笑いのような表情で、ネルは温かいその指によりかかった。 そんな動揺を見透かされたくなくて、話題を変えようと小さな頭をぴょこんと上げた。 「ねえ、喉渇いたんだけどさ。私が飲めるカップかなんか、あるかな。」 「あー…」 なるほど、テーブルの隅に置いてあるコーヒーカップでは、今のネルにとっては湯船のようなサイズである。 「仕方ねえな、なんか探してきてやるから、そこでおとなしくしてろ。」 「悪いね。」 台所へ行けば何かあるだろうと踏んで部屋を出て行くアルベルの、いつも以上に大きい後ろ姿を見送った。 テーブルの上にぽつんと残されたネルは、やけに広くなってしまった部屋の中を見回した。そして開け放たれた窓の向こうに目を移すと、いつもと変わらない広さの空が見える。 スカートの裾を持ち、えい、と椅子の背もたれに飛び移る。こういうときは、日頃鍛えた跳躍力がものを言う。 長いスカートが邪魔で動きにくいが、なんとか窓辺までやってきた。 広い空を見上げていれば、今の自分の冗談のような状況も少しは忘れられる気がする。 空の広さは、自分の大きさがちょっとやそっと変わろうと、変わりはないのだ。 どうせ外から見えても、二階では窓辺に人形が座っているようにしか見えないだろうから問題はあるまい。 空を見上げていると、すぐ側の梢から小鳥の囀りが聞こえる。 その囀りを聴くでもなしにぼんやりと空を見上げていると、小鳥が一声甲高く鳴いたと思うと慌てたように飛び去って行ったのに気づいた。 なんだろう、と顔を向けたネルを、大きな影が覆った。 「え…?」 小さなネルがあげた小さな悲鳴は、はるか下の道を歩く人々に耳には届かなかった。 何が聞こえたというわけでもない。 ただ、ふいに脳裏にネルの姿が閃き、いやな予感がしたのだ。 ずっと戦いの中の極限状態に身を置いてきたアルベルは、自分の直感というものに自信を持っている。だから何を考えるより早く、階段を駆け上がっていた。荒々しく扉を開け、テーブルに駆け寄る。ついさっきまで、ネルが人形のようにちょこんと座っていた。しかし、そこに彼女の姿はない。 どこかへ移動したのだろうか。 床を探し回るが、どこにもいない。 さらに部屋じゅうを這うようにして探しても、ネルの姿は影も形も見つからない。 焦りの表情を浮かべたアルベルが顔を上げると、開け放たれた窓に気づいた。 もしや、窓から落ちたのだろうか。 二階の窓から飛び降りても普段のネルなら全く問題はないが、小さくなった今では断崖から飛び降りるようなものだ。 「まさか、あの阿呆…!」 反射的に窓から飛び降りようとしたが、下にネルがいたら潰してしまうと気がつき、階段を駆け降りていった。 いない。 「どこにいやがる、返事しろ!」 すぐ下の植え込みをかき分けても、側にある木を探っても、どこにもいない。 もしかして、落ちたところを人形と間違えた子供に持って行かれたか、犬にくわえられていったか。 想像すればするほど、心臓が凍りつきそうになる。 「ネル…!」 必死の声に、応える声は聞こえなかった。 咄嗟に身を翻し、木の後ろに隠れた直後、先程まで自分がいた空間を弾丸がかすめていく。 「逃げ足だけは宇宙一ね!」 舌打ちしたマリアの視線の先に、彼女とよく似た青い髪の少年がいた。 「こんなとこまで…はっ!?」 慌てて横っ飛びに避けたすぐ側に、 「エリアルレイド!!」 細身の女性の技とは思えない、強烈な蹴りが落ちてきて大地を砕く。 かろうじて直撃は免れたが、かすっただけで腕がびりびりと痺れる。 「くそっ、ここまで来て捕まるわけには…」 木々の間を駆け周り、全速で走る。 そして倒木を飛び越えて着地しようとしたところで、 「エイミングデバイス!」 足元を払うような銃弾に、バランスを崩してしまった。彼女たちを相手に、その一瞬の隙は命取りだ。 「カーレントナックル!」 物静かで美しい女性とは思えないような、鬼のような鉄拳が叩き込まれる。 さすがに地面に倒れ伏したところへ、止めとばかりに 「ダークサークル!」 「わあああぁぁぁ…」 暗黒の渦の中に吸い込まれ、ようやくフェイト捕獲作戦が成功した。 「捕まえましたよ。」 首根っ子をつまみ、軽々とぶらさげるのはミラージュだ。