誰がために



 ガントレットの止め具を外す手が、いつもより手間取っている。
 それはそうだろう。
 ガントレットの一部が歪み、止め具もいびつになって外しにくくなっているのだ。
「手伝おうか?」
「いらねえ。」
 ソファに並んで座って覗き込むネルの申し出を素っ気なく断ると、右手で皮のベルトを掴んで力任せに引き千切った。
「あーあ…乱暴なんだから。」
「どうせ修理しなけりゃならねえんだ。今更修理箇所がひとつやふたつ増えようと関係ねえだろ。」
「そりゃそうだけど…うわ。」
 ネルが形のいい眉をしかめたのは、ガントレットの下から現れた左腕に、赤黒い穴が食い込むように穿たれていたからだった。
 これは魔物の牙の痕だ。
 ネルをかばって、咄嗟に突き出した左腕。
 ただでさえ火傷の痕が痛々しい左腕の傷を洗い、傷の具合を見る。
「幸い骨は無事みたいだし、毒もないようだね。これなら私の力ですぐに治せるよ。」
 アルベルの腕を優しく抱くようにして、ヒーリングを唱える。
 温かく柔らかい光が腕を包み、傷口が見る見るふさがっていく。
 ヒーリングでは古い傷は治せないため、焼け爛れた皮膚はそのままだが、魔物にえぐられた牙の痕はきれいに再生した。
「はい、もういいよ。」
 ぽん、と左腕を叩くと、確かめるように左の手指を動かしている。
「ふん…ご苦労。」
「……」
 ネルが黙っているのは、横柄な彼の態度のせいではなかった。
「なんで、あのときすぐに言わなかったのさ。」
 アルベルに突き飛ばされたネルは、彼が左腕に魔物の攻撃を受けたことに気づかなかった。
 ネルが体勢を立て直して振り返ったときには、アルベルは魔物を叩き斬っていたのだ。
 それからアルベルは何事もなかったかのように、そのまま残る魔物に向かっていた。
 あとになって考えてみれば、あのあとから左腕を使う攻撃をしなくなった気がする。
 我慢せずにすぐに言ってくれれば、すぐに治したのに。
「もし毒に侵された状態でこれだけ放置したら、命に関わるよ。」
「…まあ、そんときゃそんときだ。」
「あんたね…」
 呆れたように溜息を吐きながらも、この一見投げやりで何も考えていないような台詞の裏にある恐ろしさに気づいていた。
「ねえ…」
 繕え、とこれまた横柄に突きつけるアルベルから、破れてしまった長手袋を受け取りながら、
「…あんた、もうちょっと自分を大事にしなよ。」
 長い前髪の下から真紅の瞳が覗いたが、すぐによそを向いてしまった。
「あんたにしてみれば、誰かを助けようと思うってことが既に奇跡だっていうのはわかるんだけどさ…」
「ふん、人にとやかく言う前に、まずてめえ自身がそうするべきだな。」
「私はあんたみたいに無謀な戦い方はしないよ。」
「ほう。誰かが怪我すりゃ、敵の目の前だろうとヒーリングを唱え出しては攻撃くらってんのはどこのどいつだ。てめえがちゃんと安全な場所でヒーリングかけてくれるってんなら、その場で治してくれって言ってやるよ。」
 言葉に詰まるネルの右腕を、いきなり強く引っ張る。
「…っ!」
 その瞬間、ネルの顔が痛みに歪んだ。
「いいかげん、その肩をなんとかしろ。」
「…気づいてたんだ。」
 すぐに緩められた手から逃れるように腕を抜くと、右肩をそっとさする。
「さっき受身取りそこなったときに捻ったんだろうが。裂傷よりも筋を傷めるほうが厄介だっつーのに。」
「あとで冷やしとけばいいと思ったんだよ。」
「あとでっていつだ。」
「あんたの怪我を治してから。」
「その割にはのんびり座ってやがったな。」
「だから…」
「いいから、今すぐ治せ。でもって冷やして今日はおとなしくしてろ。」
 仕方なくヒーリングを唱えるネルの肩に、既に用意してあったらしい炎症止めの薬草をすり潰して作った湿布を貼り付ける。
 清涼感とともに染み込むような冷たさが、少し腫れて熱を持っていた患部に心地よかった。
