価値あるものは



 ウォルター伯にそれを譲られたときから、ネルは肌身離さず持っていた。
 父の形見である短刀「竜穿」。
 その氷のようなきらめきを放つ美しい刃は常に冷たく、時には本物の凍気さえ放つ。
 たとえ他にもっと切れ味鋭い短刀があろうと、ネルはこれを使っていた。武器を選ぶ理由は単純な性能だけではない。
 この竜穿には父の魂がこもっていると思えるからだ。
 かつて父が使っていたものを自分も使っていると思うと、何かに守られている感慨さえ沸いてくる。
 たとえそんなものは気のせいだと言われても、隠密が何かに守られていることを願うことなど笑止千万だと思われても、ネルはかまわなかった。
 これが大好きだった父の大切な形見であることに変わりはないのだから。

 父の魂が守ってくれている。
 そのことを証明するかのような事件は、突然起こった。
 いつものように修行も兼ねて、街の周囲を徘徊するルシファーの手先どもを倒していたときのことだった。
 天使のような姿をした代弁者の集団に、先陣を切ってアルベルが、続いてフェイトが向かっていく。
 奴らは周囲に特殊なフィールドを展開してダメージを与えてくることがあるので、間合いには特に気をつけなければならない。
 ネルは極力敵の射程に入らないように、遠距離攻撃や施術を使うようにしているのだが、アルベルなどはすぐに間合いを詰めてしまうので気が気でない。空破斬など、長射程の技を持っているのにだ。
 しかしアルベルが近距離から間断なく攻撃を仕掛けてくれるおかげで、こちらも施術の詠唱に集中できるというものだ。クリフやミラージュなど近距離のほうが得意な仲間と戦うときは、実は遠距離から攻撃することが多いのに気づいたのは、つい最近だったりしたのだが。
 だからもしかすると、自分が施術を使いやすいように接近戦を選んでいるのかもしれない。
 そう思ったときから、黙ってこまめに回復してやるようにしていた。
 長身だからこそ引きずらずに持っていられるであろう長刀を自在に操り、代弁者に容赦ない斬撃を見舞うのを見て、ネルは右手の竜穿を腰の鞘に戻し、空いた指を額の前に立て、施力を集中しはじめた。
 施術はシーハーツ人の大きな武器であるが、弱点はその詠唱中は無防備になってしまうことだろう。高位施術であるほど詠唱は長くなり、支援する仲間がいるときでなければまず使えないため、短い詠唱ですむ下位施術のほうが実際は使う機会が多い。
 仲間たちがいる今、ネルは必要に応じて自分が使える最大の術を使う。
 そして今も、その詠唱を始めていた。
 腕と足に刻まれた施紋が媒体となり、風の属性を持つエネルギーがネルの指先に収束されていく。
 紋様のような形を描く独特なエネルギーの流れは、エリクール人の瞳にのみ映る特殊なものだ。そのエネルギーの質によっては、エリクール人の瞳でなくても現出して見えるようであるが。
 トランス状態に陥るネルの指先に収束した施力から、雷光が弾ける。
 長い詠唱を紡いでいたネルの唇が、その最後の言葉を口にしようとしたときだった。
「ネル!!」
 滅多に名前を呼んでくれない男が自分を呼ぶ声が、遠くから、しかしはっきりと耳に飛び込んできた。
 思わず顔を上げたのと、背中を激しい衝撃が襲ったのはほとんど同時だった。
「…っ!!」
 鈍く、重い音がした。
 あまりの衝撃に、呼吸が止まる。
 ああ、そうか。代弁者は空間を移動する能力があったんだっけ。
 痛いと思う感覚も鈍ってしまっているのか、どこか遠くの出来事に思える。
 跳ね上げられたネルは受身を取ることもできなかった。
「ちっ…!」
 頭から落ちようとするネルの体の下に、全速力で駆けつけたアルベルが滑り込み、かろうじてその体を受け止めた。
「ネルさんは!?」
 少し離れたところにいたフェイトはネルがアルベルに受け止められたことを確認すると、その場で身構え暗黒のエネルギーの渦に包まれたと見えた直後、瞬時に代弁者の頭上に移動して一気に叩き斬った。
 敵を屠ったフェイトが駆け寄ると、アルベルがネルの頬をぴしゃぴしゃと叩いているところだった。
 何度か叩いているうちに、長い睫がぴくりと動く。
「……う…」
「ネルさん、大丈夫ですか?」
 声をかけても、まだ朦朧としているようだ。
 敵の攻撃を背後からまともにくらったためだろう。
「まあ、骨はやられてねえようだな。こいつが盾になったようだ。」
 アルベルが指し示したものを見て、フェイトは思わず息を呑んだ。
 ネルの腰に挿した片方の短刀が、砕けていた。
 それはネルが何より大切にしている、父親の形見。
「…竜穿が…」
「おい、そこに落ちてるもう一本を拾ってこい。一旦戻るぞ。」
「…あ、ああ、そうだな。」
 アルベルはまだ意識の戻らないネルを軽く抱え上げ、苦しげに歪んだその顔に視線を落とした。