さすがのフェイトも観念したか、女性陣の前におとなしく引き据えられた。 「ネルさんに何したの!?」 「というより私たちのお茶に何入れたの?」 「…飲んだらちゃんと好感度が上がる惚れ薬…のはずだったもの。」 「何それ!そんなの作って、私たちで実験しようとしたの!?信じられなーい!フェイトのバカバカバカ!!」 「はあ、またくだらないことを…」 「自然に戻ればいいですが、念のため薬の成分を分析しておきましょう。」 女性陣の非難の集中砲火を浴びながら、フェイトが小さく声を上げた。 「…あ。」 「何よ。」 上を向くフェイトに向けられる視線が冷たい。 「ごまかして逃げようったってそうはいかないわよ!」 「そうじゃなくて、ネルさんが…」 「どこにいるのよ。」 「空。」 「そんなでまかせを…」 「今飛んでった鳥が、それっぽいの持ってたんだけど。」 皆が空を見上げたそのときには、鳥は遠くへ飛び去っていた。言われてみればその小さな足に小さな物体を持っているような気がしないでもない。 「……」 「まあ、何か持っているようではあるけど…」 そうこうしているうちに、鳥はどんどん遠ざかっていく。 念のため、マリアがクォッドスキャナーで鳥を映して拡大する。 と、その鳥は確かに小さな人形のようなものを掴んでいた。 見覚えのある、真っ赤な髪の。 「っぎゃあ〜〜〜!!あれ、ネルさんじゃないですかー!!」 「ネルが鳥にさらわれたって、何でもっと早く言わないのよ!」 「さっき言ったじゃん!」 「とにかく、きっと彼が血相変えて探していると思いますから、私は宿に戻ります。あなたたちは彼女を追ってください。」 こういうとき、冷静な人間がいると助かる。 二手に分かれ、街に戻ったミラージュが見たものは、泣きながら逃げてくる子供たちだった。 「てめえら、赤い髪の人形拾ってねえか!?」 「うわあああん!」 子供にとってはナマハゲより怖いであろう形相の男は、アルベルだった。いつにないその取り乱した様子に、彼もまたネルを探しているのだとすぐわかる。 「アルベルさん。」 返事の代わりに、目が合っただけで殺されそうな眼光で振り向いてくるが、そんなものに動じるミラージュではない。 こんな場合でなかったら、 心底、彼女が大事なのですね。 とでも言って微笑んでいたところだ。 「ネルさんは鳥にさらわれてダグラスの森に向かっていますよ。」 「鳥ぃ!?」 一瞬呆気に取られたような表情を浮かべたが、その表情が消えるより早く、ペターニの西門へと猛然と走り出していた。 鳥は大きいが、確かこの鳥は肉食ではないはずだ。しかし何故自分をさらって…いや、持って行こうとする? 飛んでいるのは、方向からしてダグラスの森の方だろう。 はるか下にある地表を眺め、頼むから今落とさないでくれと必死に祈る。 その祈りが通じたか、鳥は大きな木の中に入り、枝と枝の間に器用に作った巣の中にネルを持ち込んだ。 そして巣の一角に、嘴でぎゅうぎゅうと押し込もうとする。 「いてっ!つつくんじゃないよ!」 枝や草が絡み合った巣に押し込められながら周りを見回して、納得した。 どこから拾ってきたか、羽毛に混じって柔らかそうな布切れや紙切れも一緒に巣の材料として使われている。なるほど、自分の今の衣装は鳥から見ても気持ちよさそうな寝床の素材になりそうだ。 とりあえず、とって食われる心配はなくなったことで安心する。 じっと息を潜め、鳥がまた飛び立つのを待ってから行動を開始した。 巣の中を探るが、使えそうなものは見当たらない。仕方なく、空身で巣から這い出てみた。 高い。 普通に見ても、他の木より高い。それでも普段ならなんなく降りられるが、今のネルにはクロセルの背に乗って空を飛んだのと同じくらいの高さであった。 落ちたら、確実に死ぬ。 そんな木の上で動くのに、ふわふわと長いスカートが邪魔だ。 せっかく買ってくれたのに、ごめんソフィア。 口の中で謝ってから、思い切りよく裾を引き裂いた。 いつもほど短くはないが、下がそのまま下着だけにさすがのネルも恥ずかしい。しかし背に腹は代えられず、その格好で壁のような木にとりついた。 この木はなんだろうか。