初めてそこに降り立ったとき、なんて冷たいところなんだろうと思った。 壁も床も天井も、何もかもが鉄に似た素材でできている。 そしてどこからともなく投げかけられる光は、自然な太陽の光ではない。 総てが人工のものだ。 聞けば、この月という大地には本来生命体はいなかったという。 そこへフェイトたちの祖先が巨大な基地を作り、人間が住めるようにしたというのだ。 そしてまた、重要な軍事基地としての役割も持たせて。 自分たちが見上げる月とは違うひとつだけしかない月だが、青白くて、悲しいまでに美しいものとしてしかとらえていなかった。 真っ暗で静かな夜に見上げ、いろいろと想いを馳せる。 そんな存在だった。 人間の文明は進化すると、そんな月にまでも土足で踏み込むのか。 月を見上げたとき、人間が住んでいるだけならばいい。 そこが戦争のための基地になるなど、とても考えられない。 文明とは、恐ろしいものだと思った。 「さあ、ネルさん怖がらなくていいですよ。」 「こ、怖がってなんかないさ!」 トランスポーターという転送装置の前で思わず足を止めるネルに、仲間が声をかける。 初めて見たときは、本当に驚いた。 目の前で人間が消えたのだ。 しかも同じところから、別の人間が現れたりする。 心臓に悪いどころではない。 どん、と背中に誰かがぶつかる。 はっとして見上げると、真紅の瞳がにやりと笑って見下ろしていた。 「びびってない奴が、後ろに下がるか?」 「…っ」 思わず後退ったところでぶつかってしまったのだ。 言い訳のしようがない。 「う、うるさいね!しょうがないだろ初めて見たんだから!あんただって最初はびびったんだろ!?」 「まあ、気味が悪いことに変わりはねえな。」 言いながら、まだ逡巡している背中を押してトランスポーターの輪の中に放り込んだ。 空気がぶれるような音がして、視界が光に包まれる。 思わず眼を閉じ、まぶたを通す眩しさが消えたときには、もう目の前の景色が変わっていた。 「……」 きょろきょろと周囲を見回すと、またにやにやと笑う男と目が合った。 恥ずかしさで思わず顔を赤くしたネルの髪をくしゃっとかきまわすと、皆に続いて降りていく。 あのときフェイトたちと別れたあとにいろいろとあったようで、何故かアルベルが先に彼らと合流していた。 本人に聞くと断固否定していたが、フェイトたちいわく、彼らが危なかったところへ駆けつけてくれたのだという。 しかもそのために重傷まで負って。 その話を聞いたとき、思わず目を見開いたものだった。 この男が。 他人などそれこそ生きていようが死んでいようがまったくどうでもいいような、この男が。 「へえ…」 それだけ呟いて見上げた視線から、逃げるように顔を背けたんだっけ。 そんなことを思い出すとおかしくなったが、何はさておき、同じ文明レベルの人間でありながら、自分よりはフェイトたちの文明に慣れているというわけだ。 アルベル曰く、 「気にするな。何を使っていようと何を見ようと、とにかく気にするな。考えたら負けだ。特にてめえはな。」 だ、そうだ。 特にてめえは、というのは失礼だとも思うが、自分たちの世界のレベルでさえ極度の機械音痴なのだ。それこそ何かを言い返せる立場ではない。 見るもの総てが珍しいムーンベースの中を歩きながら、やがて多くの人間がいる部屋に着いた。 なんでもここだけはまだ安全であるらしい。それでも油断なく周囲を見張っているからこそなのだが。 「はじめまして!ネルちゃんていうの?あたしスフレ。よろしくね!」 そこにはやたら元気な少女がサーカスの一座とともにいて、ネルでもわかるようなサーカスの道具もあって、文明の進んだ世界でもそういうものが残っているのだと思うと少し安心させられた。 しかしこの避難所もそんなサーカスの道具などが片隅に寄せられている以外は、やはり鉄のような素材の無機質な部屋だ。 大勢の人間がいるのに、その部屋のせいで寒々しい空気を感じてしまう。 フェイトたちは、ここにいる彼らは平気なのだろうか。 ちらりと仲間を見るが、誰も変わった様子はない。 当たり前か。 