あらゆる命が芽吹きはじめた春の朝の空気は、まるで砂糖菓子のようにふんわりとしていてなんとも言えず心地よかった。
 ゼルファー家の屋敷の花壇も、春の花が競うように咲いている。
 そんな中庭を望む食堂に、この屋敷の主が座っていた。
「昨日からネルが帰ってきてるんじゃないのか?今度はゆっくりしていられるのかな。」
 早朝に起きて散歩をしたあとゆっくり紅茶を楽しむのが、仕事に行く前のネーベルのささやかな楽しみだ。
 夫の好みの葉を好みの濃さでいれたティーセットを運びながら、リーゼルが困ったように微笑む。
「仕事でしばらくシーハーツを離れる前に、必要なものをちょっととりに戻っただけなんですって。…あ。」
 妻が顔を上げた先を目で追うと、階段を小走りに下りてくる音がした。
「久しぶりに帰ってきたら、寝過ごしちゃった…あ、おはようお父様。」
 食卓に顔を出したのは、ネーベルそっくりの自慢の娘だ。仕事を始めてから一人暮らしをしていたが、こうしてときどき実家に戻ってくる。
「こらこら、階段を駆け下りてくるなんて、レディがはしたないぞ。」
 ごめんなさい、と微笑みながら肩をすくめて席につき、ティーポットに手を伸ばす。
「今母さんから聞いたんだが、シーハーツを離れて仕事に出かけるんだって?今度はどこに行くんだ。」
「ほら、カルサアの南の丘陵地帯に、アーリグリフと共同の農園を作る計画があるでしょ?そこに視察に行くの。」
「ああ、おまえはあの方面の担当になったのか。私はサンマイトだから、だいぶ離れているなあ。」
「そんながっかりした声出さないでよ。いいかげん、父娘で一緒じゃ変よ。」
 とっくの昔に親離れしている娘に対して、父親の方がいつまでも未練なのはどの世界でも同じだ。
 それこそ本気で目に入れても痛くないような愛娘と一緒に風呂に入ることを、娘が十歳の誕生日を迎える前の日にリーゼルから禁止されたときの落ち込みようは、未だに語り草になっている。
「でも、クレアちゃんはアドレー殿と一緒にグリーテンに視察に行ってるんだろう?」
「ほら、あそこはおじさまがあの調子だから…。でもクレアには適当にあしらわれてるけれど。」
 父の古くからの友人の顔を思い浮かべた三人が、思わず苦笑を浮かべる。歩く岩石のようなアドレーが自分とは似ても似つかぬ娘クレアを溺愛する様は、ある意味でネーベルを超えている。
 しかしどっちもどっちで、シーハーツの二大バカ父と影で呼ばれていることなど、本人たちは全く気にも留めない。
「ネル、仕事はおもしろいか?」
「すごくおもしろい。やっぱり、お父様と同じ道を選んでよかったと思う。」
 その言葉は父親として、素直に嬉しい。
 ネルは子供の頃から、施力を使って環境や農耕など様々な技術研究を行って人々の暮らしに貢献している父に憧れていたのだ。自慢の愛娘が自分の仕事を継いでくれようというのは、やはり感慨深い。
 それでも、である。
「でもな、ネル…」
 口に上せたものの言いよどんだネーベルのあとを継いで、リーゼルが口を開く。
「仕事ばかりじゃなくて、あなたも早く旦那さんになる人を見つけてらっしゃいよ。」
「ぶっ…!」
「げほっ!」
 飲んでいた紅茶を思わず吹き出した量は、ネルよりもネーベルの方が多かった。
「な、なんでいきなりそうなるのさ!」
「そ、そうだ、ネルにはまだ早い!」
「あら、早くないわよ。だってもう二十三歳ですもの。そろそろ、彼氏くらい紹介してくれてもいい年頃だわ。お見合いの話をいくら持ってきたって、あなた見向きもしないんだもの。」
 ころころと笑うリーゼルを、顔を真っ赤にしたネルと、今にも泣き出しそうなネーベルが睨むが、そんなことで彼女は怯まない。
