独り占め



 自分を包み込んでいた温もりがするりと離れた感覚に、ネルは目を覚ました。
 薄く目を開けてみると、金と暗褐色の混じりあった長い髪がベッドから滑り落ちていくのが見えた。
 分厚いカーテンの隙間からは、ほとんど光は入っていない。まだ陽も昇っていないのだろう。
 アルベルがこんな朝早くに目を覚ますとは珍しい。
 と、眠っているか確かめるように、大きな手がネルの髪をさらりと撫でたので、思わず寝たふりをした。
 特に深い意味はなく寝たふりをしながら様子を伺っていると、アルベルは緩慢な動作でひとつ伸びをしてから、傍らの椅子に放り投げてあった服を着て愛用のクリムゾンヘイトを手にした。
 そしてもう一度ネルの顔を見ると、極力音を立てないように部屋を出て行った。
 かすかな足音が、遠ざかっていく。
「……」
 ネルは起き上がり、自分も手早く服を着た。
 はじめは、喉でも渇いたのかと思った。
 それならばテーブルに水差しが置いてあるのだから、それを飲めばよい。
 それにわざわざ服を着て、さらに刀まで持って部屋を出て行った。
 戦いたくなって外に出たのか?
 それならば、部屋に軽鎧とガントレットが置きっぱなしになっているのは、解せない。
 ネルもまた他の部屋の仲間たちを起こさないように、そっと音を忍ばせて外へ出た。


 アルベルは、すぐに見つかった。
 冷たい夜露に濡れた草に覆われた、宿の裏手にいた。
 こちら側には建物はなく、さして高くない塀の向こうには川へと落ちる谷がある。そして彼方には暗い稜線が望めるのみだ。裏庭とも言えるこの場所には物置が一つあるだけで、宿の人間くらいしか訪れることはないだろう。
 こんな場所に、何の用があるのか。
 まだ暗い中、ネルは気配を殺して物陰に潜む。
 隠れなくてはならない理由などひとつもないのだが、何故か堂々と出て行けない。
 …だってあいつがこそこそしてるからじゃないか。
 覗き見ていることへの後ろめたさからか、自分で自分に言い訳をしてみる。
 ネルを起こさなかったのは、こんな早朝だからという気遣いなのかもしれないが、どうにも気にかかる。
 今自分に最も近しいところにいる男が抱える秘密が何なのか、知りたかったのかもしれない。
 息を潜めたネルが見守る中、アルベルは姿勢を正して刀を抜き、青眼に構えて呼吸を整えると、おもむろにふりかぶり、虚空を斬った。
 ぴたりと止めた切っ先をまた振りかぶり、鋭く振り下ろす。
 その動きを繰り返すアルベルを、ネルは呆気にとられて見つめていた。
 …素振り?
 どう見ても、素振り以外の何ものでもない。
 黙々と素振りを続けるアルベルの後ろ姿を、意外な思いで見つめる。
 普通なら、「珍しく早くに目が覚めたから、素振りでもしに来たのか」で済むのだが、アルベルが素振りどころかまともな剣の修行をしている姿をネルは見たことがなかったのだ。
 あれだけの実力が鍛練なしで身につくはずがないとわかっていながら、何故かあの男の修行の現場は想像がつかなかった。
 ネルは改めて、肩越しに覗くアルベルの横顔を見つめた。
 いつもはきっちり布で巻き締めている長い髪も、今は後ろで無造作に束ねただけだ。
 剣を振るごとにその髪が揺れ、汗をかいた顔にも髪が張りついている。
 アルベルはただ敵を斬って快感を覚えているわけではない。
 そこに至るには、血の滲むような修行を重ねてきたはずだ。
 強くなるために、父を超えるために、幼い頃から毎日欠かさずに。
 しかしそのひねくれ根性からか、努力する姿は決して人には見せずに…。
 …ばかだねえ。
 苦笑しながらも、ネルはその場から立ち去ろうとしなかった。
 目が、離せない。
 肩越しに見える真摯な眼差しに、吸い込まれる。
 まるで金縛りに遭い、そのまま足が地面に根付いてしまったかのように、動けない。
 …あいつが何をしているかわかったんだから、もう戻ろう…
 そんなことも思ったが、いつの間にか、動きたいという想いは消えていた。