ここは彼らの世界であり、自分たちが木と漆喰と石の壁に囲まれているのと同じ感覚なのだから。 しかし一人だけ、忌々しそうに部屋を見ている男がいた。 国は違えど同じ世界で生まれ育った、あいつだ。 悔しいが、そんなアルベルを見ているとほっとした。 補給をすませる間に、せっかくだから手伝いをして行こう。 皆を前にそう言ったフェイトの提案は、他でもない。 ここにいるエクスキューショナーを倒すことだ。 奴らはいくらでも湧いてくるのだが、少しでもここの人々の危険を減らせるものなら減らしたい。何故なら、自分たちにはその力があるのだから。 「とりあえず手分けしよう。ここの勝手がわかってないネルさんとソフィアは、このフロアを守ってて。」 「仕方ないね。迷子になっても仕方ないからそうするよ。」 「じゃあソフィア、何かあったらコミュニケーターで呼べよ。」 「うん、気をつけてね。」 フェイトとマリア、クリフとアルベルが組んで、それぞれ別方向へと分かれていく。 それぞれ逆方向に伸びる長い通路を、長さが違うだけで同じ青い色をした髪の二人が左手に、いつもドアの上に頭をぶつけそうになっているでかい二人が右手に消えていくのを見送った。 「…なんか変なコンビですねー。」 「まったくだよ。フェイトとマリアはともかく、猪突猛進型を組ませてどうすんだい。」 例によって勝手に決めたのはフェイトだし、エクスキューショナーごときに後れをとる連中でもないのでかまわないのだが。 肩をすくめるネルを、ソフィアが満面の笑みでもって見上げてくる。 「とかいって、アルベルさんがマリアさんと組まなくてよかったなー、とか思ってるんじゃないですか?」 「は!?」 思わずものすごい勢いで振り返るネルに、スフレまでがきゃっきゃと喜んでさして広くない部屋に響き渡るかのような大声で、 「なになに?ネルちゃんてアルベルちゃんが好きなの!?」 「なっ…!」 ぎゃああ!!このガキんちょは大きな声でなんてことを!! 「そうなのよー。すっごいらぶらぶなんだから!」 「そ、そんなわけないだろっ!!しかも笑顔で恐ろしいこと言ってんじゃないよソフィア!」 「うふふー、照れなくてもいいじゃないですかネルさん♪」 「きゃー!ネルちゃんかわいー!」 「いい加減にしないと怒るよっ!」 怒れば怒るほど二人は喜ぶばかりで。 顔を真っ赤にして声がひっくり返っているのが原因だと気づいていないのもまた、本人だけだった。 「しかもねしかもねスフレちゃん!ディプロって船に乗るときは、二人は同じ部屋なんだよー!」 「うわあああっ!!ソ、ソフィア!子供になんてことを…!」 慌ててソフィアの口を塞ごうとしたネルを、スフレが妙にきらきらとした目で見上げる。 「なになに?それって子供に言えないことなの?」 「……っ!」 ネル自爆。 その場で真っ赤な石と化すネルを、ソフィアもスフレもやたら嬉しそうに茶化している。 「そっかー、アルベルちゃんて実はこんなきれいな彼女いたんだー。」 「うふふ、そうなのよー。二人とももとは敵さんだったんだけどねー、今じゃもー夫婦も同然なのよー。」 あああああ… 激しく眩暈がする。 これというのも、あいつがところかまわず人にちょっかいを出してくるせいだ。 戻ってきたら絶対ぶん殴る。 しかしそれより先に… 「あんたらいいかげんに黙らないと、凍らせるよっ!!」 「きゃーっっ!ネルさん目が据わってますー!」 「ネルちゃんが逆切れしたー!」 きゃー!と嬌声を上げて逃げていく二人の姿に、ネルはがっくりと力が抜けるのを感じた。 どういう関係になろうと表には出さないようにしているのだが、やはり始終一緒にいる仲間たちはそれとなく察してしまう。どころか、けしかけてくる風さえある。 特に十代の若い組が、そいった話に興味を持つのはわかる。中でも夢見がちなソフィアが、かつての敵同士という状況にも非常に興味を持つのもわからないでもない。 それでも、放っておいてくれればいいのに。 自分が何をしていようと、勝手ではないか。 その手の話と無縁で過ごしてきただけに、正直煩わしいと思ってしまうこともある。 今一人になったことでほっとした自分は、心が狭いのだろうか。 