束の間の夢



 記憶に残っているのは、悲鳴にも似た叫びと、周囲の闇を払うかのような眩い閃光だった。



 ぺちぺち、ぺちぺちと、しつこく頬を叩かれ続けている。
 ああもう、うっとうしい。もうちょい寝かせろよ。
 不貞腐れたように寝返りを打つ。そうすると、大抵は怒鳴られるかどつかれるかだが、気にしない。それよりも眠いのだ。
 が、頬を叩く感触は、まだ続いている。
 それも妙に優しいというか、弱い叩き方だ。
 おかしい。あいつじゃないのか?
 訝りながらも目を開けないでいると、耳元で、
「いいかげんに起きな!!」
 という聞きなれた怒声ではなく、
「ねえ、おきてよおにいちゃん。」
 舌っ足らずの小さなか細い声だった。
 ……。
 なんとなくそれを聞き流したが、はっと我に返る。
 今のはどう聞いても、幼い子供の声だった。それも聞き覚えがあるようでないような。
「…?」
 弾かれるように起き上がると、その声の主は驚いたのか、きゃっと小さな悲鳴を上げた。
 すぐ側で転びそうになったのは、年端もいかぬ幼い少女だった。
 その幼女を見て思わず息を飲んだのは、澄んだスミレ色の大きな瞳のせいだった。
 かわいらしい刺繍で縁取られた白のケープを着てフードを頭からかぶった幼女は、ほっとしたようにあどけない笑顔を浮かべる。
「びっくりした…ぜんぜんおきないから、しんじゃってるのかとおもった。」
 似ている。
 幼女は自分を呆然と見つめる男を眺めて、
「そんなかっこでねんねしてると、かぜひいちゃうよ?」
 腹と太腿が覗く衣装が珍しいのか、遠慮がちに見ている。
 言われてみれば、ここは肌寒い。
 幼女の顔に気をとられて周囲を見る余裕がなかったが、自分が今いるのは寝室ではなく、見たこともない森の中だった。
 どこだここは。
 何故自分はこんなところで寝ているのか。そういえば、さっきまでどうしていたのか。
 思い出そうとする視界の隅で、幼女が小さな手でフードの端を持ち、後ろへ落とした。
 はっとして振り返った視線の先にこぼれたのは、真っ赤な髪。
 長さこそ肩の辺りまであるが、それはよく見知っているあの髪の色だ。
「おい…」
「なあに?」
 ちょこんと小首を傾げて上目遣いに見上げる仕草までそっくりだ。
「てめえ、ネルとかいうんじゃねえだろな。」
 あまりに似ているので、つい聞いてみただけだった。
 しかし幼女は予想に反して、驚いたようにスミレ色の両目を見開き、
「え、そうよ?おにいちゃん、ネルのことしってるの!?」
「…は?」
 自分で言っておいて驚いた。
 なんとこの幼女は外見が似ているだけでなく、名前も同じだというではないか。
 わけがわからない。
 呆気にとられていると、ネルと名乗る幼女の顔が突然くしゃくしゃと歪み、その大きな瞳からぽろぽろと大粒の涙が溢れ出した。
 あっという間に泣き出した幼女を前にして、どうすればいいかわからない。いつもなら怒鳴るか無視するかなのだが、何故かそうすることもできず、
「おい…こら、いきなり泣くな…」
 我ながら情けないほどにうろたえながらも、改めて周囲の様子を見てみる。
 深い森の中には道もなく、日の光さえ遮られて薄暗い。
 このような場所に、普通は幼い子供がいるわけがない。
 ぺたんと座り込んで泣きじゃくる小さなネルに、ふと思いついたことを言ってみた。
「てめえ…迷子にでもなったか?」
 案の定、小さなネルは頷いた。
 泣きじゃくる幼女を前に途方に暮れていると、森の奥のどこからか、獣の低い鳴き声が聞こえた。
 その声に、小さなネルがびくりと肩を震わせる。
 知っているものとそっくりな瞳に涙を溜めたまま、怯えた顔で森の中を見回す。
「……」
 なんとなく、その赤い髪にぽんと手を置いた。
 一瞬ぎくりとしたものの、それがこの男の手だと知って、わずかに安堵の表情を浮かべる。
 仕方ない。
 この幼女が何者であろうと、こんなチビを森の中に放置しておくわけにもいかない。
「てめえ、家はどっちだ。」
「…わかんない。」