 戦場で生きていると、自然と応急処置などの手際はよくなるものだ。
 細工レベルの低さが嘘のように包帯を巻く手つきは手馴れていて、肩関節を程よく固定しながら巻いていく。
 間もなく巻き終え、包帯の結び目を折り込んできれいに隠した。
「…ありがとう。」
 なんとなく目を合わせずに礼を言いながら服を整えるネルを、隣に腰掛けたままじっと見ている。
 その視線が何故か痛く感じられて、振り向こうとしたときだった。
「…言っておくが、俺よりもむしろてめえのほうが危なっかしいぞ。」
 ぼそっと呟くように言う。
「だから私はあんたみたいに無茶な特攻はしないって…」
「戦うときの話じゃねえよ。」
「え?」
 中途半端な角度に振り向いたまま、ネルは戸惑いを隠せなかった。
「どういう…」
「俺の命は、俺のもんだ。あのとき死ぬはずだった俺が親父に押しつけられたこの命を何にかけようと、他人にとやかく言われたくねえ。」
 ああ、そうだ。
 この男は、十年近く前にドラゴンの炎に焼かれて死んでいたはずだったのだ。
 父グラオが息子を突き飛ばし、身を呈して守っていなければ。
 父親を失い、左腕に一生消えない傷を受けた代わりに、アルベルは命を得た。
 そのことが、この男をひたすら戦いへと駆り立てるのだと思っている。
 己の弱さ故に父親の命を背負ってしまったこの男にできることは、強くなることだけだったのだろう。
 また一方で、超えるべき父という存在を失って、一生追いつけない幻を追いかけてがむしゃらに戦い続けているのかもしれない。
 だからあんたを見てると悲しくなってくるんじゃないか…
 胸の奥に灼けた錐を突きこまれたような痛みを感じるのだ。
 それなのに、何故そんな男よりも危なっかしいと言われなければならないのか。
 戸惑うネルを、真紅の瞳がまっすぐに見据えた。
「てめえの命は、誰のもんだ?」
「…私、の…?」
 喉まで出かかった言葉を、思わず飲み込んでしまった。
 しかしその言葉は、アルベルによって続けられた。
「クリムゾンブレイドは女王の代わりにその手を血で汚す双剣。女王に絶対の忠誠と、命を捧げた存在……だろ。」
「……」
 ネルは黙って頷くことしかできない。
「女王が死ねと言えば、その場で死ねるのがてめえだ。違うか?」
 喉の奥がひりひりする。
 何故だろう。
「…陛下はそんなことをおっしゃる方では…」
「今のところはな。」
 かろうじて搾り出した声を、あっさりと切って捨てされる。
「もし女王のためにてめえの命をよこせと言われたら、はいどうぞと言うだろうが。」
「……ああ、そうするね。」
 答えながら、胸がきりりと痛んだ。
「あとに遺された連中のことは考えずに。」
「……」
 ちょっと前までは、胸を張って答えていただろうに。
 それなのに、何故今はこんなにも苦しいのだろう。
 そんなネルの葛藤は相手にも伝わるのか、大きな手が赤い髪をくしゃ、とかきまわす。
「そんな泣きそうなツラすんな。」
「……」
 女王への忠誠心は少しも揺るがないのに、この動揺はなんなのだろう。
 そういえば、ネルのそんな価値観に対して最初に率直に異論を唱えたのは、フェイトだった。
 もしかすると、その頃から心が揺れ動いていたのだろうか。それでもそのときは、まだネルの思いは何ら変わっていなかったはずだ。
 それならば、何故…
「…フェイトたちに言われるならまだしも、よりによってあんたにそんなこと言われるなんてね…」
 これ以上動揺を見透かされたくなくて、わざと肩をすくめてみせる。
「別に、命をかけることを否定してるわけじゃねえ。ただ、無駄に死ぬことと、命をかけることとは別ものってことだ。」
 ネルの髪を玩んでいた手でそのまま引き寄せると、ネルは抗わずにアルベルの肩に頭をもたせかけた。