 ネルが気がついたときには、すっかり夜が更けていた。
 ランプひとつが灯った宿のベッドに横たわっていたネルが視線を動かすと、側の椅子に腰掛けていた真紅の瞳を持つ男と目が合った。
 霞がかかったような頭で、状況を思い出してみる。
「……私、気を失っていたのかい…?」
「…ああ。」
 いつものように、素っ気ない返事が返ってくる。
 この男は、一人でずっと付き添っていてくれたのだろうか。
 カーテンに隔てられた外の景色は既に闇一色になっており、静まり返って犬の吼える声さえ聞こえない。
「首が、痛い…」
「真後ろから攻撃くらったからな、鞭打ちだろ。」
 ソフィアが入念にヒーリングをかけてくれたため、たいしたダメージは残っていないはずだという。
「…悪かったね。迷惑かけたみたいだね…」
 そっと上体を起こし、相変わらず仏頂面のまま座っているアルベルに礼を言った。
「背後に移動してこられてまともにやられるなんて…私としたことが間の抜けた話だね。」
 あまりに激しい衝撃に、もうだめかと思った、と自嘲するように呟くと、アルベルの真紅の瞳がわずかに揺らいだ。
「…礼なら、てめえの親父に言うんだな。」
「え?」
 何のことだかわからずに首を傾げたネルは、アルベルが顎で指し示した方へ視線を動かす。
 ベッドの横にある、小さなサイドテーブル。
 そこに布が敷かれ、その上に置いてあったのは…
「…!!」
 刀身の真中から折れ砕けた竜穿を見て、ネルは喉まで出かかった悲鳴をかろうじて飲み込んだ。
 食い入るように砕けた刃を見つめていたが、やがて震える指を伸ばし、二つに分かれてしまった竜穿を手に取った。
「…そう、か…これが盾になってくれたんだね…」
 呟いた声が、わずかに震えている。
 ネルは竜穿に視線を落としたまま、
「…だから言っただろ?これにはお父様の魂が宿ってるんだって…」
 いつの間にか、アルベルがネルのベッドに腰掛けていた。
「ああ。無茶な娘を持つと、親父はおちおち成仏してられねえってこった。」
 言いながら、そっとネルの肩を抱き寄せる。
「……」
 ネルは砕けた竜穿を胸に抱えたまま、抗わずにもたれかかった。
 そしてその胸板に顔を埋めたネルの赤い髪に、アルベルは唇を寄せた。
 ネルの華奢な肩が、アルベルの手の中でわなないていた。