 迷子を相手に、家のある方向を聞いても無駄だった。
「まさか、シランドから来たんじゃねえだろうな。」
「うん、おにいちゃん、ネルのおうちも知ってるの?」
「……」
 まさか、この幼女は本当にあの女本人だろうか。いや、どう見てもこの幼女は三、四歳だ。それはありえない。
 相手が自分の家も知っているとわかってほっとしたのか、小さなネルは涙で強張った頬に、ぎこちない笑みを浮かべた。
 連れて行くとしても、さてどこへ進んだものか。
 はっきりいって、自分も全くわからない。道さえあればなんとかなるだろうが、本当に何もない森の中なのだ。それでも所詮は子供の足なのだから、それほど奥へ分け入ってはいまい。
 幾重にも折り重なる枝の隙間から見える太陽を伺い、とりあえずまだ明るそうな方へ歩いてみようと思った。
 歩き出すと、刀の鞘の先端に掴まって一所懸命ついてくる。コンパスが違いすぎる上に、道もない森の中は足場が悪い。これはかなり歩調を弛めないと、ついてこられそうにない。
 と、数歩も行かないうちに、
「きゃんっ!」
 子犬のような情けない悲鳴を上げて、小さなネルが転んでしまった。
「……」
 見事に顔面からコケた幼女はよたよたと起き上がると、その顔と膝に血を滲ませていた。そしてまたもや、涙がこぼれそうになる。
「うっ…ひくっ…」
「泣くなよ。俺が知ってるてめえなら、これくらいじゃ泣かねえぞ。」
 屈みこんで、ヒーリングをかけてやる。
 すると見る見る傷が治り、小さなネルは驚いた顔をした。
「すごい!おにいちゃん、せじゅちゅつかえるんだね!」
 舌が回っていないが、「施術」と言いたいらしかった。自分が使えるのは、スキルブックで覚えた略式のものなのだが。
 眼を輝かせる小さなネルの、スカートについた汚れを手で払ってやる。そしてその小さな体をひょいと担ぎ上げ、肩に乗せた。
「わー!たかーい!おとうさまのおかたみたい!」
 お父様…まさかネーベル・ゼルファーか?もしそうだとしたら、決定的だ。
「暴れると落ちるぞ。」
 右肩に小さなネルの軽い体を乗せ、左腕のガントレットで邪魔な枝を払いながら進む。チビと一緒に歩くよりは、この方がはるかに早い。
 小さなネルは落ちないように、暗褐色と金の髪にしっかりと掴まっている。
「ところでチビ、てめえはなんでこんなところに迷い込んだんだ?」
 また泣かれるだろうか。そんな不安が過ぎったが、小さなネルはかろうじて涙をこらえて、
「あのね、ネルのおとうさまね、いつもおしごとでとおくにおでかけしちゃうの。それに、すっごくあぶないおしごとなんだって。」
 …やはり、ネーベルのことだろうか。同じ隠密でありかつてのクリムゾンブレイドなら、任務でろくに家にいないだろうし、常に危険がついてまわる仕事だ。
「それでね、ネルしんぱいで、おとうさまについてこうとおもって…」
「で、一人でこんなとこまで歩いてきたのか?」
「ううん、とちゅうでばしゃをみつけてね、うしろにこっそりのってきたの。そしたら…」
 どこに来たのかわからなくなってしまい、どこにいるかわからない父親を探して彷徨い歩いていたというのだ。
 馬車に乗ってきたというのが始末に悪い。下手をするとかなり遠くまで来てしまったかもしれないのだ。
 この幼女が迷子なら、こちらも迷子だ。
 まだ抜けることもできないうちに、森はあっという間に暗くなってきた。
 と、かすかな水音が聞こえてきた。その音を辿ってみると、小さなせせらぎを見つけた。
 とりあえず、この水の流れに沿って歩いてみるか。山ではないから、滝にぶつかることもあるまい。
 そう思って歩き出して間もなく、右肩に担いだ小さなネルの小さなお腹から、ぐう、とかわいらしい音が聞こえた。
 担がれた小さなネルが、恥ずかしそうに慌ててお腹を押さえる。
「腹減ったか?」
「…うん。おうちでてから、なんにもたべてないの…」
 刀とともに腰に下げた袋を探るが、食べ物の代わりになりそうなものは何もない。
「ちっ、仕方ねえな…。」