やたら広くて寒々しい広間にいるのは、ネルだけだ。 硬質の壁に見えるのに、歩いても靴音が反響しない。 だから人の声が絶えてしまうと、聞こえるのはどこからともなく響いてくる機械の唸る音だけだ。 何もかもが、無機質なものでできている。 ああ、そうか。 ここには命が感じられないから、こんなにも寒々しいのだ。 そして唯一存在する命は、人間だ。 その人間が、今はネルを置いて他にはいない。 しかもこの空間において、自分は明らかに異質だ。 この場所にいるはずなのに、何かに隔てられているような違和感…。 それではたとえ自分が命あるものであろうと、この空間を満たすことはできない。 そう思うと、どんなに姦しくてもソフィアとスフレを追い払ってしまったことを後悔する。 「……」 彼女たちは、避難所へ駆けていったはずだ。 今更という気恥ずかしさもあったが、わずかに戸惑った後にそちらへ足を向けたときだった。 何か、空気が震えたような気がした。 ほんの一瞬だが、耳鳴りもした。 「…?」 しかし周囲を見回してみても、何も変わったことはない。気配を探ってみても、エクスキューショナーが現れた様子もない。 気のせいだろう。 特に異変がなければ気にすることもないと、ネルは居住区へと歩いていった。 前に立つとひとりでに開く扉を抜けると、スフレの一座の青年が立っている。 彼はさながら芝居のような仕草で恭しく一礼して何か台詞をを口にしたが、ネルには聞き取れなかった。 しかしさして気にすることもなく、もうひとつ扉を抜けて居住区へと入る。 そこには、相変わらず大勢の人々がいた。 それと同時に、異様な騒々しさを感じた。 「?」 人々がそれぞれの顔に緊張の色を浮かべながら話している様子は、先程来たときと変わらない。それなのに、この騒然とした雰囲気は何なのか。 奇妙に思いながら、仲間の姿を探す。 ネルがソフィアとスフレの姿を見つけたのと、彼女たちがこちらへ気づいたのはほぼ同時だった。 「☆△★◎〜!」 手を振りながらソフィアが叫んだ言葉が、聞き取れなかった。 「◆※☆●△∵◎★§!」 そしてスフレが大きな声で言った言葉も、何を言っているのかさっぱりわからなかった。 「あんたたち、何を言ってんだい?」 首を傾げて歩み寄るネルの言葉に、ソフィアもスフレもきょとんとした顔をする。 そして互いに顔を見合わせてから、目の前に来たネルに話し掛ける。 …が、やはり全くわからない。 聞いたこともない音声の羅列にしか聞こえない。 からかっているのだろうかと思っても、二人とも悪戯をしている様子はない。 こうなるとネルも不安になる。 「ねえ、一体どうしたんだい?」 ネルの言葉にびっくりした顔をして、ソフィアが慌ててポケットから小さな機械を出してそれを盛んにいじっている。 スフレと二人で焦った様子で何か言い合いながら機械を押したり振ったりしているが、その間も二人が何を話しているのかわからない。 「二人とも、さっきから何を話してるんだい?」 言ってから、ネルははっとした。 この部屋にいる人々のざわめきが、言葉として聞こえないのだ。 総て、ソフィアやスフレが喋っているかのような謎の音声の羅列になっている。 だから大勢の話し声が騒音じみて聞こえたのだ。 なんとか理解できる言葉を拾おうとしているネルの前で、ソフィアとスフレが首を横に振る。 「え…もしかして、私の言葉もわからない?」 ネルが何を言っても、二人の反応は的を射ない。 ここにいる全員に同じような現象が起こっているのかと思っても、どうやらソフィアとスフレは普通に会話をしているようである。 さらに周囲の人々も、普通に会話をしているようだ。 ということは、自分だけに起こっていることなのか。 「どういうことだい!?ねえ…って、わからないのか…」 二人が何かと自分に話し掛けようとしているが、その口から出てくる音声はネルには言葉として伝わらない。唇の動きを見ても、何を言っているのかわからない。 そういえば星の船から来た仲間たちは全員言葉と唇の動きが合致しないので、不思議に思ったりしていたことを思い出した。 