「年頃の娘の噂が、男の子みたいな喋り方してどこの誰彼に輪郭が変わるほど往復ビンタかましただの蹴り飛ばしただのの武勇伝ばっかりじゃ、さすがに困るものねえ。」
 困るどころか、むしろ楽しんでいるのではないかと思えるほどの笑顔だ。
「いや、えっと、あ、わ、私そろそろ支度しなくちゃ!その話はまた今度ってことで…」
 ネルがこそこそと逃げ出していく。
 そんな娘の後ろ姿を見送りながら、ネーベルは弁護するように、
「元気でいいじゃないか。…っていうのはだめかな。」
「あなたまさか、『ネルはおおきくなったらおとうさまのおよめさんになるの!』なんてあの子の言葉、真に受けてるんじゃないでしょうね。」
「はは、さすがにそれは…ははは、はは………………はあ…」
 まったくこのバカ父は、と肩をすくめながらも、リーゼルの眼は微笑を浮かべていた。
 ゼルファー家の、ささやかながらも幸せな、日常の風景。


 ようやく遅い春を迎えようとするアーリグリフの一角で、徐々に緩み始めて透明度が高くなった雪の下を雪解けの水がちょろちょろと流れていくのを、冷たい石垣の上に腰掛けて眺めている青年がいた。
 解けた雪の隙間から、厳しい冬の間を眠って耐え忍んでいた生命が、ようやく芽吹こうとしている。
 雪国アーリグリフの、ささやかな春の足音が聞こえる。
 一年のうちで、あっという間に過ぎてしまうこの一瞬の季節が一番好きかもしれない。
 清らかな清冽さを保ちながらも、柔らかさを抱いたこの季節が。
 何をするでもなくぼんやりとそんな光景を眺めていると、春の気配も雰囲気もぶち壊すかのような遠慮のない陽気な大声が響いた。
「おー、こんなところにいたのか!」
 小さく舌打ちして、不承不承振り返る。と、そこには問答無用で見慣れた顔があった。
「……なんだ、てめえか。」
「パパに向かって、『なんだ、てめえか』はないだろアルベル!」
 大袈裟に天を仰いで見せるのは、父グラオだ。
 息子の金と暗褐色が入り混じった髪の色のうちの暗褐色の部分と、真紅の瞳を与えたのはこの父だ。
 あまり父に似ていない秀麗な顔を露骨に歪め、
「生まれてこの方、てめえを一度でもそう呼んだ覚えはねえ。」
「はー、なんで俺の子がこんなひねた野郎に育っちゃったんだろう…」
「てめえが育てたからこうなったんじゃねえのか。」
「…おまえ、父親を尊敬するとかいう言葉を知らんのか。」
「残念ながら俺には尊敬できる父親がいないもんで、知らねえな。」
 で、なんの用だ。と不機嫌そうに言う。
 立ち上がるといつの間にか自分の背丈を抜いていた息子を、胸を反らして見上げる。
「ウォルターのじいさんが探してたぞ。」
「…知ってる。」
 いかにもおもしろくなさそうに、ぷいと横を向く。
「なんだ、じゃあ早く行けばいいのに。」
「探してるから、ここにいんだよ。」
 いかにも不愉快そうに顔をしかめる息子に、父親は困ったように頭をかき、
「そんなにいやなのか?見合い。」
「冗談じゃねえ。そんなもん、まわりからお膳立てしてもらう気はさらさらねえんだよ!」
「でもなー、仮にも警察団の団長になったんだろうが。だったら嫁さんくらいもらったっていいだろ。」
「…そんなくだらねえ伝言のために警察総司令のパシリになるとは、警察局長も暇なもんだな。」
「そう言うなよ、じいさんだって早く曾孫見たいだろうしさー。」
「ほっとけ阿呆。」
 いいかげんに不愉快な会話を断ち切ろうとするように、歩き出す。
「どこ行くんだ?じいさんの屋敷はあっち…」
「仕事だ。今日からしばらくカルサアだ。じじいの与太話には、てめえが付き合え。」
「ああ、そういえばシーハーツとの共同事業が始まるんだっけな。おまえ、そこの警備責任者だっけか。」