 自分も腹が減っていないわけではない。
 ならば、と、はるか樹上を見上げる。
 やがて入り組んだ枝の合間にそれを見つけると、小さなネルを地面におろし、
「頭抱えてろ。」
 言うと、力任せに木を蹴った。
 ものすごい音がして太い幹が揺れ、上から小枝や葉がばらばらと落ちてきた。それとともに、鳥の巣が落ちてくる。
 頭にかぶれそうなほどに大きな巣が目の前に落ちてきて、小さなネルが、わあ、と小さく声を上げる。中に卵こそなかったが、巣を落とされた大きな鳥が怒って木を蹴った犯人に向かってきた。
 報復をしようとした勇気が災いし、鳥は抜き打ちの一閃によって首を斬り飛ばされ、どさりと落下した。
「よし、晩飯確保。」
「すごーい!」
 眼を丸くして飛び跳ねる小さなネルをまとわりつかせながら、鳥の羽を乱暴にむしり、木の枝に刺す。幸い以前ディプロからかっぱらってきた自動点火をしてくれる便利な道具があり、火を熾すのも困らない。
 小さなネルが拾い集めた枝に火をつけ、鳥を焼く。
「熱いぞ。」
 腿を裂いて渡してやると、小さなネルはふうふうと息を吹きかけながら、小さな口を精一杯あけてかじりついた。
「おいしいね。」
 にこりと微笑まれ、つい自分の口元も緩んでいることに気づいた。途端に恥ずかしくなり、慌ててごまかすように鳥を頬張った。
 小さなネルは饒舌だった。
 たった独りで森を彷徨っていたところで、ようやく人に出会えたのだ。孤独の不安から解放されたためか、一人でずっと喋りつづけている。たとえ相手が適当な相槌しか打ってくれなくても、誰かと一緒にいるというだけで安心できるらしい。
 その話を聞いているうちに、漠然としていたものが確信へと変わっていた。
 こいつは、ネルだ。
 紛れもなく、あのネル本人だ。
 二十年ほど前のネルが自分の前に現れたのか、それとも自分が二十年ほど前に現れたのか。どちらかはわからないが、そうだとしか思えなかった。
「ネルもね、おっきくなったらおんみつになって、おとうさまのおてつだいするの。」
 夢見るようにしゃべる小さなネルは、その父が若くして死んでしまうなどとは露ほども思っていない。
「だからがんばってしゅぎょうして、おんみつになるの。」
「…なれるさ。」
 本人が思っている以上に柔らかい表情でそう呟くと、小さなネルは嬉しそうに微笑んだ。

 森の奥から、それまでにない物音が響いてきた。
 腹の底に響くような、無気味な咆哮だ。
 喋っていた小さなネルが凍りつき、怯えた視線を真っ暗な森に向ける。
 ただの獣ではないと感じ取り、既に刀に手をかけていた。
「そこから動くなよ。」
 先に仕掛けようと立ち上ると、二つに結った長い髪の一本を引っ張られた。
 振り返ると、大きな瞳いっぱいに涙を浮かべて小さな肩を震わせている。
「やだ…おいてっちゃやだ…」
 不安で溢れ返ったその顔に、よく似た別の顔が重なって見える。
 今にも孤独に押しつぶされそうな小さなネルの懇願に、何故か胸の奥が揺さぶられる。
「…わーったよ。」
 だから、絶対動くんじゃねえぞ。
 念を押してから、改めて謎の気配に集中する。
 気がつけば、今まで聞こえていた獣たちの息遣いが消えている。いずれもこの尋常でない気配に怯え、潜んでしまったようだ。
 闇から滲み出るように現れたのは、青白い炎が人の形を作ったような異形のものだった。
「ふん、死霊のご一行様か。」
 大きな死霊と見られる魔物を先頭に、後ろからぞろぞろと青く燃える炎がついてくる。
 焚き火の側で怯えたように蹲っている小さなネルを振り返る。
 怯えるな。
 おまえは俺が絶対に守ってやる。
 鋭い踏み込みとともに、腰間から閃光がほとばしった。

 先程までは火を挟んで向かい側に座っていた小さなネルが、今はすぐ隣にきていた。
「おにいちゃんすごいね!つよいんだね!」
 さっきからずっと繰り返している。
 攻め寄せる死霊の群れを一蹴すると、怯えていた幼女の眼は驚きと憧憬で輝いていた。
「きっとおとうさまのつぎにつよいのね!」