大きすぎてわからない。 木の表面が、これほどひっかかりのないものだとは思ってもみなかった。わずかな凹凸になんとか指をかけ、じりじりと降りていく。 まるでフリークライミングを延々と続けているようなものだ。 果たして下につくまでに体力がもつだろうかと不安を感じてきたネルの目に飛び込んだものは、幹に絡まる蔓だった。アペリスの助けとばかりにそれにとりつき、それでも慎重に降りていく。 やっとの思いで地面に降り立ったときには、へとへとになっていた。いかに日ごろ鍛えているとはいえ、断崖をひとつ降りてきたようなものなのだ。 木の根に寄りかかるように、倒れこむ。 喉が渇いた。 お腹がすいた。 それより… あいつはどうしているだろうか。 いきなり自分が消えてしまったことで、きっと驚いて探しているはずだ。 あいつの言うとおり、おとなしく座っていればよかった。 そうすれば、こんな予想だにしない危機的状況に陥ることはなかった。 ひんやりとした草に埋もれていると、あの掌のぬくもりが思い起こされてくる。自分が窓辺に行かなければ、きっと今ごろはまたあの掌にいることができただろうに…。 「!?」 ぐったりとしていたネルが、突然弾かれたように跳ね起きて地に伏せた。 森の奥から、その気配が冷気のように流れてくる。 この気配を、よく知っている。 魔物だ! ネルは反射的の腰の後ろに手を回した。 しかしその手が空を切る。 「!」 そうだった。今は、寸鉄も帯びていないのだ。 焦るネルに、その気配は近づいてくる。 ダグラスの森にいる魔物はさほど強力ではないとはいえ、今のネルにとっては脅威だ。仮に施術を使ってみたとしても、ほんのわずかに魔物の皮膚を焦がすくらいしかできないだろう。 絶対に、勝てない。 恐らく餌を求めているだろう魔物の息遣いが迫ってくる。 このまま気配を押し殺しても、魔物の嗅覚は自分を捉えるだろう。そのときになってからでは、逃げ切れまい。 ネルは意を決して素早く印を結んで精神を集中した。 鬱蒼として薄暗い森の中、魔物の目の前で突然眩い電光が弾ける。 「ギャッ!!」 小さな小さなサンダーフレアだったが、魔物の目を眩ますには充分だった。 音と光に驚いている隙に、ネルは丈高い草をかき分けて走っていた。 敵から逃げることは、よくあることだ。 どこかの誰かと違って無謀な戦いはしないネルは、退くときは退く。 しかし今の気持ちは、それとは別に情けなさでいっぱいだった。 薄暗い森の底辺は、さらに暗い。 足元に茂る雑草のはずが、ネルの背丈と変わらない高さの草となり、視界を遮る。 時折出くわす虫は魔物のように巨大で、ネルはその度に何度か声を上げてしまった。 早く帰りたい。 ずっとこの姿のままでかまわないから、皆の元ヘ帰りたい。 そしてもう一度… 唇を噛み締めたネルの視界が、突然開けた。 踏み固められた地面だ。 「道だ!」 魔物に見つかるので真中を歩くことはできないが、道に沿って歩いていけば少なくともこの森を脱することができる。 ようやく小さな活路を見出したネルは、空を見上げた。 空が茜色に染まり、日が沈もうとしている。 森が闇に包まれる前に、夜露を凌げる場所を探したい。 ネルは目を凝らして薄暗くなった周囲を見回した。 縮尺が大きく変わってしまっているのでわかりにくいが、木の並び方などに見覚えがある。 「たぶん、こっちに行けば…」 ネルは道沿いの草に身を隠しながら、再び走り出した。 ネルの記憶は正しかった。 本道から逸れる形で入った道の先に、小さな小屋がある。 かつて月影盗賊団のアジトだった場所だ。 ここでロジャーと出会い、偶然出くわした月影団長を倒して壊滅させたのである。 あの小屋に行けば、なんとかなる。 ネルは人気のないのを確かめてから小屋に駆け寄った。 扉は開いていないが、幸い木の壁が割れた隙間がある。ここを通れるのは、今のネルとねずみくらいのものだ。 そこから中に入り込むと、小屋の中は真っ暗だったが、少なくとも人が生活していた痕跡を感じさせるだけ安心感がある。 それでも壊滅したとはいえまだ盗賊の残党が入って来る可能性は高いので、ネルは木箱などが積み重なった部屋の片隅の、折り重なったボロ布の中に身を隠した。 