ただの会食と変わらないのに、この緊張感はなんなのか。
 細い糸をきりきりと引き絞るような。
 その間にも、ヴィンフリートは文学の話を続けている。基本的な学問としての書物は読んだが、近年流行している詩文などは読む暇もなく、ネルにはさっぱりわからない。
「あんたの本棚、戦術や兵法書しかないじゃないか。もう少し他の本も読みなよ。」
 そんなことを言っていた自分も、実はあいつとたいして変わらないではないか。
 ふと苦笑が浮かびかけて、慌てて脳裏をよぎった影とともに押し戻す。
 しかしさっと頬にさした赤みまでは押さえきれず、それをヴィンフリートは見逃さなかった。
「どうかなさいましたか?」
「あ、いえ。」
「今、とてもかわいらしい顔をしておられましたよ。」
「え…」
 心臓が上下に跳ねる。
 かわいらしいと言われて喜ばない女はいないはずなのだが、ネルは喜ぶより何より、驚きと羞恥の感情しか湧いてこない。
 これではまるで世慣れていない小娘ではないか。自分が瞬間見せた表情が、我ながら恥ずかしい。しかも、かわいらしいと言われた瞬間に自分が考えていたことを思うと、顔から火を噴きそうだ。
 それに、今の自分にそんなことを考える資格があるのか。
 我が胸をかきむしって引き裂いてしまいたいまでの後悔の念のせいだろうか、きりきりと引き絞るような感覚は続いている。そのためか、並べられる料理にも全く手をつけていない。これでは失礼にあたるとわかっているのだが。そんなネルの葛藤を察したか、
「緊張なさっているのですね。まあ、このような場で無理もありません。」
 それに応えるように、強張った笑みをかろうじて浮かべる。
「ネルさん。」
 いきなり表情を改められて、ネルはぎくりとした。
 まさか、本来の目的である見合いの話でもするつもりだろうか。だとしたら…
「今回は僕があなたを見初めて、どうしてもと思い無理なお願いをしてしまいましたが…もしや、既に決まった相手がいらっしゃるのではありませんか?」
「は!?」
 身構えていたところにいきなりそんなことを言われて、思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。
「そそそんなことありません!」
 我ながら滑稽なまでに狼狽している。
 慌てて否定したというのに彼は苦笑して、
「やはりそうでしたか。無理をお願いして申し訳ありません。」
「だ、だから違うと…」
「隠さなくてもわかりますよ。あなたの美しい瞳はずっと私でなく、ここにいない誰かを見ている。」
「……っ」
 隠密ともあろう者がここまで表情を読まれてどうするのか。
 しかも自分の視線の先にあるものに心当たりがあるだけに、どうしようもない。
 かつてクレアに、
 …ネルは恋愛とか男の子の話は、昔から苦手よね。
 と笑われたことがある。さすがに幼馴染みだけあって、それは的を射ていた。
 恋愛沙汰にうとく、また苦手としていたために、こういった話になるとどうしても隠密として鍛えたはずの鉄の仮面をかぶりつづけることができないのだ。
 ネルは腹を括って深く息を吐き、
「申し訳ございません。この度のお話はお断りするつもりでした。」
 頭を下げると、さすがに残念そうに首を振り、
「いえ、仕方ありません。あなたの気持を無視してまで想いを通そうとは思いません。」
 その言葉を聞いた瞬間、助かったと正直に思った。それでも、と強引に迫られたらどうしようと思っていたのだ。場合が場合だけに、いつものようにぶん殴ってすむ話ではない。
「では今日は、美しいあなたと食事を楽しむことにしましょう。よろしいですか?」
 ありがたい申し出を断る理由はない。もう一度深く詫び、グラスを手にとる。
 これで肩の荷が降りた。あとは当り障りなく社交辞令を交わしていればいい。
 それなのに。
 あの感覚が消えない。
 きりきりとした緊張感が。
