「…わがまま。」 ランプの灯りはとうに消え、暖炉に残った白い灰の中にほんのりと残るわずかな赤い光と、差し込む青い月明かりだけがわずかに照らす暗い部屋の中、ネルがぼそりと呟いた。 「あ?」 炭と灰だけになった暖炉の前の敷物の上にあぐらをかいていたアルベルは、自分の背中にもたれかかっている小さな背中の主へ肩越しに視線を投げた。 不審そうなアルベルの声を気にする素振りも見せず、膝を抱えて広い背中に体重を預けたまま、 「傲慢。」 「…おい。」 「粗暴。」 「誰のことだ、こら。」 「天邪鬼。」 「てめえ…」 「露出狂。」 「喧嘩売ってんのか。」 だんだん剣呑になっていくアルベルの声をなおも無視して、ネルは一人首をかしげる。 「うーん…並べてみると、最悪だねえ。」 「てめえな…」 やっぱりこういうことはすらすら出てくるんだけどなあ…などとぶつぶつ言いながら、 呆れたように溜息を吐くアルベルの背で、ネルは何か真剣に考え込んでいるようだ。 アルベルはもう一度深く溜息を吐き、 「…頑固。」 「え?」 ようやくネルが顔を上げた。しかし今度はアルベルが無視し、指を折りながら続ける。 「融通が利かない。」 「なに…」 「無鉄砲。」 「ちょっとあんた…」 「鈍感。」 「……」 「素直じゃねえ。」 よし、これで五つ、と小さく呟く。 「……」 「……」 暖炉の灰に埋もれた炭が、ぱち、とわずかに音を立てた。 「…腹立ってきた。」 「てめえに倣っただけだ。」 そうだね、と背中でかすかに笑う声がした。 暖炉の火が消えているため、部屋の中はだいぶ寒くなってきている。 しかし、合わさった背中だけが温かい。 「……で?」 「で…って?」 「人を好き勝手にこきおろして終わりか?」 「あんただってこきおろしてくれたじゃないか。」 「てめえが言うからだ。」 背中の温もりがふいに消え、体重をアルベルの背中に預けていたネルはバランスを崩した。 しかし手を突くより先に、どん、という軽い衝撃とともに背中に温もりが蘇った。 その直後、後ろから伸びてきた腕と足に抱え込まれる。 「…何さ。」 「それはこっちの台詞だ。」 耳元に唇を寄せた状態で喋られ、ネルは身をよじりながら、 「…さっきのに追加。この『ドすけべ』。」 「褒め言葉だと思っておこう。」 耳元で薄く笑い、再び「で?」と繰り返す。 「…意味はないよ。」 「ほんとか?」 「ふと思いついただけさ。」 「嘘つけ。」 「決めつけんじゃないよ。」 「ほう。じゃあ何でさっきから首がよじれるほどそっぽ向いてやがんだ。」 「……。」 もう一つ増えた。あっさりとこちらの胸の内を見透かしてしまうこと。 でもそれは…? ネルは深く大きな溜息を吐き、乱暴にアルベルの胸に体重を預けた。 脳裏に、ほんの数時間前のことが蘇る。 「フェイトのバカっ!もう知らないんだから!」 何がきっかけなのかわからないが、どうやらフェイトと派手に喧嘩したらしいソフィアは、夕食の支度をしながらずっとこの調子だった。 「落ち着きなよ、ソフィア。野菜が飛び散ってるよ。」 いつも丁寧なソフィアが怒りに任せて包丁を振るっているため、あちこちに野菜屑が飛んでいる。 「…で、なんで彼への怒りと、『今日の夕ご飯はは柳川鍋と魚の南蛮漬けと納豆タコスにしてやるー!』なのよ。」 「フェイトが嫌いなメニューだからです!」 ぷんぷんと頬を膨らませて言い放つソフィアを、ミラージュがくすくすと笑いながら見ている。 「では、今日絶対に作らないメニューはなんです?」 「カレーとハンバーグとラーメンです!」 「即答したわね。」 マリアが肩をすくめ、ミラージュが相変わらず笑っているが、ソフィアは気づかずに料理を続けている。 「では、こうしませんか?」 微笑んでいたミラージュが、卵をかき混ぜていた手を止めて切り出した。 「せっかくですので、フェイト君への日ごろの鬱憤総てをこの場でぶちまけてみてはいかがです?」 何を言い出すかと思えば。と顔を見合わせたマリアとネルをよそに、ソフィアは目を輝かせ、 「いいですねそれ!是非やらせてくださいっ!」 言うや、雪崩を打つようなフェイトの悪口祭りが始まった。 「ほんとにフェイトって意地悪で腹黒くて乙女心なんてかけらも理解してくれないし妙に鋭いくせに肝心なとこで鈍感だったりゲーヲタだし…」 子供の頃のエピソードから現在に至るまで、よくもそれだけ並べ立てられるものだと感心するほどに延々と機関銃のように恨み節を連ねていく。 そして祭りが終わったのは、柳川鍋がそろそろ煮えそうな頃だった。 「はあ、はあ…」 さすがに息が切れ、ソフィアは水を飲んでいる。 「すっきりしましたか?」 「……」 水を飲み干したソフィアは、しばしの間考え、うなだれた。 「……しません。」 「どうしました?まだ言い足りませんでしたか?」 相変わらず微笑んでいるミラージュに、ソフィアは首を小さく横に振った。 「いえ、なんか…言ってるうちに、だんだんいやになってきました。」 