 それじゃあ仕方ないなあ、と肩をすくめたが、ふいに手を叩き、
「あ、そうだ!」
「なんだ。」
「シーハーツは美人が多いからな。せっかくだからナンパしてこいよ!」
「……いっぺんウルザでドラゴンの餌にでもなってこい。」
 二つに結った長い髪を揺らしながら、大股に歩き去っていく息子の背中をつくづくと眺める。
「あーあ、あいつもせっかく美人で名高い母さんに似たのに…あの口の悪さはなんとかならんかねえ。でもまあ、ああいうのに限って将来尻に敷かれたりするんだよな。」
 グラオは一人笑いながら、暗褐色の収まりの悪い髪をかきまわした。
 ノックス家の、毎日のように繰り返される父子喧嘩。
 はたから見れば微笑ましい、そんな日常の風景。



 アーリグリフに花といえるものはほとんど咲かない。
 カルサアはアーリグリフ領内で最も気候が穏やかな地方だが、そことて決して肥沃な土地ではない。冷たく乾いた風は、育てられる農作物をごく限られたものにしてしまう。
 そんな土地に、いつか花が咲き乱れる日がくるのだろうか。そしてこの広い丘陵に作物が実り、寒さと飢えに苦しまずにすむ日がくるのだろうか。
 人々が飢えれば治安も悪くなる。そうすると警察の仕事が増えるわけだが、そんなことで喜べるわけがない。
 シーハーツ人の施力を使った技術で、本当に環境を改善できるかはわからない。
 それでもわずかでも希望があるのならば、なんでも試してみればよい。自分はただ、それが邪魔されずに行えるように、自分の仕事をこなすのみだ。
 そんなことを考えながら歩くアルベルが、はるか眼下に海を臨む一本の大きな木の下にさしかかったとき、頭上に若葉と小枝が不自然な形でぱらぱらと落ちてきた。
 何だろうと梢を見上げると、まず最初に見えたのは真っ白な女の足だった。
 すらりとのびた脚線を目で追っていくと、白い布がふわりと広がっている。どうやらスカートの裾が枝のどこかに引っかかって、それをはずそうともがいている様子だった。
 何故、女が木の上などにいるのか。
 それにそこをいくら引っぱっても、引っかかったスカートははずれないのではないか。
 なんとなく足を止めて他愛もないことを考えながら眺めてしまうのは、そのスカートから伸びた足の見事さのせいだろうか。
「ああ、もう!いいかげんはずれないか、このっ!」
「…ひっかかってんの、そっちじゃねえぞ。」
「え…は!?」
 いいかげんに見かねて声をかけると、足の主が驚いたように素っ頓狂な声を上げる。
 そのときになって初めて真下にいる男の存在に気づき、あられもなくまくれたスカートを慌ててなんとかしようとしたのが悪かった。
 びっ、と軋むような音がして、布が裂ける。
「え?わ…わわっ!」
 気がついたときには、視界がぐるりと逆転していた。
 両目を硬く閉じて地面に体が打ちつけられる衝撃に備える。
 …が、その衝撃はいつまで待っても来なかった。
 その代わりに、掬い上げられるような感覚とともに、体がふわりと浮き上がって落下が止まる。
「……」
 恐る恐る目を開けると、その視界に、宝石のような真紅の瞳が飛び込んできた。
 自分の状況に思い及ばすより前に、その瞳を、素直にきれいだと思った。
 木の上から降ってきた女を、反射的に受け止めていた。
 そしてその腕に落ちてきたものを見た瞬間、咲き誇る花を見た気がした。
 しかしそれは一瞬のことで、花に見えたものが、その女の鮮やかな赤い髪だと気がついた。怖々持ち上がった長い睫毛の下から現れた瞳も、なんといったか、そう、スミレという花に似ていた。
「……」
「……」
 しばらく、二人とも固まっていた。
 言葉もなく動かない二人の上に、折られた小枝と若葉がついでのように落ちかかっている。
 落ちた!
