このところアーリグリフ領への滞在が続いていた。今や戦争は終わったとはいえ、ついこの間まで敵だった国の土地だ。 心情的にも環境的にも、お世辞でも居心地がいいとは言えなかった土地を抜け、シーハーツ領にたどり着いたときは正直ほっとした。 しかしそれは、アーリグリフ人のあの男がいる限り、決して口に出してはいけないことだとわかっていた。自分がくつろいでいる間、今度は彼があの思いを味わう番なのだから。 怒りと、憎しみと、悲しみと。 互いにその手を血に汚したからには、決して逃れられない運命だった。 大陸内での交通の便もよく気候も温暖なペターニは常に人と物が溢れている、この地域で最も賑やかな街だ。首都はシランドなのだが、こちらは聖地を兼ねた城下街であるために街全体を荘厳で敬虔な空気が覆い、とても賑やかに商売ができる雰囲気ではない。距離的にもすぐ近いペターニが経済活動の中心地として発展したのは、ごく自然なことだった。 そんなわけで、シーハーツに入ると真っ先にペターニまでやってきて、物資の補給をする。 ネルだけはその他に、やむをえないとはいえさぼりがちだった本来の仕事を片付けたりする必要があったが、こちらはクレアたちがうまくやってくれているおかげで特に問題はなかった。 食料の買出しをするときは朝市に出かけるため、仕事よりも買出しが先になる。 いつも皆の食事を作るのはソフィアとネルが中心のため、食料の買出し係も自然とこの二人になる。 朝食の時間にもなっていない早朝に宿のロビーで待っていると、支度を終えたソフィアがぱたぱたと階段を下りてきた。 「さ、行こうか。」 早速出かけようとするネルを、というよりその周辺を見て小首をかしげたソフィアは、 「あ、そうか!ちょっと待ってくださいね。荷物持ち連れてきます。」 言うや、幼馴染を呼びながらもう一度階段を駆け上がっていく。 先程のソフィアは、何を見ていたのだろう。それに、ネルを見て「あ、そうか」と何かに気づいたような口ぶりだったのも気になる。 その答えにたどり着く前に、強引に叩き起こしてきたらしいフェイトを引きずってソフィアが下りてきた。 「ちぇ、クリフも巻き込もうと思ったら、昨日の夜飲みすぎたとかでくたばってたよ…」 「クリフはあとでもっと重いアイテム買出しに行ってもらえばいいよ。じゃ、行こ!」 勝手に役割分担しつつ、三人で買出しに出かけた。 賑やかな朝市の中、街の奥さん連中をかき分けて買い物をする。 ソフィアは新鮮な野菜を手に、目を輝かせている。 「ここの世界の野菜って、本当においしいんですよね!野菜がこんなに甘いものだって、ここに来て初めて知りました。」 「うん、僕は野菜はそんなに好きじゃないけど、ここのだとサラダとか抵抗なく食べられるかな。」 「チキュウとかいうところは、いい野菜が採れないのかい?」 「うーん、多分育て方だと思うんですよ。ここはちゃんと土で育ててますよね。」 「え…土がなくても野菜って育つのかい?」 「まあ、科学が発達すればいろんな育て方ができるんです。でも、こっちの方がおいしいですけどね。」 食料プラントでの栽培方法を説明してもネルが理解できるはずもないので、フェイトは笑顔で説明をはしょったが、ネルはそれで納得したようだった。 「うわ!かぼちゃばっかそんなに買うなよ!持てないって!」 「えー、スープにするとおいしいよ。」 「だからってそんなに買わなくたって…うわ、積むな!」 二人の他愛無い会話を背に、ネルは肉を売る屋台の前にいた。 フェイトたちの持つレイゾウコとかいう保存庫は、施術を使ったネルたちの世界の保存庫よりはるかに食料を新鮮に保たせることができるため、肉類も生のものを買い込める。もちろんいざというときのために保存加工されたものも用意するが、それはそれで別に見繕う。 さて、どうしようかね… やたらエンゲル係数の高いパーティーであるため、とにかく量を買い込めばいいのだが、一応それぞれに好みというものもある。 ネルは何の気なしに、肩越しに振り返った。 しかしネルが見上げた位置には、何もなかった。 少し視線を下げて左右に動かすと、野菜の前で騒ぐフェイトとソフィアが見える。 …あれ? 「あ、ネルさん!ソフィアがこんなにかぼちゃ買っちゃったんですよ!」 ネルの視線に気づいたフェイトが、甘えるように訴えてくる。 その声に我に返り、ネルは慌てて笑顔を作った。 「え?あ、ああ…でも、これから肉も買おうと思ってるんだけど。」 「うわ、やっぱクリフを引きずってくるんだった…」 「私も持てるだけ持つから、がんばりなよ。何か食べたいものあるかい?」 一度感じた違和感は、買い物をしている間中、拭うことができなかった。 