それを不思議に思って聞いてみたところ、実は彼らは違う言葉を話しているものを機械で通訳しているのだという。別の世界から来たのだから当然かと思いながらも、こうして自分が外の世界に出てきた今は、自分自身がよそ者になってしまった。 もしかして、この部屋だけに起こっていることではないだろうか。他の場所にいる人間たちとは普通に会話ができるのではないだろうか。 そんな願いにも似た思いを胸にネルは居住区から飛び出し、隣にある店へと走る。 自動の扉が開くのを待つのももどかしく店に飛び込むと、店員が笑顔で出迎えた。 しかし、挨拶をしたらしいその言葉は、やはり何を言っているのかわからなかった。 「そんな…!」 ネルは急いで踵を返し、別の店が入っている部屋へと走る。 ネルの希望を打ち砕くように、その店でも、隣接するバーでも、人々の言葉を理解することができなかった。それでも店員同士では話が通じているようだ。 「ど、どうなってんだい!?」 言いようのない不安がネルを襲う。 自分だけが、皆の言葉を理解できなくなってしまった。 この命のない無機質な空間に、本当に独りになってしまった。 まさか…まさか… 膝がぶるぶると震えているのがわかる。 「…っ」 ネルは広間から左右に分かれて伸びる通路を、右方向へと走り出した。 通路の先には転送装置がある。 しかしこれに怯んでいる場合ではない。 迷わず中に飛び込むと、眩い光がネルを包んだ。 「ネルさん!」 ソフィアとスフレが必死に走ってきたとき、ネルは転送装置に消えていた。 二人は息を切らせて、転送装置に取り付く。 「ネルちゃん行っちゃったよ!?」 「どうしよう…私たちだけじゃ、エクスキューショナーに遭ったりしたら…」 ソフィアとスフレだけでは、下手に追うことはできない。 ソフィアは握り締めていたコミュニケーターのスイッチを押し、 「フェイト!フェイト、早く戻ってきて!」 悲鳴のように繰り返した。 十分も待たなかったはずだが、やたら長く感じられる時間を過ごすうち、左手の通路の転送装置が光ってフェイトとマリアが戻ってきた。 「どうしたんだソフィア!」 「何があったの!?」 「それが…」 「急にネルちゃんの言葉がわかんなくなっちゃったの!」 「え?なんだって?」 「私たちの話も通じなくなっちゃったみたいなの。そしたらネルさんが急に慌ててどこかへ行っちゃって…」 「ネルさんだけの言葉がわからないのか?」 「もしかして…」 マリアがソフィアのコミュニケーターを受け取ってスイッチが入っていることを確認してから、何か喋った。 「…なに?」 「マリアちゃん、今何てしゃべったの?」 きょとんとする三人に、マリアは納得いったという顔で頷いた。 「今、私はクラウストロ本星のみで使われている言葉で喋ったの。」 「え?そんなのコミュニケーターがあれば、わかるはずだろ?」 「でも、実際にはわからなかったでしょ。」 「はい、さっきネルさんが喋ってた言葉みたいに、全然わからなくって…」 「そうよ。今私たちが基本的に喋っているのは、銀河連邦共通語でしょ。だからコミュニケーターがなくても会話はできるわ。でも共通語を話していないネルを相手にコミュニケーターを介さなければ、どうなる?」 「あ…そうか!」 「てことは、これが壊れちゃったってことですか!?」 「あなたのだけじゃないわ。皆自分のコミュニケーターを持っているでしょう?それなのにさっき私が話した言葉がわからなかった。」 「何らかの原因で、翻訳機能がいかれたってことか。」 それならば、いきなりネルと言葉が通じなくなったこともわかる。 「フェイトちゃん!ネルちゃん、あっちのトランスポーターからどっか行っちゃったよ!」 「え?」 「きっと皆を探しに行こうと思ったんだと思う!でも私たちだけじゃ追いかけるのは危険だし…」 「あの先には、エクスキューショナーがうようよいるぞ!」 「いくらネルでも、一人じゃ危ないわ。早く探しましょう。」 駆け出そうとしたところでフェイトが、あ、と声を上げる。 「あっちにはクリフとアルベルが行ってるよな。もしかして、あっちでも同じことが…」 「…ここにいる全員のコミュニケーターが壊れてるってことは、ありえるわね。」 