 何故だ。見合いという不馴れな場面でのプレッシャーは消えたのに。
 自分を落ち着かせようと呼吸を整える。
「……」
 正面の難題が解決したのならば、まずは己をきちんと取り戻すことだ。暗い沼に沈み込むほどの後悔も今は抑えて、またあとでいくらでも苦しめばよい。
 深くゆっくりと息を吐くと、針金のようにつっぱっていた全身の神経がほぐれていく。そして今までがちがちに固まっていた耳には届いていなかった、かすかな物音を捉えた。
 その音は…
 思い巡らした果てに、ネルは口許に微笑を浮かべていた。
「ふふ…」
「どうかなさいましたか?」
 ヴィンフリートが怪訝そうに首をかしげる。
 一人笑うネルが顔を上げたとき、そこには不敵な笑みを浮かべたクリムゾンブレイドがいた。
「慣れない見合いなんかで、柄にもなく緊張してごまかされたけど…」
「はい?」
「そろそろおふざけは終わりにしないかい?」
「何を…」
「壁の裏から、鎧がこすれる音が聞こえるのさ。」
「…それは…」
「それと一緒に、殺気もぷんぷん臭ってくるよ。」
「……」
 それまで穏やかだったヴィンフリートの表情が、にわかに消える。
 仮面のように表情を失った顔は、氷のように冷たい。
 そうだ。ずっと後悔の念に心が軋み、見合いのせいで緊張しているのだと思っていた。
 しかしこの感覚は、他でもない。
 抑えても抑えてもこの屋敷に溢れてしまっている、びりびりとした殺気を感じ取っていたのだ。
 本当に、私もまだまだ甘いねえ。
 自嘲めいた笑みが浮かぶ。
「とりあえず、こんな手の込んだ芝居を打った理由を説明してもらおうか。」
「そうですね。では改めて自己紹介いたしましょう。」
 貴族の青年らしい落ち着きが、今はふてぶてしさと変わっている。
「私の名は、ヴィンフリート・ヴォックス。」
「ヴォックス…!?」
「今は亡きヴォックスは私の叔父にあたります。」
「…そうかい。助かったよ。甘ったるく口説かれるより、死ねと剣を向けられるほうがはるかに気が楽だ。」
「お噂はかねがね伺っていましたが、食事に全く手をつけないところはやはりさすがと言うべきですね。」
 食べないつもりはなかったのだが、何故か食べようという気が起きなかった。やはり本能が警鐘を鳴らしていたものらしい。
「ですが、おとなしく毒殺されたほうが楽だったかもしれませんよ。」
「試してみるかい?」
 流れるような動作で立ち上がったと同時に、食堂の壁に隠された扉が何ヶ所も開き、武装した兵士が飛び込んできた。
 ネルは素早く手元のナイフとフォークを掴むと、振り向きもせずに左右に投げた。
 短い絶叫とともに、二人の兵士が目を抑えて倒れこむ。
 続けて残る二本ずつのナイフとフォークを投げつけると、床を蹴った。
「風陣!」
 空気さえ切り裂く竜巻を巻き起こし、群がる兵士を吹き飛ばす。
 その隙に、長い袖に忍ばせたナイフを二本手に取って扉へと走る。
 こんなことなら竜穿を持ってくるのだったが、今更遅い。それでも職業柄、見合いの席にまで刃物を持ち込んでしまういやな習慣に感謝するべきだった。
 扉にとりつくが、外側から閉められているのかびくともしない。ぐずぐずしていると、兵士たちが迫ってくる。
 ネルは素早く身を返し、床を蹴って跳んだ。
「!」
 兵士の兜を踏んづけて、天井から吊り下げられた大きなシャンデリアを支える鉄の輪に飛び乗る。
 長いスカートが足にまとわりつき、わずらわしいことこの上ない。
 狙うは下に殺到するヴィンフリートの私兵ではない。親玉を仕留めればよいのだ。
 ネルは身構えて素早く施力を集中する。
「サンダーストラック!!」
 食堂内に轟音が轟き、兵士に囲まれたヴィンフリートに雷が炸裂する。
 しかしその瞬間、雷撃の閃光とは違う光がヴィンフリートを包み込んだのを見た。
 そして目も眩む雷が消えたとき、そこには傷一つないヴィンフリートと兵士たちが立っていた。
「!」