「そうだね…でも本当に、あんたがそんなこと言うと思わなかった。」
「…俺も最近になって気づいたことだからな。」
 もたれかかったまま相手の顔を見ようとしたが、上を向いたその表情を伺うことはできなかった。
 歪のアルベルと呼ばれる男のそんな変化をアーリグリフの人間が知ったら、どう思うだろうか。
 ある意味、星の船の襲撃よりも驚くかもしれない。
 しかし、さっきはネルをかばって平気で自分の身を危険にさらしたではないか。
 それこそ無駄死にではないかと思うのだが。
 理解に苦しむが、言われてみれば一緒に戦い始めた頃とは少し違ってきている気がしないでもない。
「…そういえばあんた、最初の頃は死に場所を探してるみたいな戦い方してたっけ…」
 本当に、肉を断たせて骨を切るではないが、今以上に無謀な戦い方をしていた。ネル一人では傷を癒しきれず、薬を使いながら数人がかりでヒーリングをかけたことも数え切れない。よくもまあ、今まで五体満足でいられたものだと感心できるほどだ。
「……まあ、そんなもんだったかもな。」
「今は違うのかい?」
「死ぬより先に、やらなけりゃならんことができたからな。」
「そうだね。創造主とかいってふんぞりかえってる奴をこらしめてやらないとね。」
「それもあるが…」
「違うのかい?」
 きょとんとした顔で見上げてくるネルをちらりと見て、アルベルは小さく溜息を吐いたようだった。
 気を取り直したように長すぎる前髪をかき上げ、
「今でも戦いの中で死ねれば一番いいとは思うが、ジジイになって布団の上で死ぬのも悪くはないと思えるようになってきたしな。」
「……」
 大きな目を見開いて見つめられて恥ずかしくなったのか、アルベルの顔がどこか赤い。
「……なんだよ。」
「ほ…本当にびっくりしたから…」
「…うるせえな、笑いたきゃ笑え。」
「いや、笑わないよ。だって…」
 私も、そうだから。
 ぴたりと寄り添っている状態でやっと聞き取れる程度の声で囁いた。
「もちろん、陛下のためならいつでもこの命を捧げるさ。でも、大事に使おうという気にはなってきた。やっぱり、私の命なんだからね。」
「てめえだけのものじゃねえよ。」
「え?」
「…なんでもねえ。」
 ぶっきらぼうに言い捨て、またそっぽを向いてしまった。
 いつまで待ってもこちらを向いてくれないアルベルの胸板に体を預けたまま、ネルはぽつりと呟いた。
「あったかいね、あんた。」
「あ?」
 いきなり何を言うのかと、ようやく怪訝な顔で振り返る。
「あったかいってことは、生きてるってことだろ?さっきみたいに私を助けて、もし毒なんかくらっててごらんよ。今ごろ冷たくなったあんたにこうしてるところだった。」
「何もしてなけりゃ、てめえが冷たくなってたかもしれねえだろうが。」
「…そうだね。」
 くす、と微笑む。
「ねえ…あんたは今、なんのために命をかけてるんだい?」
「……なんでもいいじゃねえか、別に。」
「よくないよ。かけてるんだろ?創造主を倒すことより大切だと思ってることに。」
「まあな。」
「じゃあ、何さ。」
 口ではなんだかんだ言いながらアルゼイ王を尊敬していることは知っているが、ネルのように命がけの忠誠を捧げているわけではないとわかっている。先程自分で言い放ったとおり、この男は己の信念のために己の命を使っているのだから。
 だとしたら、この男が命をかけてもいいと思っているものは、なんなのだろう。
 ずっと見上げているが、何故だかこちらと目を合わせようとしてくれない。これでもかとばかりに向こうを向いている。
「ねえってば。」
 ネルの追求をかわすように相変わらず顔を背けたまま、ふいに呼びかけてきた。
「おい。」
「なに?」
「てめえが何に命をかけようと勝手だが、絶対に俺より先に死ぬなよ。」
「は?」
 何を言い出すやら。