「おまえの親父のが強えのかよ。」
「うん、おとうさまはせかいいちつよいの。だからおにいちゃんは、そのつぎ。」
 最強の称号を欲して止まない男だが、小さなネルの無邪気な評価には反発する気も起きない。
 きゃっきゃとはしゃいでいた小さなネルが、ひとつ欠伸をした。
「もう寝ろ。」
「うん…」
 頷きながらも、小さな手で服の裾を掴み締めてくる。
「大丈夫だ、どこにも行かねえよ。」
 そう言って胡座をかいた膝の上に横たわらせた。
「さっさと寝ろよ。明日は朝から親父探しに行くからな。」
「…きっとあえるよね?」
「ああ。だから、とっとと寝ろ。」
「うん…おやすみなさい。」
 小さなネルは素直に目を閉じた。
 よほど疲れていたのだろう。あっという間に寝息をたてはじめた小さなネルの柔らかな赤い髪をそっと撫でる。
 子供らしい丸い頬に影を落とす長い睫毛を見つめていると、自分が知っているこの女の姿が重なる。
 丸い頬はもう少しシャープになって年齢にふさわしい艶やかさが加わっているが、面影はしっかりと残っている。
 こうやって無防備な顔で寝るのは、ガキの頃から変わっていないということだ。
 はっきり言って、ガキは嫌いだ。いくら知っている女の子供の頃の姿だとしても、ガキにこれほど嫌悪感を抱かないのは我ながら不思議だ。
 嫌悪感を抱かないどころか、むしろ…。
 柄にもない感慨に苦笑して、黒々と重なる木々を見上げる。
 自分は一体、どうしてこんなところにいるのだろうか。
 確か、皆で修行がてらエクスキューショナーどもを倒していたはずだ。
 その途中で…
 …ん?
 思い出せない。
 もう一度、順を追って思い出そうとしてみる。
 こことは違って木などほとんど見当たらないごつごつとした岩山にいたはずだ。
 そこでいつものように、胸糞悪い異形のあの連中を叩き斬っていて…
 突然脳裏にあの女の顔が閃いた。
 驚いたように目を見開いた、必死の形相…そしてその唇からほとばしったのは、悲鳴にも似た叫び声で…
「…っ?」
 膝の上で小さな体がびくりと跳ね、我に返った。
 見下ろすと、小さなネルが眠っていた。
 しかしその小さな拳が握り締められ、小さく震えている。そして花弁のように可憐な小さな唇がわななき、
「……おとう…ま」
 閉じたままの睫毛の間から、涙が一筋零れ落ちた。
 小さな体から、孤独と不安と恐怖がひしひしと伝わってくる。
 それはそうだろう。
 父を追ってきたもののこのような鬱蒼とした森に迷い込み、見も知らぬ男にすがるしかない状況に追い込まれているのだ。
 今でこそ実力もつけて生意気放題に強がっているが、まだ足元もおぼつかない幼児ではどうしようもあるまい。
 柔らかな頬に伝い落ちる涙を指先でそっと拭う。
 指先についた涙は、見たこともないほど清らかで、宝石よりも美しく思えた。それがこの幼女の、いや、この女の本当の姿を物語っているかのようで、指先から雫が落ちてしまうまで心奪われたようにずっと眺めていた。
 明日は絶対、ネーベル・ゼルファーを見つけてやろう。
 自分のことなどは、そのあとでいい。
 こいつがもう泣かずにすむように。
 俺は、おまえの涙なんて見たくない。

 小さなせせらぎに沿って歩くうちに、少し大きな流れにたどり着いた。その川伝いに進むと深かった森が徐々に開け、やっと開けた場所に出た。
 ようやく太陽の光を全身で浴びた小さなネルが、肩の上で喜びの声を上げる。
 見渡せば青々とした草原が広がり、はるか彼方に雪を頂いた山脈が霞んで見える。
 どことなく、見覚えがあるような気がする。昔、仕事の途中でこんな景色を見た覚えがある。
 その記憶が正しければ、北に町があるはずだ。
 幸い、おぼろげなその記憶は正しかった。
 間もなく小さな町にたどり着き、垣根のような粗末な門をくぐる。
「さて、とりあえずおまえの親父の情報でも探すか。」
 シランドの自宅へ送り返す方が簡単なのだが、父親を探してやると約束したのだ。
 隠密がそうそうわかりやすく歩き回っているとは思えないが、同じ真っ赤な髪だったと聞いている。すれ違う人々に、