山のような肉と野菜を、結局フェイトがほとんど一人で担いでいる。 「うぐぐぐ…や、宿はまだかあ〜!」 「ほらがんばってフェイト!男の子でしょ!」 ほんのわずかの野菜を持ったソフィアが笑顔で励まし、ネルは申し訳なさそうに一抱え分のキャベツや玉葱などを持っている。 「私ならまだもう少し持てるよ?」 「いーんですっ!何のこれしき!」 「そうよ、私たちだってちゃんと手伝ってるんだから、これくらいへっちゃらだよねー。でも、これくらいアルベルさんだったら一人で全部持ってたけどね!ねー、ネルさん!」 「え…」 不意打ちだった。 いきなりその名前が出たことも、自分に話が振られたことも、総て不意打ちだった。 思わず急停止したネルの持つ袋から、玉葱がひとつ転がり落ちた。 そんなネルをよそに、フェイトがその瞳をぎらりと光らせる。 「…ソフィア、それほんと?」 「うん。ネルさんが何をどれだけ買おうと、奪い取ってがんがん持ってっちゃったよ。」 「ふふふ…それが挑発だとわかっちゃいるが、敢えて乗ってやろうじゃないか!」 いきなり重そうに持っていた荷物を高々と担ぎ上げた上にネルが持っていた袋を強引に指先にひっかけ、ソフィアの袋を口にくわえて宿へと走り出す。 「あーあ、負けず嫌いなんだから…」 「……」 ネルは半ば呆然と足元を見つめていた。 玉葱がひとつ、転がっていた。 宿の部屋に戻ると、大きく溜息を吐いた。 部屋の都合がつく限り、できるだけ全員個室でとっているはずなのに、何故か我が物顔で人の部屋で熟睡している男がいる。 ネルが出かけたことなど知る由もないといった様子で眠る男の金と暗褐色が入り混じった髪を引っ張るが、びくともしない。 もう一度溜息を吐き、ベッドに腰を下ろす。わずかにベッドが沈むが、やはり起きる様子はない。まあ、この程度で起きるのならば苦労はないのだが。 やっと違和感の正体に気づいた。 思えばその違和感は、ペターニに来るより前、アリアスに着いたときから感じていたのかもしれない。 「そうだよ、あんたがいなかったんだ…」 振り向けば、いつもアルベルがいた。無意識のうちに見上げたあの高さに、必ず真紅の瞳があった。 それが癖になってしまうくらい、いつでもネルの側にいた。 だから買い物のときも自動的に荷物持ちになっていた。ソフィアはそれに気づいていて、「あ、そうか」と言って別の荷物持ちを調達しに行ったのだ。 思えば、その姿が消えたのはアリアスに着いたときからだったかもしれない。 アーリグリフやカルサアにいたときは、背後霊かと思うほどに、振り向けば必ずいたのに。常にその体温を、息遣いを感じられるほど側にいたのに。 シーハーツ領に入ってからは、人目のない部屋の中などでしか、ネルの側に寄ってこない。外にいるときは、ネルの側どころか目も合わせようとしない。 部屋に入った途端に抱きしめてくれるその腕がなければ、関係が変わってしまったかと思われるほどの態度の変わり方だった。 ああ、そうか… アルベルの寝顔を見下ろしながら、ネルの脳裏に雪の降りしきるアーリグリフや、冷たく乾いた風の吹くカルサアでの光景が甦る。 戦争は終わったとはいえ、その爪痕から流れる血はまだ生々しく、その傷は深かった。 アーリグリフの国民にとっては憎悪と恐怖の対象であるクリムゾン・ブレイドたるネルが堂々とアーリグリフの街を歩くには、まだまだ時が足りなかった。 道を歩けば、恨みがましい兵士の視線を感じる。愛する者を失った女の憎しみが突き刺さる。父を失ったであろう子供の泣き腫らした目に引き裂かれる。 しかしネルに向けられる憎悪は、決して形となって現れなかった。 何故ならば、ネルのすぐ後ろには、常に漆黒騎士団団長がいたから。 アーリグリフ最強と言われ、国民から敬意と恐怖の対象となっていた男が影のように寄り添っていては、誰も手が出せなかった。 そのことを非難する者がいたことには気づいていた。城の連中が眉をひそめているのも知っていた。しかしそんなことなどどこ吹く風で、アルベルは常に堂々と振舞っていた。 「あんたは…私を守ってくれてたんだよね…」 もし誹謗中傷を恐れずに一緒にいてくれていなければ、きっとあの憎悪は自分に襲い掛かってきただろう。そのとき、自分はどうしたか。女王がこぎつけた和平条約を破らないためにも、逃げることに努めたはずだ。それでも逃げ切れなかったときは…。 そんな心配も、アルベルのおかげでせずにすんだ。 そのアルベルは今、ネルの側にいることをやめている。 それは、ここがシーハーツだからだ。 今度は自分が一緒にいることが、ネルを傷つけることになるとわかっているからだ。 いつものように傲然と胸を張り、シーハーツ国民たちの憎悪をただ一身に受けている。 