「幸い通信機能は生きてるみたいだから…おーい、クリフ!」 フェイトがコミュニケーターに向かって呼びかけると、間もなく返答が返ってきた。 『おう!ちょうど今連絡しようと思ってたんだ!急にコミュニケーターが壊れちまったみたいでよ…』 「やっぱり!」 案の定、向こうでも同じことが起こっていたらしい。突然アルベルと言葉が通じなくなったそうだ。 最初はアルベルは無言だったために気づかなかったが、エクスキューショナーと戦っている間に何かと叫んだりしているうちに、互いの言葉がわからなくなっていることに気づいたのだという。 「こっちでもネルさんの言葉がわからなくなっちゃって…しかもネルさん、一人でそっち行っちゃったんだよ!」 『はあ!?すげー広いぞ、ここ!俺たちかなり奥まで来てるし、どこいるかわかんねーぞ!』 「僕たちも探しに行くから、そっちでも探してくれないか?」 『わかった。って、どうやって説明すりゃいいんだよ…』 愚痴とともに通信を切ったクリフを、アルベルが怪訝な顔で見ている。 さっきから、クリフの言葉が全くわからなくなっている。 しかもこちらの言葉も通じていないらしい。 別に会話ができなかろうとアルベルはどうでもいいのだが、今の様子からして緊急事態が起こったようだ。 その証拠に、何やら困ったような焦ったような顔でこちらに振り返る。 「◆刀諱掾Aアルベル!」 かろうじて自分の名前だけはわかった。しかし何を言いたいのだろうか。 「おい、ネルがこっちで迷子になってるらしいぞ。って、わかるか!?」 何かまくし立てた音声の中に、「ネル」という単語があった気がした。 「何言ってるかわかんねーぞ。」 とは言ってみてもやはり通じないのか、クリフが天を仰ぐ。 そして今度はゆっくりと言い聞かせるように、 「ネルだよ、ネル!あいつを探せっての!」 今度は聞き間違いではなく、確かに「ネル」と言った。 しかもその様子はただ事ではない。 「…あいつが…ネルがどうかしたのか。」 わからないなりに、アルベルの口から「ネル」という単語が出たためにクリフは勇気付けられた。 「そうだよ、ネルだよ。おまえの大事なかわいーネルちゃんが迷子なんだとよ!」 通じないと思って好き勝手なことを言っている。 実際これだけ喋っても理解できるのは人名の部分だけだ。もし通じていたら即座に問答無用で叩き斬られるはずなので、本当に言葉が通じていないらしい。 だから迷子になっているとか、細かい文脈は全くわからない。 「あーもう!いいか!?ネルを、探すの!さ・が・す!ほら、わかんねーかな!」 我ながら滑稽なまでのジェスチャーで、ネルを探せと訴える。 アルベルとて、これだけ慌てた様子で名前を連呼されれば、ネルに何かがあったのではないかと察しがつく。 そしてクリフ渾身のジェスチャーも、なんとなくわかった気がした。 「…あの阿呆を探せってか?ったく…」 舌打ちと共に踵を返したアルベルを見て、どうやら言いたいことが伝わったらしいと胸を撫で下ろした。 「はー…あいつに任せちゃおうかな。どうせ俺が見つけても言葉わかんねーし。」 溜息を吐きながらも、走り去ったアルベルが行った方向とは違う方へ探しに出かけた。 フェイトが言ったとおり、初めて来たムーンベースの居住区はややこしい構造になっていた。 いくつもの通路が放射状に伸び、その先は転送装置となっていて、どこにつながっているのか全くわからない。 そして行く先々にエクスキューショナーがいる。 しかもそのエクスキューショナーの言葉さえわからない。 「はああああっ!!」 施術によって凍りつかせたエクスキューショナーに渾身の一撃を見舞わせると、粉々に砕け散った。 こうして何体も倒しているのだが、まるで虫が湧くように次から次へと現れる。 体力を消耗しないように極力避けているのだが、それでも戦わなければならない。 思えば、何故こんなところに来てしまったのだろうか。 あの部屋でおとなしくしていれば、やがて皆戻ってきたはずである。 言葉がわからなくなってしまったとわかった瞬間、言いようのない不安に駆られた。 