菫色の瞳のひと



 清らかな流れを眼下に望む橋ムーンリットは、シーハーツ人の自慢の一つだ。
 掃き清められ塵一つない橋は、どちらを向いても美しい景観が広がっている。
 裏を返せば、この聖殿カナンから溢れる美しい水の流れが天然の堀となり、都を守っているわけだ。
 この橋をわたろうとするときには、自然と足が重くなる。
 静寂に包まれ整然としすぎた街並みが苦手ということもある。
 しかしそれ以上に、人々の視線がいやだった。
 アーリグリフ人というだけで誰もが後退るというのに、三軍のひとつ漆黒騎士団の団長なのだ。
 歪のアルベルに対して向けられる視線は、恐怖と憎しみと、好奇。
 自分一人なら、そんなものはかまったことではなかった。
 鬱陶しいことに変わりはないが、そちらを向いた途端に目を逸らすような、満足に睨むこともできないようなクソ虫どものことなどどうでもいい。
 しかし…
 自分と一緒にいることによって、その女まで同じ視線を向けられることがいやだった。
 その女が受けるべき視線は、尊敬と憧れと、少しの恐れであるべきなのに。
 クリムゾンブレイドの称号を許されたネル・ゼルファーとして。
 仲間のうちでその男だけが居心地の悪い思いをしていることを、ネルも当然わかっている。
 だからいつしか、シランドに来たときはネルの部屋で休ませてくれるようになっていた。
 城内のここなら、街の人々の視線を浴びることはない。
 一人静かに時間を過ごすことができる。
 そう、一人で。
 ネルはシランドへ帰ってくると、仕事が溜まっているといって一日忙しく飛び回っている。普通は家に帰ってくれば休みたいと思うであろうに、本当に損な性分の女だ。
「いつもほったらかしで、なんか悪いね。」
「別に。夜にちゃんと戻ってくりゃ、文句は言わねえ。」
「…バ、バカっ!」
 いつもはそんなやりとりが交わされるのだが。
 うららかな午後のひととき、部屋の主を差し置いてベッドに転がってうつらうつらとまどろんでいると、ばたばたと慌しい足音が聞こえてきた。
 荒っぽく扉を開け放つ音に目を開けると、ネルが慌てた様子で部屋の中に首をつっこんできた。
「ごめん、ちょっと急用ができて、帰りが遅くなるかもしれない。食事のことは調理場に言ってあるから、先に食べてて!」
 それだけ言うと、またばたばたと走り去って行った。
 何をそんなに慌てているのだろうか。
 急ぎの任務でも入ったか。
 いや、あの慌て方はどこか違う。
 本当に、慌てふためいていた。
 声まで上ずらせるほど慌てることは、任務のときにはない。
 冷静さを保つことがヘタで、よく感情を噴き出させてしまうネルだが、あのような慌て方はしない。
 任務のことでないとすると、個人的なことだろうか。
 仲間に何かあったのだとしたら、自分にもちゃんと話すだろう。
 任務のことでもなく、仲間のことでもなく、取り乱すこととは…
 考えているうちに、がばと起き上がっていた。
 いくら考えようと、わからないものはわからない。
 こういうときは、ぐだぐだ考えるより体を動かしたほうがいい。
 床に放り捨ててあった軽鎧とガントレットを手早く身につけると、刀を掴んで部屋を出て行った。

 城内の人間に聞いても、ネルが走って外へ出て行った程度しか知らず、街の人間にはとても聞ける状態ではない。シランドの人々の視線を無視して城下町をぐるりと回ったが、どこかにいそうな気配もない。
 ということは、外に出たのだろうか。
 城壁を守る兵士にどうやって尋ねようかと考えながら歩み寄って行くと、向こうのほうから声をかけてきた。
「おや、アルベル様。今日はネル様は皆様とご一緒ではないのですか?」
「あの女、外に出たのか?」
「はい、お一人で出て行かれましたが、お急ぎのようでして…」
 その返答で充分だった。
 何のためらいもなく城門を出る自分が、不思議に思えてならない。
 自分は一体何をしているのか。
 恐らくは仕事なのだろうから、ほうっておけばいいのに。
 それでも、このまま城へ戻る気にはなれなかった。
