人の口に戸は立てられないと言うけれども。 噂が広まるのは早いと知ってはいたけれども。 いつの間にか知れ渡っていたこの噂を耳にするたびに、何故だか怖くなる。 出来る限り悟られないように気をつけていた。 あくまで「仲間」という位置関係を崩さないように。 しかしそんな努力を無視するように仲間たちが囃し立て、おもしろがって部下たちまでもがからかい半分で言ってくる。もちろん、彼らに悪意など微塵もなく、好意でもって言っているのはわかっているのだが。 それに、意識せずとも気がつけば側にいる。 いつの間にか振り向くと彼がいて、気がつくと、自分も彼の側にいる。 戦っていても、示し合わせたわけでもなく、息の合った攻撃をしかけることができる。そして何かのときに背中を預けるのは、いつも彼だった。 それがいつの間にか決まってしまった、二人の位置関係だった。 もう戦争は終わったのだし、堂々としていればいいではないか。 そう思おうとするのだが、どうしても開き直ることができないでいる。 自分が心のどこかで、戦争をしていた頃のことを引きずっているのだろうか。 時の流れに逆らうような自分の頑なさが嘆かわしかった。 しかし、同じようにあの頃を引きずっている者はいくらでもいる。そんな人々の目が、怖いのかもしれない。 「お客様、持てますか?」 「うん、大丈夫…と、さすがに重いね。」 日差しの暖かさに近づいてくる春を感じられるその日、ペターニでいろいろと買出しをしていた。 とりあえず回復用アイテムや食料ということで、手が空いている自分が買い出しに出てきたのだが、メモにある分を買っているうちにいつの間にか両手に溢れんばかりの荷物になってしまった。 適当に必要だと思うものを皆が言うままに書き並べたメモなので、とにかく品数が多い。誰だこんなに酒ばかり何本も書いたのは。あとでぶん殴る。 こんなことなら、誰か荷物持ちに連れてくるべきだった。 後悔しながらもやたら遠く感じる宿までの道のりを進んでいると、後ろから無愛想な声がかけられた。 「何をババアみてえに腰曲げてよたよた歩いてやがんだ。」 振り向くと、偶然通りかかったらしい、これまた無愛想な表情の暗褐色と金の混じりあった髪の男。 「誰がババアだい。失礼な奴だね。」 毒づいてみても、息が切れている。 彼は何も言わず、彼女の両手に余る紙袋を奪い取った。 「ちょっと…!」 問答無用で荷物を奪われ、たいして重そうな顔もせずにすたすたと歩き出す男を慌てて追う。 「落とされて酒が割れたらもったいねえだろうが、阿呆。」 「この酒の山の犯人はあんたかい!」 「半分はクリフだ。」 「てことは半分はあんたなんだね。」 呆れながらも、まっすぐに宿へ向かう彼の背中に、何故か礼を口にすることができなかった。 「ネル様。」 宿へ入ろうとしたところで、声をかけられた。 振り向けば、部下の女性が立っている。彼女はずっと遠方の任務についていたため、会うのは久しぶりだ。 そんな彼女と普通に挨拶をかわすと、彼女は今しがた荷物を抱えた男が入って行った宿の扉をちらりと見て、 「不思議なものですね。ついこの間まで戦争をしていたのに、それが終わった今、アーリグリフの人たちがこうしてシーハーツを普通に歩けるようになったんですものね。」 「そうだね。私らも今は堂々とアーリグリフやカルサアを歩けるんだからね。」 「今の人は、歪みのアルベル…でしたよね。」 「…ああ。」 形のいい眉が、ぴくりと動いた。しかしそんなことには気づかず、 「あれほど恐れていた敵将が、今は同盟を結んで共に戦う立場なんて…ちょっと前までは夢にも思っていませんでしたよね。」 「……」 こちらをまっすぐに見つめる彼女の笑顔が、何かを含んでいるように思えてならない。 「でも万が一またアーリグリフと戦争になったりしても、安心ですね。」 「……何でだい?」 「だって、ネル様があの歪みのアルベルを篭絡なさっているんですもの。」 「え…」 二の句が次げなかった。 彼女はそのあと何かしゃべっていたようだが、全く耳に入らなかった。彼女が一礼して去っていったあとも、しばらくその場を動けなかった。 …なんだって?今、なんて言った? 自分があの男を篭絡したと言った。 その言葉が、いつまでも頭の中でがんがんと響いている。 違う…! そう叫ぼうとしたとき、既に相手はどこにもいなかった。 自分とあいつの関係を聞いた者は、そう思うのであろうか。 