埃っぽいが、布にくるまれば温かいし姿を隠せる。 たとえ盗賊団の残党が入ってきたとしても、こんなところに埋もれている人形のような自分に気づくはずはあるまい。 明日の朝になったら、ペターニの街へ帰ろう。 ようやく落ち着いた途端、疲労からか、吸い込まれるように瞼が落ちていった。 けだるい闇の底にあった意識は、その物音に引っ張られるように覚醒した。 はっと目を開けたネルは、不覚にも寝てしまったことを後悔しながらも小さな身を伏せて気配を伺う。 暗かった室内が、ぼんやりとしたオレンジ色の光に照らされている。ランプの光だ。 そしてその光に照らされて、二つの影が揺れていた。 「ちっ、今日の稼ぎもしけてやがる。」 「最近は、あの変な化け物どものおかげで商売上がったりだ。」 そんな会話を漏れ聞くまでもなく、盗賊団の残党だと知れた。 酒を飲む二人がガラクタの山の片隅に隠れているネルに気づくはずもなく、彼らが出て行くまでじっと息を潜めていようと思った。 そんなときだった。 ふいに、胸に何かがつかえたような息苦しさに襲われた。 「…?」 息苦しさだけではない。 なんともいえない違和感が全身を襲われる。 「う…っ…」 ネルは胸元を掴み締め、布に突っ伏して低くうめいた。 ダグラスの森を這いまわるようにして探しつづけているうちに、もはや日も暮れてしまった。 視界が利かなくなった今、マリアが持ってきた光を放つ不思議な道具を借りて、それで地面や木々の間を照らして探す。 手分けをして虱潰しに探しているが、ネルは見つからない。 「ネルさ〜ん!どこですか〜!アルベルさんが泣きそうですよ〜!」 鬱蒼とした木々の向こうからそんな声が聞こえるが、もはやそれに対して反論しようという余裕もない。 「どこだ、どこにいやがる!」 足を踏み出そうにも、潰してしまわないように一歩ずつ足元を探りながら森の中を進んで行くために時間がかかる。 探し始めてから、既に何体かの魔物に出会って倒している。 もしあの姿で魔物に見つかってしまっては、非常に危険だ。 星の船からもなんとかという装置を使ってネルを探してくれるというが、その結果を悠長に待っていることなどできない。 何故あのとき、ネルを置いて部屋を出たか。 台所に行ってくるくらい、連れて行けばよかったではないか。 一生小さいままだってかまわない。 とにかく、生きて帰ってきてほしかった。 あいつがいない世界なんざ… 血が滲むほど唇を噛み締めたとき、森の中に甲高い電子音が鳴り響いた。 それは明かりと共にマリアに持たされた通信機とやらから発せられていた。とりあえず、受信の仕方だけ教わっている。 その受信スイッチを押した途端、 『アルベル?ディプロから、ネルの生体反応を見つけたって連絡があったわ。』 マリアの声が聞こえる。 『届いた座標を調べたら、月影盗賊団の小屋の辺りよ。』 その瞬間、アルベルは猛然と駆け出していた。 森を切り開いた場所に立てられた小屋が、月明かりを受けて淡い影を浮かび上がらせている。窓からは明かりが漏れ、人がいる気配もする。 中の状況をまず探ろうかと足を止めたとき、ひっそりと佇んでいたその小屋の中から聞き覚えのある叫び声が耳に飛び込んできた。 「うわああああっ!!ア、アイスニードルっ!!」 ネルだ! その尋常でない叫び声に、刀の柄に手をかけて駆けつけ、けたたましい音をたてて扉を蹴破る。 「ネ…!!」 「あっ…!!」 アルベルの目に飛び込んだのは、動きかけた形のままで凍りついた男二人と、壁際で身体を丸める、人形のような小ささではない見慣れた大きさのネルだった。 …が。 顔中を真っ赤にして必死に我が身を抱えるネルは…何も着ていなかった。 半泣き状態でボロ布を抱えている裸のネルと、氷の彫像と化した二人の男と、順番に比べるように見る。 「…………。」 ……ぶちん! 何かがブチ切れる音を、ネルは確かに聞いた。 そして同時に、彼が何を考えたかも察した。 盗賊たちが氷の呪縛から解放されたとき、その鼻先に冷たく輝く白刃が突きつけられていた。 「え?なな、なんだ!?」 「うわ…!?」 「きさまら………覚悟はいいか。」 「ちょ、ちょっとあんた、違っ…!」 