 城壁の前に広がる野原は、相変わらず美しい。
 しかし今は、その美しさに似つかわしくない異形の魔物が闊歩する、恐ろしい場所でもあるのだ。
 何枚もの白い翼を持つ、人間によく似てはいるが仮面のように表情のないエクスキューショナーのひとつが、こちらへ向かってくる。
 こいつは自身を中心として広範囲に攻撃を放ったり、瞬間移動したりする厄介な敵だが、既に数え切れないほど屠った敵でもあり、戦い方は心得ている。
 一人だろうと、問題ない。
 先手必勝とばかりに、刀を抜き払った。
 いくら倒そうと、ある程度経つとどこからともなくわいて出るのが、エクスキューショナーの厄介なところだ。
 何体目かの敵を葬ったとき、
「死ネ!」
 エクスキューショナーの耳障りな声が聞こえた。
 それも、遠くから。
 同時に、女の小さな悲鳴も聞こえる。
 その瞬間、考えるより先に走っていた。
 倒れた石柱を飛び越えたところで、朽ちた天使のような異形の影と、その向こうに小さな影が見えた。
 さっき聞こえたのは、確かに女の悲鳴だった。
 ここからではよく見えないが、異形の者の向こうに見える影は、立っているようには見えない。
 まさか…?
「クソ虫が!」
 鞘走った刃が空気を切り裂き、衝撃波となってエクスキューショナーに襲い掛かる。
 大気が振動するような衝撃音とともに、エクスキューショナーの片翼が吹き飛んだ。
 背後からの攻撃に、エクスキューショナーもこちらをすぐさま敵として認識する。
 振り返りざま、腕を大きくふりかぶって竜巻を生み出す。
 あれに巻き込まれると、全身を切り裂かれた上に天高く放り上げられ、地面に叩きつけられる。
 しかしそんなものは、何度も見ていれば容易に見切れるというものだ。
 弧を描くように走り、素早くエクスキューショナーの背後に回りこむ。
「くたばりやがれ!」
 すさまじい斬撃のもと、恨みがましい断末魔の叫びとともにエクスキューショナーは消滅した。
 周囲にもうエクスキューショナーがいないことを確認してから、血振るいした刀を鞘に収める。
 そして改めて、助けた人間を見た。
 そこにいたのは、黒装束に鮮やかな赤い髪の女ではなかった。白いシーハーツの衣裳をまとった、中年の貴婦人といったところか。
 その瞬間、思わず肩から力が抜けるのが感じられる。
 その女は地面に倒れ伏したまま、きょろきょろと周囲を見回している。
 そこにない何かを探すように。
 その仕草にどこか違和感を覚え、
「…おい。」
 声をかけてみた。
 するとその声に反応するように、こちらに顔を向ける。
「どなたかは存じませんが、ありがとうございます。」
 おもむろに向けられた瞳を見て、思わず息を飲んだ。
 紫水晶にも例えられる、美しく澄んだスミレ色の瞳―。
 瞬間、別の女の顔が重なる。
 燃えるように赤い髪を持つ女の顔…
 しかしその幻影も、目の前の女のスミレ色の瞳の声にかき消された。
「あの…?」
 どこかあらぬところを見るでもない顔で、首をかしげている。
 相手の反応がないことを怪訝に思ったのだろう。
「いや、なんでも…」
 言いかけて、ふと気づいた。
 女の美しいスミレ色の瞳は、決して焦点を結ばないのだ。
 話している相手の位置は把握しているようだが、その相手に対して視線が定まらない。そしてその手元には、細長い杖が転がっている。
「…もしかして、見えてねえのか?」
 その言葉に、女はゆっくりと頷いた。
「はい…病にかかってしまい、視力が落ちていたのですが…つい最近、とうとう見えなくなってしまいました。」
 澄んだスミレ色の瞳が、何も映さないというのか。
 その色が美しいだけに憐れに感じる。
 そう思うのも、よく知っている瞳の色とそっくりだからだろうか。
「…何も見えねえ人間が、一人でこんなところをほっつき歩くなんざ、自殺行為もいいところだ。」
「一応は施術も使えますし魔物の気配も感じられるので、なんとかなるかとは思ったのですが…」
 呑気な返事に、呆れたように溜息を吐く。