何故かそのとき一番言いたかったことは、 あいつはそんな奴ではない! そのことだった。 そんなつもりで近づいたって、あいつは決して乗ってこないだろう。 それだけは確信が持てる。 それなのに、不安で胸がいっぱいになる。張り裂けそうになる。 「どうしたんですか?ネルさん元気ないですよ。」 「いや、そんなことないよ。」 気遣わしげなソフィアの視線をかわし、部屋へ篭もる。 灯りもつけずに椅子に蹲り、膝を抱える。 人は、自分をそういうことをする人間だと思っているのだろうか。 もしかして、自分にも無意識のうちにそんな思いが働いていたのではないだろうか。 だから、そう思われるのではないか。 この胸の奥にある想いは、偽りなのだろうか。 相手も、己も欺くための…。 いや、そんなはずはない。 私は…。 違うと思っているのに、不安が次から次へと溢れてくる。その不安はやがて自分への猜疑心となり、闇の淵へと引きずり込んでいく。 敵だった男と通じあう自分を、声を潜めた嘲りと誹りが取り囲んでいるようだ。 そうだ、そういう目的があるからこそ、敵だった男と関係を持ったのだ。 どこからともなく聞こえてくる自分の声が、心の奥深くにある後ろめたさへの言い訳となって恐ろしいほどに心地よく響く。 裏切り者。 恥知らず。 …違う…私は… そんな声も、戦争で命を落とした人々の渦巻く怨嗟の声にかき消されてしまう。 …違う…違うよね、ねえ… 耳を塞ぎ、何かにすがるように己の膝に顔を埋めた。 「…い、…おい。」 頭上から投げかけられたその声に気づいたのは、肩を掴まれたからだった。 いつの間にか、その男が目の前に立っていた。 隠密にあるまじきことだが、いつ入ってきたのか全く気づかなかった。しかし今はそんなことを恥じる心の余裕がない。 「…あ…な、なんだい?」 「なんだじゃねえよ、阿呆。」 呆れたように言いながら、ランプに火を灯す。 自分の顔を見られたくなくて、暖かな光を投げかけるランプから顔を背ける。 そんなネルの正面の椅子に腰掛けると、重さも考えずに昼間に買ってこさせた酒の一本を開けた。 無言で酒を満たしたグラスを押し付けられ、仕方なくそれを受け取る。彼もグラスをあおって酒を喉に流し込むと、顔を背けたままちびちびと酒を舐める女を睨んだ。 「てめえの悪い癖を教えてやる。」 「…なんだい。」 「些細なことを一人でぐだぐだ考えすぎるってこった。」 はっとしたように、顔を上げる。 「わ、私がいつ…!」 「ほう、違うのか?」 さも珍しそうに言われて、言葉に詰まる。 何も言えずにまた顔を逸らすネルに、ほら見ろ、と口の片端を吊り上げて笑い、 「で、今度は何を言われた。」 「…っ」 「図星だな。」 「……」 鼻で笑われ、観念するしかなかった。 何故、こいつにはわかってしまうのか。 押し黙ったまま、グラスを空けて自ら酒を注ぎ足す。 それを飲み干す間、アルベルも何も言わずに飲んでいた。 やがて酒気を含んだ息を吐き出し、 「…あんたさ…」 わずかな逡巡の後に口を開いた。 「私とこうしてること、なんとも思わないのかい?」 「別に。」 「…そう。」 再び、酒を飲む音だけが室内に響く。 一本の酒が空になるのは、あっという間だった。 逆さにしてもわずかな雫しか落ちてこない瓶を恨めしげに振りながら、酒気を帯びたスミレ色の瞳を向けてきた。その表情は、いつものこの女にはない自嘲するような影を帯びている。 「もし敵が…あんたを色で惑わそうとしたら、どうするつもりだい?」 「はあ?」 こちらも空になったグラスをテーブルに置き、何を言い出すやらと呆れた顔をする。 「何をてめえは…」 「いいから答えな!」 テーブルを叩いた衝撃で跳ね上がったグラスが床に落ちて砕け散る。 しかしその苛立ちの矛先は、自分ではないとアルベルは気づいていた。それは、ネル自身に向けられている。 と、行き場のない苛立ちに目元を引き攣らせたまま、挑むような表情になる。 そして黙って自分を見ている男の頬にそっと触れ、 「私があんたに近づいたのは、あんたを骨抜きにしてやるつもりなのかもしれないよ?」 白い、むしろ蒼ざめた頬に蟲惑的な笑みを浮かべる。 「……」 頬を撫でる指に触れ、不敵とも言える笑みを口元に浮かべて、ネルを見据えた。 「その逆だったらどうする。」 「…っ」 手の中で、繊手がびくりと震えるのがわかった。それと同時に、血の気を失った顔が瞬時に強張る。 