 静かな寝息をたてるネルの寝顔を、じっと見つめていた。
 昨日は久しぶりに酒場で二人で飲み倒したのだが、珍しくネルがダウンしたために連れ帰ってきたものだ。
 あの事件があってから一週間ほど経っている。
 ネルはあの翌日から、何事もなかったかのように戦っていた。
 その腰には、折れてしまった竜穿を差したままだ。しかし実際に使っているのは、レーザーウェポンである。これは普段は柄の部分だけで、仕組みはわからないがスイッチを押すと光の刃が出てくるので、鞘がいらない。
 仲間たちはやはりネルがショックを受けているだろうと気遣っていたが、ネルは腰の竜穿を撫で、
「たとえ折れたって、これが私とともにあることには変わらないから、いいんだよ。」
 そう言って微笑んだ。
「…意地っ張りめ。」
 珍しく酔いつぶれたネルの紅潮した頬を、そっと撫でる。
 そしてベッドに寝かせる前に外してやった一組の短刀のうちの一振りを、手にとる。
 そっと抜いた刃は、途中から先がなくなっていた。
 アルベルはそれを静かに鞘に戻し、足音をたてないようにして部屋を出て行った。

 カルサアには、工房が二軒ある。
 その一軒には細工を担当するクリエイターが揃っているが、アルベルが入ったのはそことは違うもう一軒の工房だった。
 深夜だというのに、扉を開けると焼けつくような熱気が肌を刺す。
 ここには主に鍛冶を担当するクリエイターがいる。
 そのクリエイターたちの中で、異様な風体をした男に声をかけた。
 この大陸で一番の鍛冶の腕前を持つ、悪魔と人間のハーフの男、ボイドだ。自分の契約者の一人である男に声をかけられ、ボイドは炉の火を熾していた手を止めた。
「何か作るのか?」
「これを見て欲しい。」
 アルベルが差し出したのは、竜穿だった。
 ボイドは折れた竜穿を鞘から抜き、丁寧に眺めた。
「…よい刀だ。」
「それを直せないか。」
「うむ…このまま朽ちさせてしまうには惜しい。しかし…」
 折れてなお冷気を放つ刃を、静かにかざす。
「無理だ。」
「…直せねえか。」
 アルベルの声に、わずかに落胆の影が落ちる。
「いや、直せんとは言っていない。材料がないのだ。」
「材料?」
「この刃には、特殊な鉱石が使われている。砕けた部分が多いから、補う鉱石が必要なのだが…」
「その鉱石はどこで手に入る。」
「…詳しくは知らんが、はるか南の山でわずかに産出される鉱石が、これと同じように冷気を宿していると聞いている。」
「それさえあれば、直せるんだな?」
「無論だ。」
 その返答を聞いたときには、アルベルは工房の扉を押し開けていた。

 なかなか起きてこない仲間を放っておいて、先に皆で朝食をとろうとしていたとき、階段を転げるように駆け下りてきたのはネルだった。
「おはようございます。」
「どうしたんですか?ネルさんが寝過ごすなんて珍しいですね。」
 そんな仲間たちの言葉など聞こえないかのように、ネルは必死の形相で、
「あいつはどこだい!?」
 いきなりそう怒鳴った。
 あいつ、とはこの場にいない一人の男をさしていることは、すぐにわかった。
 ネルの様子にただ事ではないと感じたフェイトが、
「アルベルなら、まだ来てませんよ。どうかしたんですか?」
「私の…竜穿が片方なくなってるんだよ…!」
 昨夜、最後に一緒にいたのはアルベルだ。アルベルが何かを知っているのではないかと思って彼の部屋を訪ねたが、もぬけの殻だ。ベッドには、眠った痕跡もない。
 その瞬間、アルベルがそれを持ち去ったのだと何故か確信できた。
「あれは、私の…!」
 小さく頭を振りながら蚊の鳴くような声で呟いて宿を飛び出していったネルを、食堂に取り残された仲間たちはわけがわからないまま見送った。