 何千回振っただろうか。
 アルベルが刀を鞘に収めた音で、ネルは我に返った。
 いつの間にか空は白んで、夜気は去りつつあった。
 それほどまでに長い時間が経っていたことにも、気づかなかった。
 ネルは思わず熱くなった頬を押さえた。
 何をやっているのだ、自分は。
 あいつに目を奪われて、時が経つのも忘れてしまうなんて。
 恥ずかしさとともに、何故か敗北感までがネルの中に湧き上がってくる。
 いつになく早まっている心臓の鼓動までがネルの意思に反しているようで忌々しい。
 それでも…
 もう一度、アルベルへ視線を走らせた。
 ネルの葛藤など知る由もないアルベルは、額の汗を拭っていた。
 アルベルが戻ってくるまでに、ここを立ち去らねば。
 別に見つかっても問題はないはずだが、今の自分を見られたくない。
 頬が熱い。
 心臓の鼓動がうるさい。
 そんな自分がどんな顔をしているかわからなかったからだ。
 しかしそんな杞憂も虚しく、アルベルはまだ戻ってこようとしなかった。
 今度は何をするのだろうか。
 そっと見つめるネルの視線の先で、アルベルは、す、とその場に座した。
 目を閉じて膝に右手を乗せ、左手は刀に添え、居ずまいを正して一本の針金が通ったような背中からは、緊張感がみなぎっている。
 稜線から薄絹を広げたように差し込んでくる白い光を浴びながらじっと座す姿は、その空間だけ時が止まってしまったかのように静かだ。
 常に相手を焼き尽そうとでもするかのような闘気を放つ男が湛える、深い静寂。
 これほど不釣合いなものはないはずなのに、これほど似つかわしいものはないとも思える。
 思わずネルも息を殺して見守っていた。
 周りの世界では夜の闇を朝の光が席巻し、鶏の時の声を皮切りに、小鳥がさえずり、生き物たちが活動を始めている。
 そんな音はアルベルの周囲では遮断されてしまているかのように、静かだ。
 じっと集中し、何にも乱されることはない。
 己を焼いた炎でもって周囲をも焼き尽くそうとするかのようなアルベルと、何者をも寄せ付けぬ透徹した静寂の中のアルベル。
 戸惑いながらも、ネルは高鳴る胸を押さえていた。
 アルベルが人に隠れて修行をしている姿を見ただけで、どうしてここまで心乱されるのか。
 かつては敵国の人間で、顔をあわせるようになったのはつい最近の話だが。それでも仲間として行動するようになってから年中顔を合わせ、さらに二人の関係がある線を越えたときからは朝から晩までどころか晩から朝まででも顔を合わせるようになったのに。
 何故今更、この男に目を奪われてしまったのか。
 ソフィアあたりに理由を聞けば、きっと簡単に答えが返ってくる気がするが、それだけは聞きたくない。いや、認めたくない。
 何故と言われても、困るのだけれど。
 …大体、なんだってあんたが修行してるだけで私がこんな思いをしなくちゃならないのさ。
 忌々しくて、八つ当たりとしか思えない感情がこみ上げてくるが、ネルの足はそこから動かない。
 今動いて、万が一音を立ててしまっては。
 自分の立てる物音で、あいつの静寂を乱したくない。
 隠密として、どんなところでも足音を殺して動く術は身につけているのに、その自信すら打ち砕かれてしまっている。
 ネルはただ、その場に佇んでいることしかできなかった。
 アルベルは、眩い朝の陽光をその身に浴びながら、動かない。
 しかも相変わらず集中は途切れていない。
 静かに座すアルベルの傍らに立つ木の、薄黄色に色づき始めた葉がわずかに揺れた。
 夜露が、重みに耐えかねて葉の先端へと伝っていく。
 そして玉となった露がこぼれた瞬間、ネルは息を呑んだ。
 今まで岩のように微動だにしなかったアルベルの腰間から、光が迸ったかに見えた。
 閃光となって大気を切り裂いた刃が、正面でぴたりと止まる。
「…!」
 ネルは背筋がぞくりとするのを感じた。
 ぴたりと据えられた刃の先端に、葉から零れ落ちた露が朝の光を受けて真珠のような輝きを放っていた。