きっとこれは、大切な仲間をほんのわずかでも煩わしいと思ってしまった自分への罰だ。 もしあいつの言葉までもわからなくなっていたらどうしよう。 そうしたら自分は… ごめんなさい。 もう二度とそんなこと考えないから。 だから、それだけは… その切なる想いがネルを走らせていた。 狭い通路を徘徊するエクスキューショナーが背を向けている隙に、その背後を駆け抜ける。 その先の角を曲がったところで、新たな通路が続いている。 そしてその通路は、ところどころ破壊されていた。 エクスキューショナーの襲撃によって、ムーンベースもあちこちが破損している。しかしその破損個所を見て、ネルは足を止めた。 クレーターのように陥没した跡と、鋭いもので切り裂かれたような跡。 「これは…!」 見間違えるはずがない。確かにあいつの太刀筋だ。 確かにこの場所であいつが戦った痕跡に違いない。側にある陥没も、きっとクリフがやったものだろう。 ということは、この先にいるのだろうか。 走る足に力がみなぎる。 抉れた床を飛び越えて突き当りまで走り、自動の扉を抜けた先は… また放射状にいくつもの通路が伸びていた。 「…!」 どこへ行ったのだろうか。 その場所には何の痕跡もなく、わからない。 途方に暮れながら通路の脇から覗くと、上にも下にも同じような構造の階が幾層も重なっている。 ここのどこかにいると思っても、あまりに広い。 よしんば見つけられたとして、言葉が通じなかったらどうしよう。 不安だけが頭の中をぐるぐると回る。 その不安を振り切ろうと首を振ったネルは、背後に異様な気配を感じた。 「!?」 振り向けば、通路の真中に光が現れ、その中からエクスキューショナーが現れたではないか。 それも、何体も。 さすがにこの狭い通路で、これだけのエクスキューショナーを相手に戦うことも逃げることも難しい。 「まったく、しつこいね…!」 それでも逃げるしかない。 身構えながらどうやって隙を作ろうかと考えていると、 「ネル!」 電流のように駆け抜けたその声に、思わず我が耳を疑った。 あいつが自分を呼ぶ声が聞こえた気がしたのは、聞き違いではないだろうか。 それも背後の、通路の外側から聞こえたのだ。 まさか… それでも必死にその声が聞こえたと思われる方向を探す。 すると、 「下だ阿呆!」 今度は間違いなくはっきりと聞こえた。 「!」 その声の主は、放射状に伸びる隣の通路の、しかも一つ下の階層の通路にいた。 離れていても、真紅の双眸がまっすぐにこちらを見上げているのがわかる。 それも今聞こえた声は、自分にわかる言葉だった。 不安に張り詰めていたものが解け、全身から骨が抜けてしまったかのような脱力感を覚える。 しかしのんびり安堵感に浸っている場合ではない。 どうやってそこへ行くかが問題だ。移動する場所を探そうにも道は分からないし、目の前にはエクスキューショナーがひしめいている。 そんなネルの状況を察したか、もどかしげに叫ぶ。 「そこから飛べ!」 「え!?」 ここから隣の、一階層下の通路へはかなりの距離がある。ネルの跳躍力をもってしても、届くかどうか。奈落の底へと落ちる恐怖がネルを逡巡させる。 「受け止めてやるから飛べ!」 下の通路から身を乗り出して叫んでいる。 「早く来やがれ阿呆!」 背後のエクスキューショナーを振り返り、もう一度対岸にいるアルベルを見る。 不思議と、奈落へ落下する恐怖はどこかへ消えていた。 たとえ届かなくても、あいつがきっとつかまえてくれるから。 ネルは意を決して通路の縁に足をかけ、思い切り蹴った。 最下層が見えない中空を、放物線を描いて飛んでいく。 もう少し。 もう少しで下の通路に届く。 いや、わずかに届かないか。 それでも必死に手を伸ばす。 「アルベル…っ!」 叫んだ瞬間、通路から精一杯身を乗り出したアルベルが、その手を掴んだ。 そして肩が抜けるのではないかと思えるほどに強く引っ張られ、勢い余って通路へ転がるように倒れこんでごろごろと通路を転がる。 しかしその衝撃は直接ネルには届かなかった。 ようやく体が止まったとき、ネルは仰向けに倒れたアルベルの胸の上にいた。 