 死ぬ順番なんてそのときになってみなければわからないというのに。
「…俺の息があるうちは、女王のためだろうと何だろうと、絶対にてめえは死なせてやらねえから覚悟しとけ。」
「え…」
 心臓が、どきりと跳ねる。
 まさか、それが答えだというのか。
 創造主を倒すよりも大切な。
 この世界を救うことよりも大切な…。
「…バカだね…そんなことで死んだら、それこそつまらないじゃないか…」
 搾り出す声が震えている。
「俺の命を俺が何に使おうと勝手だと言っただろうが。」
 見えない糸が胸の奥を幾重にも巻き締めていく。
 それは切なくて、また嬉しくて。
 熱いものがこみ上げてくる。
「それじゃ私に、あんたが死ぬ様をおとなしく見てろっていうのかい?冗談じゃないよ…」
 女王のためのクリムゾンブレイドなのに、女王のためだけに命を捧げることに心が抵抗を示した理由がはっきりとわかった。
 女王のためだけの命ではない。
 自分のためだけの命でもない。
 ともに生きる皆のための命なのだ。
「私だって、あんたが死ぬところなんて見たくない。」
「知るか、俺が見たくねえっつってんだから、おとなしくババアになるまで生きてろ!」
「我儘言うんじゃないよ!そんなつまらないことで死なれてたまるか!」
「俺がつまらなくねえんだから、いいんだよ!」
「ちょっとは人の都合も考えな!」
「てめえこそ相手のこと考えろ!」
 そっぽを向いていたはずが、いつのまにか向き合って怒鳴りあっている。
 それでも、寄り添ったままで。
 堂々巡りの決着のつかない言い合いの中、ネルは大きく深く息を吐いてアルベルの顎の下に額を押しつけた。
「あんたこそ…遺される私のことをちょっとは考えてよ…」
 あんたの命だって、あんたと父親だけのものではないのに。
 私のための命でもあるのに。
「……」
 薄暗い天井を見上げたまま、赤い髪を指に絡めた。
 そのまま、どれくらいの間黙っていただろうか。
 ネルがぽつりと呟いた。
「創造主とやらを倒せなかったら、世界が消えるんだろ?そうすれば恨みっこなしで同時に死ねるよ。」
「冗談じゃねえ。あんなクソ虫に負けるなんざ、俺のプライドが許さねえ。」
「まあ、同感だね。だとすると、どうしたもんかね…」
「知らねえよ。とりあえずはてめえがババアになるまで生きてりゃいいんだ。」
「ならあんたもジジイになるまで生きてるんだね。よぼよぼになって耄碌すれば、もうどうでもよくなるかもよ。」
 微笑んで見上げると、アルベルもまた口元にわずかな笑みを浮かべた。
「じゃあ、本当にどうでもよくなるか確かめてやるから、ずっと生きてろよ。」
 …俺と。
 声には出さなかったが、その唇がそう動いた気がした。
 ネルがその言葉の意味を噛み砕いて理解するまでに、一定の時間を必要とした。
 そして理解した瞬間ネルの顔に一気に血が昇る。
「そっ…!」
 思わず叫びかけた言葉は、喉の奥に押し戻されてしまった。
 それって……
 出口を失った言葉は、ネルの中をぐるぐると駆けずり回っている。
 あんたって奴は…
 でも、震えるほどに嬉しくて。
 ためらいがちに、覆い被さっている男の首に腕をまわした。



 実際に死に場所を決めることは難しいけれど、命をかけてもいいと想う相手がいることは、命をかけてまで想ってくれる相手がいるということは、なんと幸せなことだろうかと思う。
 生きている者たちと死んでしまった者たち、殺してしまった者たちの想いにがんじがらめになったただ一つの命を受け入れ、背負うことが今生きている者の責任だとも思う。
 だから、この命を大切に使おう。
 この先どうなるかわからないけれど、大切なもののために命がけで生きていこうと思う。
 あんたと一緒に…。


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