ネルが叫んだときには、もはや手後れだった。 土下座させられたフェイトの頭を踏みつけるだけで許してやったネルは、疲れた足取りで宿の階段を上っていった。階下からソフィアとマリアの怒声と必死に謝るフェイトの叫び声が聞こえるが、後ろ手に部屋の扉を閉めたところでその物音もだいぶ小さくなった。 元に戻ったすらりとした両腕をうんと伸ばし、大きく伸びをする。 そして疲れた表情でベッドに腰掛けている男を見やった。 「まったく…あんたもそそっかしいね。いくら盗賊だって、あれじゃかわいそうじゃないか。」 「阿呆。あの状況を見りゃ、誰だってそう思う。」 「まあ、それもそうかもしれないね。」 あのとき布の中に隠れていたネルは、薬の効果が切れたのか、突然もとの大きさに戻ってしまったのだ。 そうすると当然、着ていた小さな人形の服など破れてしまい、裸で放り出される羽目になってしまったのだ。 ネルも驚いたが、彼らも驚いただろう。小屋の中には誰もいなかったはずなのに、いきなり女が、しかも裸で現れたのだ。 そしてネルの姿を見て邪な考えを抱くより早く、パニック状態になったネルのアイスニードルを喰らってわけがわからないうちに凍りついたところへ駆けつけたのが、アルベルだった。そしてさらにわけがわからないうちに、何故か激怒している新たな侵入者に地獄に堕ちたほうがまだましだという目に遭わされた…というわけだ。 ネルは隣に腰掛けて、頬杖をついているアルベルの長い髪を引っ張る。 「私が襲われたと思って、あんなに怒ってくれたんだ?」 「……」 照れ隠しか、アルベルはそっぽを向いたまま振り返ろうとしてくれない。 ねえってば、と髪を引っ張っても、意地でも振り向かないつもりらしい。 そんな男の性格をよく知っているネルは苦笑して、相変わらず向こうを向いたままのアルベルの肩にもたれかかった。 「心配かけて、ごめん。それと、ありがとう。」 「……」 何も言わずに、ネルの肩に腕が回される。それで充分アルベルの言いたいことを感じられるのだが、 「人の言うことを聞かねえからだ。」 そう毒づくのがこの男らしいところだ。 温かな体温を感じながら、ネルは改めて大きく息を吐く。 「一時はどうなることかと思ったけど…こうして戻ってこられて、元の姿にも戻ることができてよかったよ。」 …あんたの側に帰ってくることが、私の望みだったんだから。 その言葉は口には出さなかったが、心の内が伝わったのだろうか。顎に指がかかり、上を向かされたネルの唇をふわりと温かなものが塞いだ。 いつになく優しいキスが、彼もまた心から安堵してくれていると感じさせる。 しばしその蕩けるような温もりに浸ってからそっと離れ、その胸に体を預けた。 そんなネルを抱いたまま、 「おい。」 「なに?」 「あのとき、てめえがあのまま小さかったら、戻るまで持ち歩いてやるっつったよな。」 「うん。」 「訂正だ。今度てめえが小さくなったら、俺も一緒に縮んでやるよ。」 「え…」 「あんな小さくちゃ、うっかり触ることもできねえじゃねえか。でも同じサイズなら、今と変わらねえだろ。」 胸元に伸びる手をぴしりとはたきながら、 「ふふ、掌に乗せてもらうってのもなかなか楽でよかったんだけど。」 微笑んで、その首に両腕を絡めた。 そうだね、やっぱりこうして抱きしめてもらうほうがいい… 背中に回された腕の温もりに、ネルは心からの微笑を浮かべる。 「…ねえ。」 「なんだ。」 「しばらく、このままでいてもいいかい?」 「いやだ。」 「だめ?」 拒否された理由がわからず上目遣いに見上げると、まるで悪戯を思いついたかのような笑みがあった。 「俺はとっととこの続きに移る気なんだがな。」 ネルは瞬間呆気にとられたような顔をしながらも、 「ちょっとくらい我慢しな、バカ。」 「ちょっとだけだぞ。」 よかった。本当によかった。 あんたの腕の中に帰ってこられて、本当によかった…。 先程まで聞こえていた階下の騒ぎも、今や静まっていた。 ちなみに静まり返った宿の軒先に、黒にピンクのしましまの猫の着ぐるみを着せられたフェイトそっくりの人形が泣きながら逆さ吊りになっているのが発見されたのは、翌朝のことだった。 |