「こいつとそっくりな男を見なかったか?」
 肩にちょこんと座る小さなネルを示しながら、手がかりを求めて聞いてまわる。
 小さな町なので、間もなく全員に声をかけ終わろうという頃、こちらに駆け寄ってくる女があった。
 普通の町人の姿をしているが、その身のこなしに直感的に素人ではないと感じる。もしかして…。
 その女はどこかしら慌てた様子で胡散臭い出で立ちの男を眺めていたが、その肩に座っている小さなネルを見て、あっと声を上げる。
「あ、お、お嬢様!?」
 やはり。
「おまえ、シーハーツの隠密か?」
 その言葉に女は警戒の表情を閃かせたが、小さなネルが男の暗褐色と金の髪をすがるようにしっかりと握り締めているのを見て、声を潜め、
「昨夜のうちに、御屋敷からネルお嬢様の姿が見えなくなったと連絡が参りまして、ずっとお探し申しておりました。」
「ネーベル・ゼルファーはここにいるのか?」
「こちらへ…」
 促され、町の隅にある一軒の家へと向かう。
 その家の扉が開けられたところで、肩から小さな体を下ろす。
「あそこに親父がいるらしいぞ。」
「ほんと!?」
 スミレ色の瞳を輝かせる。会話がしやすいように屈みこんだ自分に、何か言いたそうにしている小さなネルの背中を押し、
「行けよ。」
「うん…あ!」
 家の中から出てきた男の姿に、小さなネルが声を上げる。
「おとうさまー!」
「ネル!?」
 聞いていたとおりあの女とよく似た、むしろもう少し柔和な表情の真っ赤な髪の男が驚いた顔で、駆け寄ってくる小さな娘を出迎える。
 飛びついた娘を抱き上げ、優しく頬を摺り寄せる。
「報せを聞いて、ずっと心配していたんだぞ。」
「ごめんなさい…でもね、とちゅうであのおにいちゃんがたすけて…」
 神妙に謝ってから、小さなネルが振り返って指をさす。
 が、そこには誰もいなかった。
「あれ…?」
 慌てて見回すが、小さなネルが探す男の姿はどこにもなかった。
「そのお兄ちゃんの名前は?」
「あ…」
 そういえば、聞いていなかった。
「困った子だね。助けてもらった恩人の名前を聞かないなんて。」
「こんどあったら、ちゃんとありがとうっていうから。」
「知ってる人だったのかい?」
「ううん、しらないひと。でも、きっとまたあえるから。」
「そうか。そうだといいね。」
 隠密たちの誰にも気づかれずに姿を消した男は、父親に抱かれて嬉しそうに笑う小さなネルを、ずっと離れた屋根の上から見ていた。
 そしてほろ苦い笑みを浮かべ、
「…柄にもねえことしちまったな。」
 でも、
 …よかったな、ネル。
 口の中でそう呟き、静かに立ち去った。
 ちびネルのことは解決したので、今度は自分の番だ。
 さて、一体どうしてこんなことになったのか。
 思い出せるのは、こちらを振り返ったあの女が、驚いたように叫び声を上げたことだ。
 なんと叫んだのだったか。
 歩きながら、丁寧に記憶を探っていく。
 おぼろげに霞む記憶の中で、あの女のあの瞬間の表情だけが鮮明に思い出せる。
 スミレ色の瞳を見開き、叫んだのは…
「危ない…!!」
 その叫びが脳裏に閃いた瞬間、突然体が支えを失った。
 足場を失い、体が宙に浮く。
 ああ、そうか。俺は…
 その直後、眩い光が視界を覆った。



 ぱしぱし、ぱしぱしと、しつこく頬を叩かれ続けている。
 ああもう、うっとうしい。もうちょい寝かせろよ。
 不貞腐れたように寝返りを打つ。そうすると、大抵は怒鳴られるかどつかれるかだが、気にしない。それよりも眠いのだ。
 が、頬を叩く感触は、まだ続いている。
 その叩き方は、次第に強くなっていく。
「いいかげんに起きなよ、ねえ!」
 いつもの怒声と違って、懇願するような声。
「起きてよ…!!」
 泣きそうなほどに切羽詰った声に、はっとして目を開ける。
 そして真っ先に目に飛び込んだのは、不安と恐怖で溢れ返ったスミレ色の瞳だった。
 ん?あのチビはもう、親父のところへ返してやったはずだぞ?
