少し折り目が擦り切れたカーテンの隙間から、ほのかな星明りが部屋の中に差し込んでいる。 その光はしかし室内の何を照らすこともできず、小さく燃えている暖炉の暖かな光に弾かれてしまっている。 それでも仄かな光を生み出す満点の星空は清冽で、カーテンの隙間から覗く程度の範囲でさえ、無限の広がりを感じさせる。 黒に近い濃紺でありながら、限りなく透き通った夜空一面にちりばめられた白、黄、赤、青といった光を見つめていると、確かにあの向こうにもいろいろな世界があって、いろいろな人々が暮らしていてもおかしくないと思える。 しかしそんなことも、実際に自分の目で確かめるまで夢にも思っていなかったことなのだが。 星空がことのほか冴え冴えとしているのは、空気が冷たく澄み切っているからだ。 アーリグリフの星空は、シランドの星空とは見え方が少し違う。シランドではこのような星空は、真冬にならないと見られない。 それでもフェイトたち文明の進んだ世界の者たちに言わせると、こんな星空は彼らの住む大地では見る事はできないそうだ。 星空が見えないほど高い建物が林立し、空気が汚れてしまっているらしい。 そんな世界に行ったら窒息してしまいそうな気がして、話を聞いただけで息苦しくなった。 星明りを追いやっていた炎の光が、だいぶ弱まっている。寝る前に暖炉の薪を足しておかなかったため、ほとんど消えそうになっているようだ。 それでも部屋の中の暖かさは変わっていない。 いや、ネルを包む暖かさだけが変わっていないといったほうが正しいだろうか。 ネルは星空から部屋の中に視線を移し、さらに少し横にすみれ色の瞳を動かして、先程から数え切れないほど漏らしている深い溜息を吐いた。 その視線の先には、金と暗褐色が入り混じった、フェイトたち曰くプリンという食べ物そっくりな色合いの髪がある。 長いその髪が肩にかかってくすぐったいが、身動きがとれない。 その髪の主が、上から押さえ込むようにがっしりとネルの体を抱えているからだった。 何故このようなことになったのか。 久しぶりに戻った本国ではさすがに仕事が溜まっていたのか、漆黒騎士団団長は宿に泊まる仲間たちとは離れて、城へ行ったきり夜になっても戻ってこなかった。城には自室もあることだし、きっと今夜はそこに泊まるのだろうと誰もが納得していた。 そして仲間たちがそれぞれの部屋で眠りにつき、ネルも用意された部屋で明日の支度を整えてからベッドに入り、眠りについたのだった。 ネルは職業柄、わずかな物音にも敏感に反応して目を覚ます。 はっと目を開けたのは、扉が開いた音がしたからだった。 そして誰が入ってきたのかと確認するより早く、重い金属を床に落としていく音とともに、暖炉の光を背に受けた黒い影が目の前まで迫ってきていたのだ。 その影の主がアルベルだと気がついたときには、その影は重い圧迫感となってネルをベッドに押し付けていた。 「なっ…!」 思わず声を上げてどけようとするが、のしかかってきた相手は無言のままびくともしてくれない。 突っぱねようにも右腕は完全に下敷きにされ、左腕は掴まれているために肘から先をわずかに動かせるのみだ。 では蹴ってやろうと思っても、布団の上から足でもって押さえつけられ、これもどうしようもない。 文字通り、身動き不能だった。 ならば口で言うしかない。 「いきなり何すんだい、どきな、バカっ!」 真横にある耳元でどれだけわめいても、反応がない。 思わず死んでいるのかとも思ったが、全身を圧迫する体温と、合わさった胸から伝わる心臓の鼓動が、彼がちゃんと生きていることを知らしめる。 一体何なんだというのだ。 抗議する声が上ずっているのが、自分でもわかる。 「どけってば…重いし苦しいよ…っ」 かろうじて動く左手で男の引き締まった脇腹を叩くが、やはり反応はない。 そして気がつけば、自分の顔のすぐ横にある頭の下から、小さな寝息が聞こえるではないか。 呆気にとられていたが、すぐに我に返った。 「あ、あんたまさか、このまま朝まで寝るつもりかい!?」 改めて耳元で怒鳴っても、びくともしない。 伝わってくる心臓の鼓動に比べて、自分の鼓動のなんと早くうるさいことか。 かすかな寝息をかき消すように、暖炉の火が爆ぜる音がする。 きっと今、自分の顔はあの炎よりも赤いはずだ。 大声で助けを求めようか。 確か隣の部屋はマリアだ。彼女なら、目を覚ましてくれるだろう。 しかし…と、改めて呑気に寝ている男を見る。 たとえこいつがいきなりやってきたとはいえ、こんなところを誰にも見られたくはない。構図としては、ネルがアルベルに押し倒されている以外の何ものでもないのだ。 マリアの性格を思い浮かべながら、彼女が駆けつけてきてくれたあとの行動を想像してみる。 ネルの尋常でない叫び声に、銃を掴んだマリアが駆け込んでくる。