それにかまわずに女の細い指に我が指を絡め、氷の彫像のようになってしまった女の頬に触れた。 淡い紅の唇が震えている。 ああ… 心の奥で、大きな音をたててひび割れる音が聞こえる。 それは今にも割れ砕け、自分もろとも粉々に砕け散ってしまいそうだ。 伏せられた長い睫毛の間から零れ落ちたものが、男の手を濡らす。 ありえない話ではない。 それなのに。 それなのに、何故こうまで打ちのめされるのか。魂が引き裂かれるような悲しさは何なのか。 「…そんなの、いやだ…いや…」 わななく唇から、かすれる声が漏れた。 相手の目を見るのが怖い。 目を伏せたままのネルに、しかしアルベルはあっさりと、 「阿呆か。」 「……」 怯えるように顔を上げると、彼は相変わらず不敵な笑みを浮かべたままで、 「俺がそんなまわりくどいことするかよ、阿呆。」 「……」 呆然としているうちに手を引っ張られ、男の胸にぶつかるように倒れこんだ。 「だからてめえも、つまらねえ冗談言ってんじゃねえ。」 長い指が、赤い髪をさらりと撫でる。 震えが止まらない。 しかしその震えは、先程のものとは違っている。 怖かった。 胸の奥の光が与えてくれる、包み込むようなこの温もりは、偽りだったのか。 一瞬でもそう思った瞬間、奈落の底に突き落とされたような気がした。 わずかにすがる細い糸が、ぷつんと切れてしまったような気がした。 本当に偽りだったとしても、そんな真実は知りたくなかった。 偽りでなかったとわかっても、その糸がまだ切れていないとわかっても、その恐怖はそうそう拭い去れるものではない。 自分がどれだけ中傷され、傷つこうとかまわなかった。 ぼろぼろになろうとかまわなかった。 そう思えるのは、それを補って余りあるほどのものをくれるから。だから、自分はどう思われようとかまわない。 胸の奥にある、自分だけが知っている温かな光を抱きしめて、耐えることができる。 しかし、もしその光が消えてしまったら。 あんたにまでそう思われたら、私は… 腕の中で細い肩を震わせる女を、男は黙って抱いていた。 どれくらい、そうしていたのかわからなかった。 いつのまにか窓の外から聞こえてきた町の喧騒は静まっている。 油が少なくなってきたランプの灯りも弱まった室内で、温かい胸にすがったまま呟くように言った。 「…シーハーツには、そう思ってる奴が大勢いるよ。」 「アーリグリフにもいるだろうな。」 「いやじゃないのかい?」 「なんでだ。」 「だって…あんたがその程度の男だって思われてるんだよ。」 「ふん、言いたい奴らには勝手に言わせておけ。」 「でも…」 「後ろめたいことがなけりゃ、堂々としてりゃいいんだよ。前を見ることができねえ連中なんざほっとけ。」 その言葉に、ぎくりとする。 …私は…後ろめたかった。 そして前を見ることができなかったのは、誰でもない、自分だ。 だからこそ、人々の噂に過敏になる。 しかしそのことはかえって、自分の想いを浮き彫りにさせた。 この胸の奥の光を誰にも否定されたくないから。 この光が、何より大切だから。 そしてその光をくれたのは、かつてアーリグリフの名の元に憎んでいたこの男…。 温かい胸板に額を押しつけていると、柔らかな髪を玩んでいた男がふいに思い出したように、 「さっきの答えだが…」 「なんの…?」 「どこかの女が色仕掛けで俺を落とそうとしたらだ…」 「……」 「そいつからもらうもんだけもらってあとは知ったこっちゃねえが、仕掛けてきたのがてめえだってんなら、引っかかってやってもいい。」 「え…」 思わず顔を上げると、不敵に笑う男の真紅の視線がまっすぐに自分を見詰めていた。 「それから本気にさせればいいことだ。どうあがいても抜け出せねえくらい、溺れさせてやる。そうすりゃ今と変わらねえ。」 胸の奥の光が、共鳴するように輝きを増した気がする。 そうか。 彼の胸の奥にも、同じ光があったのだ。 これだけ確固としたものを己の内に抱いていながら、何を思い悩んでいたのか。 …本当に、私はバカだ… そんなことにも気づいていなかったなんて。 とろけそうなぬくもりが全身に広がっていくのが感じられる。 「…溺れるのはあんたじゃないのかい?」 「…阿呆。」 包み込むように頬に手を添え、そっと唇を重ねた。 人がどう思っていようと、かまわない。 この男の胸にも同じ光がある限り、自分の中の光は消えない。 誰にも消すことはできない。 だからもう、怖くない。 自分と、この男の想いがここにある限り…。 |