 ぼやけた頭でそんなことを考えていたが、
「気がついたんだね…!」
 嬉しそうな耳慣れた声に、我に返った。
 そこには、自分が知っている女がいた。
 黒装束に身を固めた、最もよく知っているその姿で。
 なんとなく痛む体を起こす自分を囲むものは、どこかで見たような深い森だった。
「どうしたんだ、俺…」
 あれは、夢だったのだろうか。
 わけがわからないというように周囲を見回していると、女は心からの安堵の表情を浮かべ、
「いきなり足元の岩盤が崩れてね…あんたは谷に落ちたんだよ。それで急いで谷底を探したんだけど、どこにもいなくて…皆で手分けして探したんだ。」
 ずっと、ずっと、昨日からずっと探してたんだよ…
 小さな声でそう呟いた女の肩が、堪えかねたように震えた。
 伏せた長い睫毛の下から、零れ落ちるものがあった。
「どんなに探しても、あんたどこにもいなくて…」
 膝の上にぽたぽたと落ちるそれは、覚えのあるものだった。
 宝石よりも美しい、純粋で清らかな涙…。
 止め処なく白い頬を濡らす涙を、指先で拭う。そして短く切りそろえた真っ赤な髪を、さらりと指に絡めた。
「…やっぱり短い方が合うな。」
「…え…?」
 そのまま女の顔を引き寄せ、柔らかい唇に自分のそれを重ねた。
 すがるように胸板に添えられた手が、ぎゅっと握り締められる。
 なんだよ、おまえはまた泣いてるのか。せっかく親父を見つけてやったっていうのに。
 おまえは、幼い頃から変わっていない。
 あの純粋さは少しも損なわれていない。
 おまえの涙を見れば、わかる。
 そっと離れ、まだ唇が触れそうな距離で悪戯っぽく笑う。
 少し恥ずかしそうに視線を逸らす女に、
「よく見つけられたな。」
「探したんだよ、バカ…!まさかこんなところで寝てるなんて思わないじゃないか!」
「こんな森の中を歩き回って、またガキの頃みてえに迷子にでもなったんじゃねえか?」
「な…なんであんたが知ってるのさ!」
 驚いた顔をする。
 ほら見ろ、やっぱり夢じゃない。
「私は覚えてないけど、小さい頃迷子になったって…誰に聞いたんだい!?」
「さあな。」
 くつくつと笑われ、顔を真っ赤にしている。まるで小さな子供のように。
 あれはきっと、ほんの運命のいたずら。
 FD人に言わせれば、データとやらが一時的におかしくなったとでも言うのだろうが、自分が幼いこいつと出会ったのは、きっと偶然などではない。
 まだ両目を潤ませている女に、
「大丈夫だ、どこにも行かねえよ。」
 夜の森で、小さなこいつにかけてやったのと同じ言葉を繰り返す。
「え…」
「だからもう、泣くな。」
 おまえが笑ってる顔が見たいんだよ。
 涙に濡れたまま何故か戸惑っている女の目元に唇を寄せる。ほんのりとしょっぱい、涙の味がする。
 そうだ、もう二度と涙なんて流させない。
 他の誰にもおまえの涙を見せたくない。
 この美しい涙を知っているのは、俺だけで充分だ…。


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