それなのに、私は… 自分一人、守られて。 あんたは私のために傷ついているというのに。 「あんたって…どうして何も言ってくれないでさ…私は鈍いから、わからないじゃないか…」 気づいてあげられなくて、ごめん… 眠るアルベルの胸板の上に倒れこむと、起きているのか無意識か、その腕がネルを抱いた。 特に用事のない日の午後は、男たちは主にエクスキューショナーを狩りに行っているか、工房で何かやっているかだ。 ネルが工房を覗くと、案の定装備の手入れをしているアルベルがいた。 「あ、いたいた。」 「あん?」 「そんなの後回しにして、早く来な!」 問答無用でアルベルの腕を掴み、引っ張って外へ飛び出す。 慌てたのはアルベルだ。 二人ともただでさえ目立つ容姿で、いろいろな意味で有名人である。すれ違う人々がぎょっとした顔で振り返るのも当然だ。 「おい、てめえ何を…」 「いいからいいから。」 しかしネルはむしろ楽しそうに、アルベルの腕を掴んだままペターニの広場へと向かっていく。 「あ、やってるやってる!」 「だから何を…」 ネルに引きずり込まれたのは、オープンカフェだった。 いきなり入ってきたクリムゾン・ブレイドと漆黒団長に、客の視線が集中する。 ネルはさっさとひとつのテーブルに陣取り、メニューを突きつけてきた。 「何飲む?あ、お酒はないからね。」 「は?…な、何でもいい。」 「あ、そう。じゃあ紅茶二つ。あとはこれ、全種類持ってきとくれ。」 戸惑うアルベルを無視して、なんとなく腰が引けているウェイトレスにさっさと注文する。 何を全種類頼んだのだろう。それを聞こうにも、ネルの妙にいたずらっぽい笑みに跳ね返されて何も言えない。 あまりにも自分に似つかわしくない店を見回すと、こちらを見ていたらしい客が慌てて目を逸らす。 しかもここはオープンカフェなので、店内はおろか、外を歩く人々も二人に気づいて驚いた顔をしている。 この阿呆が… アルベルは舌打ちをしたい思いでいっぱいだった。 すると間もなく、紅茶とともに莫大なケーキがテーブルの上に並んだ。 「……なんだこりゃ。」 「何って、どう見てもケーキじゃないか。」 「もしかして、さっき全種類とかって頼んだのは、こいつか?」 「そうだよ。そこの看板に書いてあるだろ?今日はケーキ食べ放題なんだよ。」 「はあ?つってもてめえはそんな…」 「それじゃあいただきます。」 甘いものは食わねえだろうが。そう言いかけたアルベルを遮るように、ネルはケーキに手をつけた。 どうしたものかと、ただ紅茶をすすることしかできないアルベルの目の前で、ネルはケーキを食べている。 こいつが何を考えているのかわからない。 シーハーツではネルの立場を傷つけないように、極力離れていたのに。ケーキが食べたいなら、女どもを連れてくればいいものを、何故よりによって自分なのか。 ほら見ろ。どいつもこいつも呆気に取られた顔でてめえを見てやがる。 「ふう…だめだ、もうおなかいっぱいだ。」 ケーキを二個と半分ほど食べたところで、ネルがギブアップした。たった二個半食べた程度では、山のようなケーキが減ったとは言えない。 「阿呆。だから言っただろうが。」 「そんなこと言ったかい?」 「さっき言おうとしたらてめえに邪魔された。」 呆れたように溜息を吐くアルベルに、フォークが差し出された。 「もったいないからあと全部食べてよ。」 「は!?」 「だってあんた、甘いもの好きじゃないか。」 「……」 なるほど、そういうことか。 「ったく、しょーがねえな。そいつもよこせ。」 「え?でもこれは食べかけだよ。」 「もったいねーだろうが。」 ネルが食べ切れなかったケーキも奪い取り、山のようなケーキを平らげていく。 莫大に食べまくっても太る気配を微塵も見せないこの体質を、いつもソフィアが羨ましがって怒っているのがわかる気がする。 その引き締まった腹にあのケーキの大群を一つ残らず収め、平然と紅茶を飲んでいるのだ。 周囲の客が、今度は別の意味で驚いた視線を送っているのがわかる。子供などはむしろ尊敬の眼差しさえ送っている。 ネルは周囲の反応を満足げに眺め、 「ねえ…」 「なんだ。」 「あんた一人かっこつけようったって、そうはいかないからね。」 あんただけを傷つけさせない。傷つくなら私も一緒だよ。 「てめえは…本当に阿呆な女だな。」 肩をすくめたアルベルに、ネルは微笑んだ。 ぼろぼろになったって、一緒に進んでいけばいい。 互いにどうしようもなく不器用で、でも相手を想う気持ちだけは誰にも負けないのだから。 その想いがある限り、どんな痛みにも耐えられるから。 だから、一緒に少しずつ進んでいこう。 そうるればいつか、誰も傷つかなくてすむ世界にたどり着けると信じて。 |