 あの瞬間、稜線から差し込む眩い朝の光が斬られたような錯覚を覚えた。
 アルベルの強さは、敵としても味方としても、いやというほど知っている。
 いや、知っていたつもりだった。
 初めてあいつに会ったときよりも、確かに強くなっているとは思っていた。
 それがよもや、ここまで腕を上げているとは。
 日々の激しい戦闘と、怠らぬ努力によってもたらされた、さらなる進化。
 もしアルベルが未だ敵で、今の業を見せつけられたとしたら。
 きっと、愕然としたはずだ。
 あの頃でさえ、恐ろしい敵だと感じていたのに。
 しかし、今は味方だ。恐れる理由など何もない。
 それでも戦慄を覚えるのは、ネルが同じ戦いの中に生きる者だからか。
 いや、ネルの中にあるものは、恐怖が総てではなかった。
 恐怖より何より、ネルの心を捕えたものは…
「…おい。」
 低く愛想のない声に、思わず肩が跳ねる。
 はっとして顔を上げると、アルベルがこちらを見ていた。
 その顔は、どことなくばつが悪そうで、いたずらを見咎められた少年のようでもあって。
 これがつい先程、恐ろしいほどの気迫で陽光を一刀の元に斬ってみせた男と同一人物だとは。
「…いつからいやがった。」
 刀を拭い、鞘に収めながらぼそりと言う。
 ネルも観念して姿を現し、小さな声で答えた。
「…最初から。」
 向こうを向いたまま、小さく舌打ちしたのが聞こえた。
 なんということか、ネルはいつの間にか気配を殺すことなく立ち尽くし、時が経つのも忘れてアルベルの一挙手一投足に見入ってしまっていたのである。
 それも頬に熱を感じ、心臓が暴れてしまうような状態で。
「…ったく、暇な女だな。」
 おもしろくなさそうに言い捨て、いつにも増して大股で戻ってくる。
「仕方ないじゃないか。あんたが珍しく早起きするから気になってさ…」
 なるべくネルの顔を見ないようにして宿の中へと歩いていくアルベルに少し遅れて歩きながら、まだネルも顔を上げられないでいる。
 しかし下を向いたその顔は、ふんわりと微笑んでいた。
 扉の前に来たところでぴたりと足を止めたアルベルは肩越しに、
「…言うなよ。」
 きっとそう言うであろうと確信していた台詞だった。
 この天邪鬼の意地っ張り男は、自分の努力を死んでも人に見られたくないタイプなのだ。
 それを偶然とはいえ見てしまったことは、アルベルにとっては迷惑でも、こちらにとっては幸運だったかもしれない。
「わかったよ…でも…私ももう見ちゃだめかい?」
「今度からは何があろうと絶対起きられなくなるまでやってやるから、おとなしく寝てやがれ。」
 その意味を理解して蹴飛ばそうとしたときには、アルベルは宿の中へと踏み込んでいた。
 足早に部屋へと戻っていく背中を見送り、
「あの変態男っ…!」
 虚空を蹴飛ばして悪態をつくネルは大きく溜息を吐いたが、またその口元に柔らかな微笑を閃かせた。
「…言われなくても、絶対誰にも言わないよ。」
 誰にも見せたくない。
 …あんたのあの姿は、私だけが独り占めするんだから。
 時が経つのも忘れて見惚れたあの姿を。


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