「ふふふ、さすがはクリムゾンブレイド。護符を持っていなければ黒焦げになっているところでした。」
 ただの風の護符ではない。今、確かに敵は雷を吸収した。ということは、ネルが得意とする雷撃系の施術が効かないということか。
「ちっ…」
 素早く施術で作り出した氷のクナイを飛ばす。
 が、それも柔らかな光の壁に跳ね返されてしまった。
「あなたが得意とするのは風と水の施術だと調べはついているのですよ。」
「ふん、そういうことかい。」
 火の術はあまり得意ではなく、ファイアボルトくらいしか使えない。それでも施力の強いネルが使えば充分な殺傷能力があるため、これを使うしかない。
 それにいつまでもここにいられない。弓や槍で攻撃されれば逃げ場がない。
 ネルはシャンデリアを大きく揺らし、反動を使って食堂の天井近くをぐるりと囲む回廊へと飛び移った。
 着地するときスカートがからまって転びそうになるが、かろうじて体勢を立て直して近くの窓に飛びつく。
「!?」
 窓を破って出ようと思ったのだが、外側から鉄格子ががっしりとはまっているではないか。
 よく見れば、窓という窓に、窓枠と重ねるようにして鉄格子がはまっている。なるほど、これが砦のような印象が拭えなかった原因だったのだ。
 すぐに窓を破ることを諦め、狭い回廊を走る。
 回廊へ回ってきた兵士の頚動脈をすれ違い様に刎ね切り、振りかぶる剣をくぐって脇腹の鎧の継ぎ目にナイフを突き入れ、もう一方の手で別の兵士の膝の後ろを刺す。
 切れ味に劣るナイフでも、確実に鎧の継ぎ目を狙っていけば問題ない。
 あとは、耐久性の問題だけだ。
 あっという間に三人を倒し、怯む兵士を飛び越えて走る。
「ああもう、だから長いスカートはいやなんだよっ!」
 走る際にスカートをつままないとならないため、動きにくいなんてものではない。さらに華奢な編み上げサンダルを履いているので、これでは足技もろくに出せない。
 回廊の奥の小さな扉をくぐると狭い螺旋階段があり、上と下へ続いている。
 ヴィンフリートを倒そうと思ったが、施術が効かずにまともに戦えない今は不利だ。ならばどうにかしてこの屋敷の外に脱出したいが、扉を閉められ、窓も鉄格子で覆われた中、脱出口を見つけるのは容易ではない。
 考えながらも、体は動く。
「今の私は虫の居所が悪いんだ!向かってくるなら容赦しないよ!」
 大の男が、それも鍛え上げた兵士たちが、たった一人の女に次々となぎ倒されていく。
 エクスキューショナーを相手にしてきただけに、人間などネルの敵ではない。
 しかしどこにいたものか、次から次へと湧くように出てくる。それに貴族の私兵とは思えないほど、装備が整っている。
 恐らく疾風のヴォックスを慕っていた兵士たちが、この計画に荷担しているのだろう。
 だとすれば、外に出ても待っているのはエアードラゴンか。
 例えそうだとしても、いつまでも屋敷に篭もっているわけにはいかない。
「はああああっっ!!」
 小さなナイフが黒い旋風と化し、兵士たちをなぎ倒す。
 しかし所詮はナイフだ。竜穿を使うときのような致命傷を与えることはできない。それでも動きを封じられさえすればよかった。
 弧を描いて戻ってきたナイフを見ても、その刃はぼろぼろに刃こぼれし、限界が近いことを語っている。
「ファイアボルト!!」
 無数の火球に追い立てられ、兵士たちが逃げ惑う。幸い彼らは風と水属性の対策しかとっていなかったため、ファイアボルトは効果がある。
 しかしこれも連発していれば、やがて精神力が尽きてしまうために、むやみには使えない。
 倒れた兵士から剣を奪い取る。が、長い騎士剣は予想以上に重かった。
 いつも軽い短刀を扱っているネルでは、これをまともに使うことなどできない。それならば。
「ぐあっ!!」
 重い剣が一直線に飛び、兵士の鎖帷子をも突き抜ける。
 振るえないならば、投げればよい。