「どうしてです?」 「だって…一応フェイトにだってちょっとはいいところがあるのになって思えてきたから…」 「そうですか。どう思えてきたんですか?」 「…女の子には優しいんですよ。誰にでもってところがちょっとやだけど…。頑固だなって思ったりもするけど、正義感は強いし…」 恥ずかしそうにぽつぽつと話し出すソフィアを見て、マリアとネルは今度は別の意味で顔を見合わせた。 「そういえば、昔からミラージュはああやってたわね。」 「ふうん、さすがだね。」 先程の悪口オンパレードより圧倒的に数は少ないけれど。 それでも一通り語り終えたソフィアは、ようやく笑顔を浮かべた。 「やっとすっきりしたようですね。」 「はい。でも今日のメニューは変えませんよ。それくらいはおしおきしなくちゃ。」 笑うソフィアに、ミラージュも微笑を返す。 「いいところも悪いところもそれだけ言えるということは、その分あなたが相手のことをよく知っているということですよ。」 なるほど…。 ネルは口の中で思わず呟いていた。 何しろ、ソフィアとフェイトは物心ついたときから一緒にいるのだ。 それだけずっと一緒にいれば、互いのよいところも悪いところも隠しようがない。 ネルにも、幼い頃から一緒に育ったクレアという幼馴染がいる。 ソフィアと同じように、相手のよいところも悪いところもよく見えて… と、ネルはふと顎をつまんだ。 …あれ? クレアのよいところはいくらでも思いつく。 でも、悪いところ…悪いところ… 確かにクレアは自分と違って誰に対しても隙を見せないタイプではあるけれど。 もしかして、自分はクレアのことをちゃんと見ていなかった? じゃあ… あいつは? 逢ってからまだ数ヶ月しか経っていない… 好きな料理と嫌いな料理くらいは知っている。 何かと聞かれれば即答できる。 でも… 胸の内を過ぎった真紅の色に、ふいに不安を掻き立てられた。 「おかしいんだよね。」 「あ?」 床に流れていた長い金の毛先をつまみ、弄びながら呟く。 「クレアの悪口なんて全然思い浮かばないのに、あんたは悪口しか思いつかない。何でなんだろう…って。」 アルベルの悪いところしか言うことができないのに。 どうして自分はこの男の腕の中にいるのだろう。 あのときからずっと心の中で繰り返していた問いかけに、しかしアルベルはあっさりと、 「んなもんわかりきったことだろうが。」 「え?」 「てめえはガキの頃からあの女みてえになりたがってたから、悪いところなんざ思いもよらねえ。俺はついこの間まで敵だったんだから、印象最悪。当然の結果だろう。」 「……」 ネルは思わずアルベルをまじまじと見上げてしまった。 すみれ色の瞳を丸くして見つめられ、アルベルは何やら照れくさくなったのか、 「…俺の顔になんかついてんのか。」 「……そうじゃないよ…」 …いつもそうだ。 ネルの中で絡まってどうにもほどけなくなってしまったものを、あっさりと両断してくれる。 「…あ。」 「なんだよ。」 「いや、やっぱりミラージュはすごいなって。」 「はあ?全然意味わかんねえぞ。」 「ふふ、そうだろうね。」 だって悪口を並べてたら、逆にいいところが本当に見えてきたから。 目標のためには努力を惜しまないこと。 口ではなんだかんだ言いながら、部下や仲間のために命を張れること。 …ほら、ちょっとずつだけど、見えてきた。 一人満足そうに微笑むネルに対して、全く話の見えないアルベルは不満そうだ。 「おい、さっきから何を一人でにやにやしてやがる。」 「さあ、なんだろうね。」 笑いながら長い髪をいじっていると、アルベルはむっと口元を歪めた。 まるで仲間はずれにされた子供のように。 そうそう、寝顔はかわいいっていうのもあったね。 ネルはいたずらっぽく笑い、 「あんたさっき私の悪口並べてくれただろ。ちょっとはいいと思ってるところを言ってくれないと、腹が収まらないよ。」 「じゃあ先にてめえが言いやがれ。」 「あんたが私のいいとこ言ってくれたら考える。」 「体。」 「は!?」 「ほら言ったぞ。」 「なんだいそれ!そんなの…」 「嘘は言ってねえぞ。」 「……っ」 目元に触れた唇にひるんだ隙に胸元に滑り込んだ手を押さえ損なってしまった。 「今度はてめえの番だぞ。」 「…だから、今のはだめだって…!」 「約束破るんじゃねーよ。」 「約束なんかしてないっ!」 …ああよかった、大丈夫だ。 悪口も褒め言葉も、両方思いつく。 この手の温もりが嬉しい理由も、伝わる心臓の鼓動に安心できる理由も、わかった気がする。 いいところも悪いところも関係ない。 総てがアルベル自身だということ。 …あんたもそうだよね? だからこんなに優しく抱きしめてくれるんだよね? でも… 「またよくわからなくなったら悪口雑言並べ立てるから、覚悟しときな。」 「さっきからわかんねーのはこっちだ阿呆。」 互いに見つけていけばいい。 焦らないでゆっくりと。 二人の時間はまだ動き出したばかりなのだから。 |