 こんな命知らずの阿呆にかまっていられない。
 自分が探しているのは…
 それなのに。
 何故か、その場を立ち去れない。
 どうしても、この女を一人で放り出しておく気になれない。
「…ったく、阿呆もいいところだ。しょうがねえ、街まで連れて帰ってやる。」
 あいつは戦うことができるが、この女はそれだけの力もなく、目も見えないのだ。この女を送ってからネルを探しても、大丈夫だろう。
「ご親切にありがとうございます。ですが、行きたい場所がありますので…」
「…どこに行こうってんだ。ペターニか?」
「いえ…イリスの野の果てです。」
「はあ?」
 こんな何もない平原に、目の見えない女が何をしに行くというのか。
 わけがわからないが、それほどまでして行きたい理由があるのだろうか。
「そんな辺鄙なところに、何をしに行く?」
 思わずそんなことを尋ねたのも、いつもの自分らしからぬ行動だと思う。
 女は、何も映さぬスミレ色の瞳を細め、そこにはない何かを仰ぎ見るように顔を上げる。
 幸せそうなその表情に、女が瞳だけでなく顔の造形も美しいことに気がついた。
 抜けるように白い肌は白すぎて、儚ささえ感じさせる。
 若い頃は恐らく相当な美女だったであろう。
「昔、夫が見せてくれた景色をもう一度見てみたいのです。そこに行けばもしかしたら…」
 見えるようになるのではないか。
 そんな都合のいい希望を、無下に否定する気持ちにはなれなかった。
「医師にももう無理だと言われたのですが…もう一度でいいから、どうしてもこの目で見たいものがあるのです。ですから…」
 ものを映さぬスミレ色の瞳を向けられ、ぎくりとする。
「……」
 アルベルが知っているスミレ色の瞳は、いつも鏡のように自分を映している。
 思わず目を奪われる、まるで吸い込まれそうな瞳と同じ色の瞳を持つ女…
「…おい。」
「はい?」
「連れてってやるから、案内しろ。」
「まあ…」
 中年の女の顔が、少女のように輝いた。


 背に負った女は、やたら軽かった。
 連れて歩いてもよいのだが、足場の悪い野原を目の見えない人間が歩くだけでも危険なのに、エクスキューショナーがうようよしているのだ。
 背負って歩き、いざというときには下ろして戦うほうがよほど楽だ。
 女はアルベルの背中から、記憶を頼りに道案内をしている。
 しかしその記憶は古く曖昧で、しかも実際に道を見ながら指図しているわけではないので、かなり不安だ。
 それでも、女を背負って歩き続けていた。
 女は名乗ろうとしたが、それを押し止めた。
 名乗られれば、こちらも名乗らないわけにはいかない。
 しかしシーハーツの人間にとって、アルベル・ノックスの名前は恐怖と憎悪の対象でしかないはずだ。この盲目の女に名乗れるようなものではない。
 通りすがりの者だということで押し通すことにした。
 それにしても、自分は何をしているのだろう。
 こんな見も知らぬ女を背負い、どことも知れぬ記憶の彼方にある場所を目指して歩いているのだ。
「この先に、小さいけれどきれいな橋があるでしょう?そこを渡ってしばらく進んでください。」
 まだそのスミレ色の瞳が世界を映すことが出来た頃の記憶で、道案内をしている。
 しかし今現在この目に映るものは、半ば崩れ落ちた橋だった。
 この橋のほかには見当たらないので、きっとこれを言っているのだろう。
「橋はありましたか?」
「ああ。」
「ムーンリットほどではないけれど、美しい橋でしょう?」
「…ああ。」
 相槌を打ちながら、あちこち崩れ落ちた橋を渡っていく。
 それでも、下を流れる清流の美しさは変わらない。
 石の苔むした様子からして最近崩れたものではないと思うが、自分が知っているスミレ色の瞳は、この橋がまだ美しかった頃の景色を知っているのだろうか。
 そんなことに思いを馳せているうちに、道は途切れてしまった。
「おい、道がねえぞ。」
「細いですが、斜め左に向かって人が通ることができる道はありますか?」
「まあ、通れねえことはねえな。」
「では、そちらへお願いします。」