 アーリグリフとシーハーツがある大陸は、エリクール二号星とよその世界が呼んでいる惑星の、南半球にある。
 よって、南に行けば行くほど寒冷な気候となる。
 今アルベルがいるのは、アーリグリフよりもさらに南下した土地だった。
 途中まで疾風に送らせたが、今は一人だ。
 雪の中で腹と足を出していられるほど寒さに強いアーリグリフ人だが、ここはアーリグリフよりさらに寒く、前方の山脈から吹き降ろす風によって、さすがのアルベルもマントを羽織らないではいられない。
 今や訪れる者とてないという山から吹き降ろす、氷のような雪まじりの暴風を受けながら、アルベルはクリムゾンヘイトとともに腰に差した短刀に触れる。
 恐らく宿では、ネルが竜穿が片方ないことに気づいて騒いでいるに違いない。
 そんなことを思いながら、アルベルは雪と氷に閉ざされた山へと踏み出した。
 なるほど、貴重な鉱石があるというのに、誰も近付かなくなったわけだ。
 生き物の侵入を拒むかのような猛吹雪だけではない。
 刃さえ凍てつく寒さの中、アルベルは何体目かの氷の魔物を屠っていた。この天候でさらに魔物が現れるとなれば、ドラゴンが住み着いたベクレル鉱山よろしく閉鎖に追い込まれるだろう。
 そんなところに好き好んで来ている自分が、我ながら滑稽だ。
 自嘲するような笑みを浮かべ、
「歪のアルベルも、ずいぶんとお人好しだな。」
 呟いた声も、吹雪にかき消された。
 凍てついた山に、もはや道はない。
 雪庇やクレバスに気をつけて、歩ける場所を進むしかない。この点はアーリグリフ人だけあって、そういったものの見極めは慣れていた。
 ただ、時々呼吸さえままならないような吹雪の中、魔物が現れるほうが厄介だった。火の施術や技を持っていればましかもしれないが、この山の冷気はそれ以上の力を持っている。まるでこの山全体が竜穿のようだ。そう思った瞬間、はっとした。
 なるほど、この山自体が竜穿だと思えばこの環境も納得がいく。
 総てを凍てつかせ、切り裂く刃のような山。
 それがこの山だ。
 そのとき、荒れ狂う吹雪の音に混じって、何か聞こえた気がした。
「…?」
 その音はこの場に似つかわしくない、音楽的な音色にも思える。
 耳をすましているうちに、その音がマントの内側から響いていることに気づいた。
 そっと折れた刃を鞘から抜いてみる。
 つららのような輝きを持つ刃が、青い光を宿していた。
 そして鈴が響くような、清らかな音がかすかに聞こえる。
「…共鳴してやがるのか?」
 おのれの刀身と同じ鉱石が近いということか。
 アルベルは皮肉な笑みを浮かべ、
「あいつの親父が宿ってるってんなら、娘のために鉱石がある場所まで連れてけよ。」
 そう言って、刀身を指先で弾いた。
 と、一際高い音が響いた気がした。
 それと同時に、暴風の音とは違う音が聞こえた。
 アルベルの真紅の瞳が鋭く光る。
 叩きつけるような白の世界の奥から滲み出るように現れる、巨大な影…
「…ここにもドラゴンがいやがったのかよ。」
 舌打ちしたアルベルの視線の先で、氷の鱗が全身を覆う巨大なドラゴンがサファイアのような瞳を輝かせている。
 エアードラゴンとは違う、しかし大きさだけならクロセルと大差ないような、氷竜だ。
 かつて竜の炎に左腕を焼かれた男が、今度は氷の化身ともいえる氷竜と対峙する。
「ふん、上等だ。」
 アルベルは刀に手をかけた。

 何故アルベルが竜穿を持って消えたのか、ネルにはわからない。
 あいつのことだから、ネルの大切なものと知って捨てるはずはない。なら、どうするつもりなのか。ネルは手掛りを得ようと、必死に走りまわっていた。
 ウォルター伯に聞いても、この町にいる部下に聞いてもわからない。
 ただ、一人の風雷兵士が、
「アルベル様なら、ここに立ち寄っていた疾風の者と何か話しておられましたよ。」
 そう教えてくれた。
 アルベルは疾風にどこかへ送らせたのだろうか。だとすると、それが軍としての正規の行動でない限り、どこへ行ったか探索するのは難しい。
 それでも、とネルは単身、疾風の本拠地があるアーリグリフへと走った。
 少し前なら、アーリグリフに入るには相当な覚悟が必要だった。それが今は堂々と歩いても何も言われず、兵士達は挨拶までしてくれる。しかし今はそんな変化に感慨を抱く余裕はなかった。
 城の中庭に入ると、竜舎から出したエアードラゴンに餌をやる疾風兵士がいて、彼らに漆黒団長を知らないか尋ねた。アルベル、と名前を出せばいいのだが、彼らアーリグリフ兵の前ではどうしても職位で呼んでしまう。
 しかし、彼らは誰も漆黒団長のことを知らなかった。
「どうかなさったんですか?」
「…いや、なんでもない。手間取らせて悪かったね。」
 できるかぎり平静を装い、その場を後にした。
「一緒にいるはずなのに、どうしたのかな。」
「どうせアルベル様がしょうもない事しでかしたんだろ」
「だろうな。あの人、泣きそうな顔してたぜ。」
 降りしきる雪の向こうに、赤い髪が白くかすんで消えていった。