 覚悟を決めたのも束の間、気がつけば見たこともない男の腕にすっぽりと収まっているではないか。
 温かくて、力強くて…でも、幼い頃に抱かれたお父様の腕とは違う…
 そんなことが脳裏に浮かびかけた瞬間、
「うわ、わ!」
 我に返り、慌てて突き飛ばすように飛び降りる。
 思わず反射的に逃げてしまったが、鳩が豆鉄砲をくらったように切れ長の目を見開いた男を見て、この男がいなかったら頭から落ちていたところだったと気がついた。
「……あ、ありが、とう…」
 動揺しながらもなんとか礼を言ったが、真紅の瞳を持つ男はまだ自分をじっと見詰めたまま何も言わない。
 その不躾なまでの視線に、
「……な、なに?」
 その疑問に、男は顎で自分の左側を示した。
 なんだろうと思いながら、その示す先へ視線を降ろした瞬間…
「…っ!!」
 スカートの脇が思い切り破れ、腰の辺りまでスリットが入った状態になっていた。白いスカートを割って、これまた白い足が根元から顔を出している。
 慌ててスカートを掴み締めて隠すが、男は端正な口角を上げてくつくつと笑い、
「今更遅ぇよ、阿呆。」
 ようやく口を開いた。
「なっ…」
「さっきはもっと丸出しだっただろうが。」
 途端に、女の顔が髪に負けないほどに真っ赤になる。
 そうだ。この男は、自分の真下にいたのではないか。と、いうことは…
「あんた、み、み、見…」
 恥ずかしさで肩を震わせる女に対して、男はあっけらかんとしたものだ。
「あれで見るなって言う方がどうかしてる。」
「この…!」
 思わず張り飛ばそうとした手が、掴まれた。
 細い手首を掴む大きな手に、思わずどきりとする。
 しかしそれにもめげずに、もう片方の手を飛ばす。
 …が、そちらも掴まれてしまった。
「〜…!」
「なんだよ…っ!」
 男の語尾が跳ねたのは、つま先を思い切り踏まれたからだった。さすがにそこまでは予測していなかったのか、ぐりぐりと踏みつける足にしばし声を失う。
「どうだ、バカ!」
「…っ…」
 まだ手首を掴まれたまま声を荒げる女からは、下を向いた男の表情は長い前髪が邪魔で見えない。
 しかし、暗褐色と金の髪の下から、
「…っく…」
 そんな声が漏れて、女の手首を掴む手がわずかに震えた。
 もしかして、怒ったかな?
 後退ろうにも、手を離してくれなければどうしようもない。
 どうしようか。
 焦り始めた女の耳に、次に聞こえてきたのは、
「…っくく…」
 こらえかねたような笑い声だった。
「な…なにがおかしいのさ。」
「おもしれえ女だな、おまえ。」
 顔を上げた男は、本当におかしそうに笑っていた。
 最初に見た瞬間に抱いた、刃物のように鋭い印象とは正反対の、日向臭い少年のような顔。
 一人でさもおかしそうに笑っている様子を見ているうちに、なんとなく怒気が削がれた。
「……笑ってないで、離してよ。」
「ひっぱたかねえっていうなら離してやるよ。」
「叩かないから。」
 そう言うと、案外素直に離してくれた。
 男はまだおかしそうな顔をしながら、
「てめえ、シーハーツの施術士か?」
「…そうだよ。あんたは…アーリグリフ?」
「そういうことだ。で、その施術士がなんでそんなかっこうで、木の上なんざ登ってやがった。」
「実がなってたから、調べようとしてた…」
「なるほどな。それで木に登ったはいいがスカートが引っかかって、中身丸出しにした挙句に俺の上に落っこちたってわけだ。」
「…やっぱぶつよ。」
 手を閃かせると、ひょいと上体を反らしてかわす。
 口を尖らせる女に、おい、と声をかける。
「着替えは持ってきてんのか?」
 突然真顔で問われ、瞬間戸惑いながらも答える。
「…荷物は宿にある。」
「そうか。」
 言うや、いきなり腰を引き寄せられた。
 有無を言わせぬ力に引っ張られ、男の体にぶつかる。