 落ちていた剣や槍でその場にいた数人を仕留めると、廊下をさらに走る。狭いこの通路は渡り廊下だろうか。左右の鉄格子つきの窓ごしに外の景色が開けて見える。
 そして廊下の先には上へと続く螺旋階段が見える。
 もしかして、あの先は塔だろうか。
 確か入ってくるときに、塔があったのが見えた。塔の上ならば鉄格子ははまっていない。出るならば、そこしかない。
 背後から追いすがる足音に、もはやその役目を終えようとしているナイフの片方を投げつけた。
 しかしそれは敵の鎧に当たり、甲高い音を立てて折れた。
 喉元を狙ったつもりなのに、狙いが狂った。
 いくらネルとはいえ、これだけの人数を相手にまともな武器も持たず、まして動きに激しく制約がある状態で戦いつづけているのだ。体力的にも限界がある。
 悲鳴を上げる心臓をねじ伏せ、敵を振り切って螺旋階段を駆け上がる。
 そのときだった。
 履いていた編み上げのサンダルが酷使に耐えかねたか、ぶつん、と鈍い音を立てて切れたのだ。
「!」
 その弾みで螺旋階段を踏み外しそうになり、咄嗟に踏みとどまろうとする。
 しかしそれを長いスカートが邪魔をした。
 思わず階段に手をついたネルを、敵は逃さなかった。
 槍の石突がスカートに突き立てられる。
 咄嗟に引き抜こうとしても、続けざまに何本もの石突がスカートを押さえつけてはどうしようもない。
「くっ…」
 咄嗟に施力を集中しようとしたネルの左肩を、槍が貫いた。
「うあ…っ!」
 細い肩を苦もなく貫通した槍先が階段に突き刺さる。
 這いつくばるように階段に縫いつけられたネルの背に複数の刃が突きつけられ、さらに右腕も踏みつけられて自由を奪われる。
 終わったか。
 いや、なんとか隙を伺って…
 左肩の焼けるような激痛を堪えながら、必死に打開策を考える。
 こんなところで死にたくない。
 喧嘩別れをしたままで終わりたくない。
 紅い唇を噛み締めたとき、場違いな拍手が響いてきた。
「おまえたち、よくやった。」
 それはヴィンフリートの声だった。
 自分はずっと安全なところに隠れていたくせに、部下が命がけで敵を捕らえたところでそれが当然のような顔をして登場する。
 ネルが最も嫌う人種である。
「さすがですね。これほどてこずるとは思いませんでした。」
「…何もしてないくせに、よく言うよ。」
「いえ、これからあなたにとどめを刺すのは私ですよ。」
 兵士から剣を受け取り、肩越しに睨むネルの頬に切っ先を突きつける。
 その切っ先を横に動かすと、白い肌に赤い線が走った。
「さて…命乞いするなら一応聞いてあげますよ。」
「すると思うかい?」
「いえ、妻とは言わないまでも、愛人くらいにならしてさしあげても良いかと思ったのでね。」
「丁重にお断りするよ。」
「それは残念。」
 ヴィンフリートが勝者の余裕を湛えた笑みでもって、剣を振りかぶったときだった。
 突如引き裂けるような絶叫が、広くない通路に響いた。
「…ん?」
 ネルの気のせいではなかったらしい。その場にいた一同がその不審な絶叫に首をかしげている。
 そして間もなく、渡り廊下のほうから再び絶叫が轟いた。
「何事か!?」
 すぐに兵士の一人が様子を見に走っていく。
 が、彼は廊下の角を折れたところで、即座に悲鳴を上げて倒れる羽目になった。
 血を噴き上げながら仰向けに倒れた兵士の眼前に、長い刃が突きつけられる。
 もはや致命傷を負い、事切れるまで幾ばくもない兵士が見上げたものは、冷たく輝く血濡れの刃と、薄暗がりの中、その血よりも紅く光る双眸だった。
「…女はどこだ。」
 間もなく死ぬとわかっていても、許されたいと願ったのだろうか。
 痙攣する腕で、渡り廊下の奥を指し示す。
「……」
 指差したままの腕を床に落として事切れた兵士を踏み越え、侵入者が姿を現した。
 その姿に、兵士たちの一部が悲鳴を上げる。
「うあ、あああ…」
「な、なんでここに…」
「アルベル様っ…!!」
 …え?