 テーブルの上に、片方だけになってしまった竜穿がある。
 ネルはその前に、じっとうずくまっていた。
 アルベルは夜になっても帰ってこない。
 協調性のない気まぐれな男は、一人で出かける際にいちいち行き先を告げることなどなかった。そして夜中になっても帰ってこないことなど、よくあった。
 しかし今回は、違う。
 そうだと決まったわけではないが、ネルの竜穿を持って、どこかへ行ってしまったのだ。
 仲間たちも心配している。
「彼の生体データは保存してあるわ。ディプロから居場所をスキャンしてみましょうか。」
 よくわからないことをマリアが言ってくれたが、
「あいつのことだから、そこまでしなくても平気だろ。」
 つい、そう言って断ってしまった。
 むしろ彼らはアルベル本人ではなく、常になく取り乱しているネルを心配しているのだが、それにネル自身は気づいていなかった。
 一本だけの竜穿を、鞘から静かに抜く。
 青く光る刀身に、今にも泣きそうな女の顔が映る。
「…なんて顔してるんだい…」
 泣きそうな顔の女が、泣きそうな笑みを浮かべる。
 何故これほど不安なのだろう。
 父の形見である竜穿が砕け、その一本が失せてしまったからか。
 刀身に映る女の顔が、滲む。
 …ああ…違う…
 その手から刃が落ち、乾いた音を立ててテーブルに落ちる。
 …不安なのは…そのせいじゃない…
 膝を抱え、顔を埋めたネルの肩が小刻みに震えていた。

 カルサアの街に降り注ぐ太陽の光を、大きな黒い翼が覆ったのは二日ほど経った日のことだった。
 その影を見た途端、ネルは宿を飛び出していた。
 風雷の駐屯する屋敷の広い庭に舞い降りたエアードラゴンから身軽く飛び降りた男の姿を見ても、ネルは口をぱくつかせるだけで言葉が出なかった。
 あれほど、言いたいことが山ほどあったのに。
 アルベルが帰ってきたら、あれを聞かなければ、これを問いたださねばと思っていたのに。
 言葉が、出ない。
 ただ立ち尽くすことしかできない。
 アルベルも思わぬ出迎えにわずかに驚きの表情を見せたが、すれ違い様に無言でネルの赤い髪をくしゃっと撫でて足早に歩き出す。その後を、大きく重そうな荷を抱えた疾風兵士がついていく。
 その姿を呆然と見送っていたが、はっと我に返って慌ててあとを追うと、彼らは工房へ入って行った。しかしネルを拒むように、目の前で工房の扉が閉められた。
 何故か、その扉を開けて中に入り込む気にはなれない。
 どこか臆している自分がいる。
 もどかしい思いに煩悶しながら待っていると、やがてアルベルが出てきた。
 しかし彼はネルに何も言わせぬうちに大きく伸びをし、
「あー…眠てえ。寝る。」
「え!?ちょっ…!」
 すたすたと宿へ歩いていくアルベルがいつもは着ることのないマントが、やけにぼろけていることに気づいた。あちこち破れ、ほつれている。
 それが気になったが、その理由はマントや甲冑を脱ぎ捨てた彼がベッドに横になったときにわかった。
 どう見ても激戦をくぐりぬけてきたとしか思えない有様で、あっという間に眠りに落ちたアルベルの枕元に腰掛け、ヒーリングを施す。
「…ずるいよ。そんなんじゃ、聞きたいことも聞けないじゃないか…」
 熟睡するアルベルの暗褐色と金の入り混じった長い髪を束ねた布を、そっとほどきだした。