「な、ななななにを…!」
「宿、行くぞ。」
 女の腰を抱いたまま、問答無用で歩き出す。
 驚きと恥ずかしさで必死に腕を突っ張ってなんとか離れようともがくが、男の手はびくともしない。
「は、離せってば!」
「離れたら、見えるぞ。」
「え…」
 はっと気がつくと、その男の体に引き寄せられているのは左側だった。
 もしかして、破れてしまったスカートから覗く足が他から見えないようにしてくれているのだろうか。
 そう気づいた瞬間、突っぱねようとしていた手から力が抜けた。そして紅潮した顔を見られないように顔を背け、
「……もうちょっと、歩くペース落としてよ。」
「素直じゃねえ女だな。」
 意地悪く笑いながらも、ペースを落としてくれた。
「…そういえば、助けてもらっておいて名乗ってなかったね。私はネル。あんたは?」
「アルベルだ。」
 口の中でその名を反芻したネルは、いい響きの名前だな、と思った。
「あれ〜?ネル先輩、どこ行くんだろ〜?」
 別のところで土の採取をしていたファリンが顔を上げる。
「あ、ほんとだ。しかもなんか見たことのない男の人と歩いてるし。」
「あら〜、相手の人、なかなかかっこいいですね〜。腰に手まわしちゃったりして妙にらぶらぶっぽい雰囲気だし〜♪」
「ネル先輩、普段は男なんてー!って顔しといて、いつの間に…」
「まったく、隅に置けないな〜。あとでからかっちゃお〜っと。」
「…ファリンに見つかるとは…ネル先輩も気の毒な…」
 後輩たちの勝手な会話など知る由もなく、海からそよいでくる風に赤い髪を抑えた。
 特に何か話すでもなく、ただ黙々と、冷たい風が吹く野を歩いている。
 しかしその風に、身を震わせることはない。
 半身にぴったりと寄り添った男の体温が、肌寒さを忘れさせてくれるから。
 どうしてだろう。
 初対面の男と、親切とはいえこのような状況でずっと歩いていることに、何故か不安も恐怖も覚えない。
 心臓はさっきから黙っているとうるさいくらいに、どんどんと打ち続けているのに。
 感じるのはむしろ、安心感。
「ねえ。」
 どの角度から見ても隙のない、とっつきにくいまでに整った顔を見上げる。
「あんた…私に会ったこと、ないよね?」
 いきなり何を言い出すやら。それでもわずかの間考えて、
「ねえな。」
 会ったことがあれば、忘れるわけがねえ。
 その言葉は、飲み込んだ。
「うん、そうか、そうだよね。私もあんたには会ったことがない。」
 もし会っていれば、忘れようがない。
 敢えてその言葉は言わずに。
 言葉が途切れてしまうと、また心臓の鼓動がうるさく感じる。
 激しく暴れるこの鼓動は、ぴったりとくっついているこの男にも伝わってしまっているのだろうか。
 どうしよう。
 鼓動が高まるにつれて、恥ずかしくてたまらなくなってくる。
 それでも何故か、この腕から逃れようという気にならない。
 逃れたくない。
 その理由はネル自身よくわからなかったが、
「…あったかい…」
 無意識のうちに、唇が言葉を紡いでいた。
 我に返ったネルは自分で言っておいて思わず狼狽してしまったが、アルベルは一瞬きょとんとした顔をしたものの、
「…そうだな。」
 そう応えた顔は、微笑んでいるように見えた。



 雨戸の隙間から室内に差し込む清冽な朝の光が、薄闇を切り裂いている。
 早朝の空気は冷たいが、その冷たさは遠いものに感じられた。
 羽根布団よりも心地よく、太陽の光よりも力強い温もりに包まれているから。
 眩しさをこらえながら目を開けると、真紅の瞳がまっすぐにこちらを見つめていた。
「…珍しいね。起きてたんだ…」
 おはよ、と言うと、ああ、とくぐもった声で応えた。
 しかし互いに、体を起こそうとはしない。
「…夢、見たんだ…」
 横たわったままのネルの言葉に、
「俺も見た。」