 こんなところで聞くはずのないその名に、ネルはわが耳を疑った。
 疲労と激痛で、空耳でも聞いたのだろうか。
 しかし階段の下からは、明らかに浮き足立つ気配が感じられる。
 ヴィンフリートも、その騒ぎに細い眉をしかめる。そして階下から上がってきた兵士の報告を受けると、
「なんだと…?」
 彼は頷くと、その薄い唇を引き攣らせて笑い、
「そういえば、我が国の漆黒騎士団団長がシーハーツのクリムゾンブレイドとつながっていると聞いたことがありましたが、本当のことだったのですね。」
「……」
 俄かには信じ難い。本当に、あいつが来たのだろうか?
 だって場所も知らないはずなのに。
 あんな喧嘩をしたのに。
 来てくれるはずがない。
 来てもらう資格などない。
 それなのに、来たかもしれない、それだけでも涙がこぼれそうなほどに嬉しかった。
 兵士が上げる悲鳴が、だんだん上ってくる。
 ネルを捕えていた兵士たちも、悲鳴を上げて階段の上へと逃げていく。
 かつて疾風に属していた者ならば漆黒の頂点に立つ男の実力は知っているはずだし、ヴィンフリートの私兵でも、階下から上ってくる異様な殺気に怯えずにはいられまい。
「ぎゃあっ!!」
 悲鳴がすぐ下から聞こえてきた。
「くそっ!」
 ヴィンフリートはネルの左肩を貫く槍を掴んだ。
「!?」
 聞き慣れた女の、短い悲鳴がすぐ上から聞こえた。
「邪魔だ!!」
 すがるように剣を掴んだまま恐怖に歪んだ顔で震える兵士を、ガントレットのかぎ爪で力任せに殴りつける。
 壁に叩きつけられる兵士を振り返りもせずに段を飛ばして駆け上がると、
「動くな!」
 鋭い一喝に阻まれた。
 射殺すように睨みつける視線の先には、蒼白な顔に狂気じみた笑みを浮かべた男がいた。
 そしてその手に掴む槍の柄を下へと辿ったとき、返り血に染まった顔が凍りついた。
 槍によって階段に縫いつけられたネルが、その槍をねじられるたびに苦痛に顔を歪めている。
「まさか、本当にあなたが来るとはねえ…」
 来た?
 誰が?
 本当に?
 激痛にかすむ目で、求める相手の姿を探す。
 血刀を引っさげ、そのかぎ爪も全身さえも返り血に染めたその男の姿をぼやけた視界におさめたとき、その視界がさらに滲んでいくのを感じた。
 ああ、来た。
 本当に来た。
 あいつが来てくれた。
 あんな喧嘩をしたのに。
 あんなひどいことを言ってしまったのに。
 それだけで、火がついたような激痛さえ遠のく気がした。
 真紅の瞳に、暗い炎が今にも相手を焼き尽くさんばかりに宿っている。
「てめえ…」
「そんな恐ろしい顔で睨まないでいただきたいものですね。私は叔父の仇をとろうとしているだけなんですから。いくら叔父と仲が悪かったといっても、あなたもアーリグリフの人間ならば私の邪魔をしないでいただきたい。」
 ぺらぺらと、よく喋る。
「どうしてもこの女を連れ帰りたければ、あとで返してあげますよ。死体になったこの女を抱いて帰ればよろしい。」
 極度の興奮状態にあるためだろうか。目の前の男が噴き上げるすさまじい殺気など気づかぬ様子で、まるで自分に酔っているかのような仕草で喋りつづけている。
「それとも、あなたも一緒に死にますか?ああ、そうしましょう、そうすれば泉下の叔父はもっと喜んでくれます。」
 さも愉快そうに笑いながら、先程までネルに突きつけていた剣をアルベルの喉元に向ける。
「動かないでくださいよ。動いたら、この槍をどうするかわかりますね?」
 ああ、まずい。
 あいつは絶対動かない。
 自分がこうしている限り、たとえ自分が刺されようと、絶対に動かない。
 ヴィンフリートの剣が喉に触れても、アルベルは微動だにしない。相変わらずその真紅の双眸は、地獄の業火のごとき炎を宿らせたまま相手を睨み据えている。
 …そんなこと、させない。
 ヴィンフリートの注意が逸れている隙に、右手を探って落としてしまっていたナイフを掴み締めた。
「噂と違って素直な方ですね。そうそう、そのまま動かないでくださいよ…っ!?」
 アルベルの喉元に剣を突き立てようとしたヴィンフリートの足に、突如激痛が走った。