 どうやら正しい道らしいそこは草木が茂り、とてもまともに歩ける道ではない。この女は目が見えない状態で、本気でこんなところを行くつもりだったのか。だとしたら、相当無謀だ。
 どこかの誰かのように。
「あの…」
「…っ!」
 考えていたことが考えていたことだけに、いきなり声をかけられて思わず心臓が跳ねた。
「な、なんだ。」
「ご親切はとてもありがたいのですけれど…あなたはもしかして、どなたかを探している途中だったのではないですか?」
「…何でだ。」
 図星だっただけに、動揺を悟られまいとわざと声を押し殺す。
「両の目が見えなくなると、今まで見えてこなかったものが見えてくるようです。あなたの気持ちというか心が、ずっとどこか別の場所を向いているように感じられて…」
「……」
「私にかまわず、あなたの御用を優先なさってくださっていいのですよ?」
「…放っておけば、どうせ一人でその場所とやらに行こうとするんだろうが。安心しろ。俺が探している奴は、そう簡単にくたばりはしねえ。」
「恋人ですか?」
 背中からの声に、思わずすっ転びそうになった。
「なっ、なんでそうなる!!」
「あなたからはとても激しい、炎のような気を感じます。でも今その方のことに触れたとき、とても優しい温かさを感じました。」
「…そんなんじゃねーよ。」
 否定はしたが、背中からくすくすと笑う声が聞こえる。
 なんとなく不貞腐れたようにずんずんと歩を進めていると、
「私、娘がいるんです。」
 いきなり言った。
 娘、と言われて、思わず同じ瞳の色の女を思い出す。
 しかし次の言葉で、違うと思った。
「その娘が近々結婚するんです。ですから、その子の花嫁姿をどうしてもこの目で見たくて…」
 天国のあの人の代わりに、この目にしっかり焼きつけたいの…
 独り言のように、小さく小さく呟く声が聞こえた。
 あの戦争によって、家族を失った者は大勢いる。
 この女は、そんな者たちの一人だろうか。
 もしかしたら自分が手にかけた者の中に、この女の夫がいたのかもしれない。
 我知らず、歩調が早まっていた。

 せせらぎに沿って進み、大きな岩にぶつかったら右手のほうに登っていくと、やがて開けた場所に出る。
 そこが、女の言う目的地だという。
 案の定、見えない状態で道なき道を案内するのは無理があったのか、既に夕暮れが迫っていた。
「どうですか?私が言うような場所はありますか?」
「……」
 答えなかったのは、道を間違えたからではなかった。
 確かに女の言うとおり、開けた場所はあった。
 しかしそこにあったのは、巨大なクレーターだった。
 大地は円形に無残に抉れ、その周囲には焼けて枯れた草花の痕跡がある。
 星の船の襲撃のときの被害だろう。
 襲撃の際はアーリグリフ城の地下牢にいたので見ていないが、その驚異的な被害の爪痕は見た。
「この季節には一面に山吹色の花が咲いていて、まるで黄金の絨毯が広がっているような場所でした…」
 しかし女が言う花は、跡形もなく消えていた。
「あの…?」
 答えがないのを不審に思ったか、女が首をかしげる。
「確かにここなんだろうが…花は、ねえな。」
「え…」
 背中の女が、うろたえているのがわかる。
 ちらりと見ると、目の前の光景を映すことのできないスミレ色の瞳が、戸惑いに揺れている。
 今は亡き夫と、昔ここで黄金の絨毯のような花畑を見たのだろう。
 その美しい思い出が、この女の閉ざされた瞼に鮮明に焼きついている。
 それなのに、現実の光景は…
「…まだ、咲いてねえ。卑汚の風とかいうもんのせいだろ。」
「まあ、ここにも影響が…」
 女が背中から下りたそうだったので、静かに下ろしてやる。
 しかし抉れた大地に足をとられないように、花の蕾が足元にあるから動くな、と言ってやった。
 女はその場に佇み、かつて黄金の絨毯が広がっていたらしい大地を見えぬ目で見つめていた。
 そのスミレ色の瞳は、なんとも悲しい。
 それは自分の知っているスミレ色の瞳が時折見せる表情にあまりによく似ていて、思わず目を奪われる。