 普段の様子からは信じられないほどに、穏やかな声だ。
「そうなんだ…いい夢だった?」
 アルベルが、眩しそうに目を細める。
「…ああ。」
「そう…よかったね。私もね、いい夢だったよ…お父様とお母様が家にいるんだ…」
「…こっちも何でだか親父が生きてやがったな。」
「戦争も起きてなくてね…アーリグリフと仲がよくてね…」
「そういや、シーハーツと共同でなんかやるとか言ってたな…戦争なんざ起こってなかったみてえだな。」
 互いにぽつぽつと語っていくうちに、ネルが首を傾げる。
「なんか、似てるね。私も、アーリグリフと共同研究でカルサアに農地を作ろうとか言ってたんだよ。」
「…似てるんじゃねえ、同じだ。」
 今度は驚いたように顔を見合わせる。
「もしかして、私ら同じ夢を見てたってことかい?」
「かもしれねえな。」
「でも…私の夢、おかしいんだよ?だってあんたが警察なんかやってんだもん。犯人として捕まってるならわかるけど。」
「誰が犯人だ阿呆。てめえこそ、下着まで丸出しで木登りしてやがったぞ。」
 互いの言葉で、確信した。
「冗談みたいだけど…本当に、同じ夢見たんだね…」
「そうみてえだな。」
「偶然…かな。」
「さあな。最近、わけのわからねえことだらけだ。隣で寝てりゃ、夢がシンクロすることくらいあるかもな。」
 普通に考えればありえない、極めて奇妙なことだ。
 しかし怖くはなかった。
 何故なら、その夢があまりにも温かく、心地よいものだったから。
 目を覚ますのが惜しいくらいに、切なく、優しい夢だったから。
 ネルはアルベルの胸板に額を押しつけ、
「もしかしたらさ…戦争なんかなかったら、この世界もああなってたのかもしれないね…」
 軍なんかなくて、お父様もグラオさんも死ぬことはなくて、今も一緒に家族そろって生きていて、私たちも戦うことなんてなくて…
「そんな世界があったなら、すてきだね…」
 赤い髪を、長い指がそっと絡めとる。
「どこかに、あるのかもしれねえな。」
 人生の様々な分岐の中で、選び取ることのなかった道も、それぞれの時間として進んでいくのだとしたら…。
 戦争のない世界で生きている二人が、どこかにいてもいいのかもしれない。
「そう…かもしれないね…どこかに別の私たちが生きてて…」
 その世界でも、二人は出会った。
 警官と研究者と、二人の立場は違うけれど。
「でも、ちゃんと会えたんだね…」
 木から落ちたネルを受け止めたのは、他の誰でもない、アルベルだった。
 歩む世界は変わっても、それぞれの道で、いろいろな形で二人は出会っていくのだろうか。
「いいね、そんなのも…」
「……」
 微笑むネルを抱く手にかすかに力がこもる。
「どんな世界に生きてても、必ずあんたはいるんだね…」
「てめえもな…」
 互いの祖国が戦争をしていたような最悪の状況でも、二人は出会うことができた。その手をとり、こうして抱きしめることができたではないか。
 そうなのだとしたら、これからどんな世界に生きていくことも怖くない。
 この温もりが、常に二人を包んでくれているのだから。
 ネルはそっとアルベルの首に腕を巻きつけた。
「私、どこにいてもあんたのこと探すから…だから、あんたもちゃんと私を見つけてね…」
「言われるまでもねえ。あの星の彼方だろうと、別の次元とやらだろうと、とっ捕まえてやるよ。」
 しなやかな体を力いっぱい抱きしめ、そっと口付けた。



 どこの世界に生まれても、いつの日か生まれ変わって新たな時代を生きることになっても、必ず、必ず巡り会おう。
 そしてずっと、ずっと、おまえを、あんたを抱きしめよう。
 二つの魂が重なったときこそ、何よりも心地よい温もりが生まれるのだから…


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