 驚いて視線を下ろせば、ネルが渾身の力を込めてぼろぼろに刃こぼれしたナイフをヴィンフリートの足に突き刺しているではないか。
「なめんじゃ、ないよ…っ」
「こ、この女…!」
 槍をねじろうとした瞬間、アルベルの刀が一閃した。
 動かそうとした腕が、ついてこない。槍を握り締めたまま、腕は動いてくれない。そしてにわかに火がついたような激痛が左腕を襲う。
「ぎゃあああっっ!!」
 左腕の肘から先が切断されていた。左腕を失い、血を噴き上げながら絶叫する。
 そしてわけのわからない叫び声を上げながら足を引きずって階段を上がって行くが、アルベルはそれを追わなかった。
 力を失ったように突っ伏したネルの傍らに屈みこみ、まだ腕がついたままの槍を掴んでおもむろに引き抜く。
「…っ!」
 その激痛に貧血を起こしかけながらも、自分を仰向けに抱え起こす男を見上げる。
「…あんた…なんで…」
 しかしそれには答えず、ブルーベリィを取り出して、
「食えるな?」
 問答無用で唇に押し込んでくる。
「肩だけか?」
 かろうじてブルーベリィを飲み下しながら、頷く。
 ああ、本当に…
 ブルーベリィの効果である程度止血が認められたのを見てからネルの衣裳の一部を裂いて傷口を縛り、静かに抱き上げる。
 その胸にもたれかかり、温かい体温を感じることで、これは夢ではないと実感することができた。
 本当に、来てくれたんだ…
 ネルを抱いたまま、螺旋階段を上へと上がっていく。
 やがて上方から淡い光が差し込み、最上階へと出た。
 雨は止んでいた。
 石造りの屋上にはいくつもの水溜りができていて、その水溜りにひるがえる無数の翼が映っていた。
 塔の上空を、エアードラゴンたちが舞っているのだ。
 その背中にはドラゴンを駆る騎士と、助け上げられた兵士たちが乗っている。
 そしてその中に、腕と足をきつく縛ったヴィンフリートの姿もあった。
 アルベルはネルを水溜りのないところに下ろして壁にもたせかけ、彼らに向き直った。
「言い遺したいことがあれば聞いてやるぞ、クソ虫が。」
 その口調が静かなだけに、かえって怒りの程が感じられる。
「ふん!地べたを這うきさまに、何ができるというのだ!」
 血の気を失ったヴィンフリートの嘲笑など無視して、アルベルは大勢の血を吸った刀を手に、水溜りを踏みながら間合いを詰めてくる。
 その殺気に、大空を舞うエアードラゴンも怯えたのだろうか。
 布を切り裂くような甲高い声を上げ、その男を避けようとする。
 それでも上空にいるヴィンフリートの精神的優位は変わらない。
「もはや船も始末した!きさまらそろってこの孤島に閉じ込められて朽ち果てるがよいわ!」
 狂ったような笑い声が、舞い上がるエアードラゴンの翼の音とともに曇天に響く。
 しかしアルベルは、動じる様子を見せない。
 壁によりかかったままなす術もなく彼らを見上げていたネルを、突如巨大な影が覆った。
「…?」
 大気を振動させるような轟音とも言える風の音に驚いたそのときには、ヴィンフリートの悲鳴があがっていた。
 巨大な、まるで山がそのまま動き出したかのように巨大なエアードラゴンが、ヴィンフリートの乗ったエアードラゴンを跳ね飛ばしたのだ。
 その巨体を前にして、普通のエアードラゴンなどは叩き落とされる虫同然である。
 騎手ともども宙に投げ出されたヴィンフリートが、はるか眼下の、岩に砕ける波飛沫を散らす海へと落ちていく。
「…クソ虫が。」
 忌々しげに言い捨て、刀の血を拭うアルベルの頭上を、巨大なドラゴンが舞っていた。



 久しぶりに乗るクロセルの背中は、やはり広かった。
 そして傷ついた体をその男の腕に横たえて風を受けるのは、なんとも心地よかった。
「あんた、なんであそこに来たんだい?」
「…じじぃから事の裏を聞いてな。てめえのことだからほいほい引っかかるだろうと思ったら、案の定この様だ。」
 違う、そういう意味で聞いたんじゃない。
「…でも、場所なんてわかるわけないし…」
 なんでわざわざ、あんなひどいことを言った私なんかを助けに来たんだい?