 早朝、ノックとともに、
「アルベル様、ロビーにボイド様という方がいらっしゃっております。」
 宿の者の声がした。
 先に顔を上げたのは結局枕元でまんじりともせず一夜を明かしてしまったネルだったが、珍しくアルベルも起きた。
 むくと起き上がり、寝癖もそのままに階下へ降りていく。
 ネルもなんとなく遠慮しながらついていくと、ロビーに来ていたボイドから、布に包んだ何かを受け取っていた。
 あれはなんだろうか。
 階段の影から、黙って見つめる。
 やがてボイドが帰り、アルベルは受け取った包みを持ってこちらに振り返った。
「おい。」
「…え?」
 いきなり、その包みを投げてよこした。
 反射的にそれを受け取る。
 その包みの中に入っているものは硬く、覚えのある重みを感じた。
 まさか…
 ネルは急いで包みを解いた。
 予想に反せず、中から出てきたのは竜穿だった。
 それも、折れてしまった方の。
 折れてしまった竜穿は、鞘の中で破片がかしゃかしゃと悲しい音を立てていた。
 しかし、その音が聞こえない。
「……」
 ネルは、恐る恐る柄を握り、鞘から短刀をそっと抜いてみる。
 わずかに覗いた青白い刀身が、不安そうな女のスミレ色の瞳を映していく。
 その鏡面のような刀身が少しずつ姿を現し、独特の曲線を描く刀身が…
「…!!」
 刃こぼれひとつない、美しい完全な刀身が現れた。
 折れてしまったことが、夢であったかのように。
 吸い込まれるように青白い刀身を見つめるネルは、その刃の向こうに佇む男の姿に気がついた。そして視線を移し、
「…あんた、まさか…」
 この短刀を直すために、あのように傷だらけになったというのか。
 竜穿に使われているのは、普通の鉄鋼ではないという話は聞いていた。その特殊な金属を探すために、アルベルは丸二日間も帰ってこなかったというのか。
 ネルは竜穿をそっと鞘に戻し、胸に抱きしめて顔を伏せた。
 落ちかかった赤い髪のせいで、表情は見えない。
 やがてわななく唇から、
「…バカ…」
 聞き取れないほどの声で呟いた。
 その呟きに、アルベルが、あぁ?と形のいい眉をしかめる。
「…こんな、短刀のために…」
 帰ってきたアルベルの体には、けっこう深い傷もあった。
 凍傷になりかけた部分もあった。
 あんなにぼろぼろになるほど戦って、疲れ果てて…。
 どうしてそんなことをしたのかと今更問うのも愚かしく、また、問わなくても答えはわかる気がする。
 赤い髪を振り立てるように顔を上げたとき、そのスミレ色の瞳から大粒の涙が溢れていた。
 アルベルが何か言おうと口を開きかけたが、それより早く、飛びつくようにアルベルの首にしがみついていた。
「いくら竜穿が直ったって、あんたがいてくれなければ意味がないじゃないか…!」
 ほとばしるように叫んだネルの体を受け止め、ちらと視線を巡らせて周囲に誰もいないことを確かめてから、
「…阿呆。」
 肩に顔を埋めるネルの細い腰に腕を回す。
 そう。
 一番不安だったのは、竜穿が折れてしまったことでもなくなってしまったことでもなく、アルベルがいなくなってしまったからだと気がついた。
 竜穿は、折れても砕けても、このように直すことができる。
 でも、人間の命は、折れて砕けてしまったら二度と戻すことはかなわない。
 魂だけの存在になって自分を見守ってくれるのは、父だけで充分だ。

 あんたは、ずっと生きて側にいて…。

 ネルの想いに応えるかのように、アルベルの腕に力がこもった。
 蘇った竜穿の氷のような青白い刀身が、柔らかな光を宿しているように思えた。


一歩戻る