「…いつ、咲くかしら。」
 ぽつりと呟いた女は、もしかしたら思い出の光景が失われてしまったことに気づいているかもしれない。
 それほど寂しげな声だった。
「…あの化け物どもが消えれば、咲くかもしれねえな。」
 深く傷ついた大地に、再び花が咲く日が来るのだろうか。気休めでしかない嘘でも、言わずにはいられない。
「…そうね…そのためにあの子たちはがんばっているんですものね…」
「…なに…?」
 女の呟きに、思わず聞き返そうとしたときだった。
「お母様!」
 その場にはいない第三者の、しかし聞き慣れた声が響いた。
 振り返ると、地平の彼方に沈もうとしている夕日を受けて、炎のようにきらめく赤い髪を持つ女が走ってくるではないか。
 自分がよく知っている、宝石のようなスミレ色の瞳を持つ女、ネルだ。
 そのスミレ色の瞳と、真紅の瞳が同時に驚きに見張られる。
「えっ?なんであんたが…」
「て、てめえ…」
 確かに今、お母様、と聞こえたのは…
 驚きで固まっている二人の間に、呑気な声が割り込んだ。
「あら、ネルなの?どうしたの、こんなところに。」
 その声に、我に返る。
「なっ、ちょ、ちょっと待て!てめえの娘ってのは…!」
「ええ、僭越ながらクリムゾンブレイドを勤めさせていただいております、ネル・ゼルファーですわ。」
 頭を巨大な金槌で思い切り殴られた気がした。
 あまりのことに声も出ない。
 そんなアルベルをよそに、ネルは不審な顔をこちらに向けながらも、母親のところに駆け寄ってくる。
「探しましたよ、お母様!なんでこいつとこんなところに…!」
「あらあら、この方はお知り合いだったの?」
「え…」
 ネルは、アルベルが名乗っていないことも、名乗らなかった理由もすぐに察したようだった。
「ああ、うん、そうなんだけど…」
「まあ、そうとは知らずにごめんなさいね。リーゼル・ゼルファーと申します。娘がお世話になっております。」
 にこやかに挨拶をされ、アルベルは慌ててネルの腕を引っ張った。
「こ、この女、てめえの母親か!?」
「そうだよ。でもなんであんたがお母様と一緒にいるのさ!」
「成り行きで拾ったら、ここまで連れて来させられたんだ!」
「あんた、私の部屋で寝てたんじゃないのかい!?人の母親拉致ってどうする気だったのさ!」
「…ちょっと外に出たかったんだよ!そりゃ目の色が似てるとは思ったが、それだけでまさかてめえの親だなんて思うかよ!全然似てねえし!」
「私は父親似なんだよ!」
「つーかてめえ、近いうちに結婚すんのか?」
「はあ!?」
 小声ながらもすさまじい勢いで言い合っている二人を、リーゼルは見えない目できょろきょろと見交わしながら、
「…もしかしてあなた、歪のアルベルさん?」
「……」
「…そうです。」
 黙ったままの本人に替わって答えたのは、ネルだった。
「まあ、やっぱり!」
 嬉しそうに手を叩く。
「な、なんでわかったんです?」
「うふふふふ♪」
 やたら嬉しそうに笑ったまま、リーゼルは答えない。
 ネルは小さく溜息を漏らし、
「それにしても、なんだってこんな何もな…」
 言いかけたネルの口が、大きな手で塞がれる。
 何故そんなことをされるのかわからずにもがくネルを押さえたまま、
「まだ花が咲いてねえなら、ここにいる必要はねえだろ?娘が迎えに来たんだから、帰るぞ。」
 言いながら目配せすると、ネルは何か察したのか、小さく頷いた。
「そうですね…わざわざ連れてくてくださったのに、ごめんなさいね。」
 リーゼルは寂しげに微笑んだ。


 夜も更けてようやくシランドのゼルファー邸にたどり着くと、ネルは柔らかいガラスのような小さな容器を取り出した。
「お母様、友人からもらった目の薬です。これを使えばすぐに治るそうですよ。」
 ネルが言うには、母親がずっと目を患っていたのは知っていたが、完全に視力を失ってしまったことは、今回帰ってきて初めて知ったのだそうだ。