「奴の持つ屋敷を片っ端から調べた。その中で、獲物を閉じ込められる場所にあったのはあそこしかねえ。」
 なんで何も言わないの。
 それがさも当然であるかのように。
「……」
 こみ上げる感情が、痛みを堪えるような表情となって浮かぶ。
「痛むのか?」
「…ううん、違うよ…」
 嬉しいんだよ。
 涙が出そうなくらい。
 潤みかける瞳を見られないように、自分たちを乗せる巨大なドラゴンへ顔を向ける。
「でもさ…なんで閣下がいるんだい?」
 その質問に答えたのは、アルベルではなかった。
「ソノ小僧ガ、死ニソウナ顔デ頼ンデ来タノダ。」
 クロセルの言葉に、アルベルが瞬間湯沸し気のように瞬時に顔色を変える。
「なっ…!!だ、誰が…!」
「何ニモ代エ難イ人間ヲ助ケルタメダト言ッタデハナイカ。貴様トハ知ラヌ間柄デモナイカラナ。必死サニ免ジテ頼ミヲ聞イテヤッタマデノコトダ。」
「……」
「ね、寝惚けてんじゃねーぞ、クソ虫が!!」
 恐らく、相手がヴォックスの甥と聞いて疾風の者を使うのはためらったのだろう。それでも船を探して出す時間もない。それならばと、アルベルはウルザに走ったのだ。
 かつて傲慢にドラゴンを従えようとしたが故に父を失った男が、自分を助けるため、ドラゴンに協力を求めたのだ。その想いが半端なものであれば、この誇り高いエアードラゴンの王が力を貸してくれるはずがない。
 そして、自分を何にも代え難い人間だと言ってくれた…
 魂が震える。
 体の、心の奥深くで、打ち震えているのがわかる。
 嬉しくて。
「ちっ、阿呆なことを…」
「いいじゃないか、別に…」
 動く右手で、その胸にすがる。
 それに応えるように、布で吊った左肩に触れないよう、そっとその体を抱く腕に力をこめる。
「…これに懲りたら、二度とこんな話に乗るなよ。」
「そうだね。」
「たとえそれが女王命令だろうが、てめえは見合いなんぞする必要はねえんだよ。」
 おもむろにあらぬ方向を睨みつけ、風の音でかき消されてしまうほどの小さな声で、
「…てめえは俺がもらうんだからいいんだよ。」
 ほとんど風の音に紛れてしまったが、確かに、聞こえた気がした。
 相手の顔を見ようにも、これ以上は無理というほどに首を曲げてそっぽを向いている。
 ネルはくすと小さく笑い、
「うん、わかったよ。でも…のんびりしてると、またお見合いするかもしれないよ?」
「はあ?のんびりって何だよ。つか、どこの世界に、こんなじゃじゃ馬と見合いしてみようなんて物好きがいるんだ。」
「へえ。私と見合いしようって男が物好きなら、もらってくれようって言うあんたは何なんだい?」
「…っ」
 真紅の瞳に負けないくらい顔を真っ赤にして固まる男の顔を見上げて、ネルはこれ以上ないというほどの幸福感に満たされていた。
 もはや、
 あんなひどいことを言ったのに、何で来てくれたんだい?
 そんなことを尋ねる必要などなかった。
「ありがと。…それと、こないだはごめん。」
「…あ?何の話だ。」
「…なんでもないよ。」
「はあ?」
 若い二人を乗せたクロセルは、大きな口から大きな溜息を吐き出した。
 …モウ街ノ上空ナノダガ、トテモ言エル雰囲気デハナイゾ、コノ人間ドモメ…
 閣下は非常にお困りだった。
 …ダガ、悪イ気ハセンナ。
 大気を揺らすように一声吼える巨竜が、いつまでも上空を旋回しているのを街の人々が不思議そうに見上げていた。





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