そこでようやく、アルベルがネルの体をしっかり抱えこんで衝撃から守ってくれていたのだと気づいた。 「ってぇ…」 「だ、大丈夫かい!?」 慌ててアルベルの上から下りて助け起こす。 アルベルは思い切り打ち付けた背中をさすりながら起き上がり、 「てめえは残ってろって言っただろうが、阿呆。」 悪態を吐きながら、真っ赤な髪をくしゃくしゃとかきまわす。 口とは裏腹に温かい掌に、ネルはたまりかねたように身を震わせると、男の首にしがみついていた。 「よかった…」 「何がだ。」 「あんたの言葉、わかるよ…!」 「……」 肩に顔を埋めるネルの声がわなないている。 アルベルはその背中をなだめるようにぽんぽんと叩きながら、 「…ああ、俺もさっきクリフといきなり言葉が通じなくなって何かと思った。で、なんでてめえはこんなところに来たんだ。」 「だって…」 体からは力が抜けてしまったのに、しがみつく腕には精一杯の力がこもっている。 「私だけ急に誰の言葉もわからなくなって…誰も私の言葉をわかってくれなくて…」 本当に独りぼっちになってしまった。 初めて来た異世界で、一緒にいるはずの仲間からも取り残されてしまった。 任務でただ一人行動することはいくらでもあった。 しかしそこは自分が知っている世界であり、外国であれその国の言葉を使えば会話をすることはできた。 だから今まで、一人言葉が通じないことで孤独感を感じたことなど全くなかった。 それなのに。 知らない世界で、自分だけが置いてけぼりになってしまった。 仲間たちは、互いに会話をすることができるのに。 自分だけが、わからない。 彼らにも自分の言葉が届かない。 人間の他に生命の息吹を感じられない空間で、すぐそこにいるはずの仲間たちとの間に目に見えない壁ができてしまった。のけ者にされた壁のこちら側は、真っ暗で寒くて寂しくて…彼らがいる明るい空間が、どんどん遠ざかっていく。 痛いほどに、仲間だと思っている彼らと自分は違う世界の人間なのだと思い知らされた。 「もし…もしあんたの言葉までわからなくなってたらって…あんたまで遠くへ行っちゃったらって…」 そんな不安が胸を過ぎった瞬間、走り出していた。 アルベルが消えた通路へと。 「相変わらず阿呆だな。」 細い体を抱きしめ、赤い髪を撫でる。 そして頬に手を添えて上を向かせると、スミレ色の瞳に涙が滲んでいた。 それだけで、この女がいかに不安を超えた恐怖を感じていたかがわかる。 「もし言葉が通じなくなったら…そうだな。名前呼べよ。」 「……え?」 「さっきこっちで言葉がわからなくなったときでも、名前だけはわかったからな。だから、名前呼べよ。」 さらさらとした赤い前髪をかき上げ、額に唇を寄せる。 「…そしたら、あんたも呼んでくれるかい?」 「……しょーがねえから呼んでやる。」 泣き笑いに似た微笑を浮かべ、アルベルの顎の下に額を埋めた。 「それは貴重だね。あんた、よっぽどのことがないと名前呼んでくれないし。」 「人のこと言えるか阿呆。さっきはよく俺の名前を覚えてたもんだと感心したぞ。」 「…バカ。」 低く笑う声が途切れ、伏せた長い睫毛の間から涙が一筋滑り落ちた。 「でも…やっぱりあんたと話せなくなるのは、いやだ……あんたにまで置いてけぼりにされたくない…」 「…置いてかねえよ、阿呆。」 目元に唇を寄せ、透き通った涙を吸った。 通路の角に折り重なるようにして隠れ、困ったように通信機をいじるのはフェイトたちだった。 「うひゃー…ネルちゃんとアルベルちゃん、めっちゃらぶらぶだー…」 「…なんていうか…コミュニケーター直ったんだけど…」 「いいないいな、私もあんなこと言われてみたーい…」 「あの場に割り込める勇者なんていねえぞ。…こういうときに限ってエクスキューショナーどもも出ねえし。」 「ほっときましょ。やることやったら戻ってくるわよ。」 五人はそんな必要などまったくないのに、そっと忍び足で去っていった。 結局コミュニケーターの異常は、一時的な電波障害によるものだったらしい。恐らくエクスキューショナーの攻撃が原因だと言われているが、その後コミュニケーターが機能しなくなることはなかった。 |