 この世界の医学では治せないと言われ、それならばと文明の進んだ世界の人間であるマリアに相談すると、本当はなんとかいう条例に引っかかるのだけれど、あなたのお母さんだから特別よ、と言って彼女の星の船から薬をとってきてくれたのだそうだ。
 それで今朝はやたらとうろたえていたわけだ。母親の目が見えなくなってしまっていたのだから、当然だろう。
 しかも薬を手に入れて屋敷に戻ってきてみれば、母親がいない。
 どこに行ったか誰も知らず、どこにもいない。
 血相変えて必死に探しつづけ、ようやく樵から情報を手に入れて向かってみれば、思いも寄らぬ男と一緒にいたというわけだ。
「この目薬を、一日三回さしてください。そうすれば、一週間もしないうちに治るそうです。」
「ありがとう、ネル。」
 大事そうに薬を押し頂く。
 そしてここまで背負ってきてくれた男の気配を探すように見回しながら、
「アルベルさんもありがとうございます。夫が見せてくれた花畑はなくなってしまいましたけれど、念願は叶いそうですわ。」
「…やっぱり気づいてたのか。」
「はい。あの場所には、まったく命が感じられませんでしたから。でも、嬉しかったわ。」
 声がする方向で相手の位置を把握したリーゼルが、部屋の片隅で壁に寄りかかったまま席にもつこうとしないアルベルに笑顔を向けてくる。
「漆黒騎士団の団長は恐ろしい方だと噂されていましたけれど、お優しいのですね。ますます楽しみになってきましたわ。」
「…なにが?」
 不審そうに聞いたのは、ネルだった。
 それに対してリーゼルはころころと笑い、
「え?だってあなた、アルベルさんのお嫁さんになるんでしょう?」
 ネルが椅子から転げ落ち、アルベルも寄りかかっていた壁からずり落ちた。
「だっ、だ、誰がそんなことをっ!?」
「えーと、クレアちゃんでしょ?あとタイネーブちゃんとかファリンちゃんとかアストールくんとかエレナさんとか…あ、あとあなたのお友達だっていうフェイトくんとかソフィアちゃんとか…」
「あ、あいつら〜…!」
 床に突っ伏したまま、ネルの肩がわなわなと奮えている。その顔は怒りか恥ずかしさからか、全身の血が集まったかのように真っ赤になっている。
 それにしてもあの連中は、紹介してもいないのにいつの間に人の実家に上がりこんでいたのか。油断も隙もあったものではない。
 そんなネルの姿など見えないリーゼルは満面の笑顔のまま、
「こんな乱暴な子ですけれど、よろしくお願いしますね。」
「だから違うって…!」
「で、今夜は遅いから泊まっていくでしょ?アルベルさんもぜひ泊まっていらしてくださいな。ネルの部屋でよければ。」
「なっ、ちょ、ちょっとお母様っ!!」
「だってあなた、お城では一緒の部屋にいるんでしょ?」
「そ、そんなことあるわけ…!」
「さっき自分で言ってたじゃない。」
「…っ!」
 リーゼル・ゼルファー恐るべし。
 アルベルはずり落ちたまま、同じ色の瞳を持つ母娘の噛み合わない会話を呆気にとられて聞いていることしかできなかった。
 なるほど、こいつの実家にはこんな母親がいたわけだ。
 これは手強い。
 それよりも…
 近々結婚する娘、というのがネルであるとわかった瞬間、声には出さずとも激しく動揺した自分がいて、またそう思い込んでいる相手が自分だったとわかったときにほっとしている自分がいたことに、苦笑するしかなかった。
「私、アルベルさんのお顔知らないのよね。ハンサムさんだって伺ってるけど、早く旦那さんになってくださる方を見てみたいわ。」
「だから…!」
「ねえネル、見えないからさすの手伝ってくれる?でもよかったわ、これであなたの花嫁姿が見られるのね。」
「お、お母様…!」
「もしあなた似の男の子とか生まれたら、やっぱりネーベルさんそっくりになるのかしら♪楽しみだわ〜!」
「人の話を…!!」
 先代クリムゾンブレイドの妻にして現クリムゾンブレイドの母は、手強すぎた。
 静寂に包まれた深夜のシランドの街の中、ゼルファー邸の明かりだけが朝まで消えることはなかった。


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