扉の鍵はかかっていないため、簡単に入れるはずだ。 暗い部屋を奥に進んだマリアの目に飛び込んだものは…。 そして彼女は、銃を降ろして肩をすくめてこう言うのだ。 「ああ、そういうこと。邪魔してごめんなさい。でも、もう少し静かにね。」 ふっと笑みを浮かべて踵を返す姿がありありと想像されて、ネルはその計画を放棄した。 仕方なく一人で恥ずかしさと混乱の中、しばらく格闘していたものの、ついに諦めざるを得なかった。 普段殴っても蹴っても起きないこの男が、怒鳴ったくらいで起きてくれるはずもないのだ。 諦めたとはいえとても眠れたものではなく、カーテンの隙間から覗く星空を眺める。 半ば凍りついたガラスの向こうに広がる星空は、いかにも寒々としている。 それに引き換え、部屋の中は暖かい。 いや、この男が暖かい。 だから暖炉の火が消えようと、きっと自分もこいつも平気だ。 人の肌のぬくもりが、戸惑いとともに安心感も与えてくれる。 その奇妙な心地よさに身を委ねようとした瞬間、慌てて自らを引き戻す。 そしてその想いを振り払うように首を激しく振った視界に、否応なくその寝顔が飛び込んでくる。 「……」 目を逸らしたものの、改めて横を見る。 うっとうしいほどに長い前髪の隙間から、閉じられたまぶたが覗いている。 男のくせに悔しいほど長い睫は、持ち上がる気配もない。 「ったく…本当にあんたはわけがわからないね…」 何を言おうと、どうせ聞いていないのだ。そう思うとなんとなく気が楽になる。 「…あんたのことだ。久しぶりにまともに仕事したら、疲れたんだろ?」 まったく、気持ちよさそうに寝て… その感想は誇張ではなく、本当に気持ちよさそうに寝ている。 “歪みのアルベル”としてシーハーツはおろかアーリグリフの者さえも恐れさせた男が、まさかこんな顔をして眠るとは思ってもみなかった。きっと、アーリグリフの人間だって知らないはずだ。 普段の痩せ狼のように尖った態度が嘘のように邪気のない寝顔を見ていると、こちらの顔がこの男の本質なのではないかという気さえしてくる。 「いいのかい?元は敵だった私にそんな無防備な顔見せてさ…」 言いながらも、知らないうちに口元がほころんでいた。 ふと、根本的な疑問を思い出す。 「それにしても、なんであんたはわざわざこんなところまで寝に来たんだい?あんな帰りが遅いんだったら、お城に泊まればいいのに。」 それ以前に、どうして自分の部屋にこいつが来るのか。 空室がなかったのだろうか。 どうしても城に泊まりたくない理由があって宿に来たのだとしても、アーリグリフが誇る三軍のひとつ漆黒騎士団の団長ならば、夜中だろうと宿の部屋くらい強引に用意させられるはずだ。それに相部屋になったとして、他に男の客がいるのに、宿の人間が男を女の部屋にわざわざ放り込むはずがない。 部屋を間違えたのだろうか。 眠気からベッドの上に先客がいるのも気づかず、身を投げ出したということか。 そうだとしたら…と、我が左腕を見る。 施紋が刻まれたネルの細い上腕を掴むこの手は、真っ先に伸びてきた気がする。 身を起こそうとしたネルの腕を掴んで動きを封じ、そのまま全身でもってネルをベッドに押し戻したのだ。 完全に確信犯ではないか。 それならば部屋を間違えたというはずはない。 そして再び、どうしてネルの部屋に来たかという最初に疑問に帰ってしまう。 自らの意思で人の部屋に入って来たのだとしたら、因縁のあるフェイトや、本人には悪いが眼中に入っていないらしいクリフ、ましてアドレーの部屋に行くはずがない。 残るは、マリアとソフィアとミラージュと、ネルだ。 この男は、ここがネルの部屋だと知っていて入ってきたのだろうか。 ここがもし他の誰かの部屋だったら、どうしたのだろうか。 今こうしているように… 「…っ」 突然、胸の奥がちりりと痛んだ。 まるで焼けた錐を揉み込まれたかのような、痛み…。 その痛みに戸惑いながら、それ以上考えまいとしている自分に気づいた。 「ち、違う、そんなんじゃない…!」 そんな自分に混乱しながらも否定したくて、無理矢理考えようとしてみる。 それなのに、胸を突き刺す痛みはますます激しくなり、涙さえ滲んでくる。 「…違う…違う…」 アルベルが他の誰かとこうしていることを、考えたくもないだなんて。 アルベルがこうしている相手が自分でなければ許せないだなんて。 そんなこと、認めたくない。 力の入らない手で、眠る男の脇腹を何度も叩く。 こんな奴、嫌いだ。 かつて敵だった男など。 人の意思など無視して唇を奪うような、身勝手な男など。 そのとき頬に添えた掌の優しいぬくもりに、激しく心乱させるような男など。 もはや暖炉の炎も消え、物音ひとつしなくなった部屋の中、ぱしぱしと叩く音だけが、不規則に響く。 滲んだ涙がひとすじ流れて赤い髪の中に滑り落ちたとき、ネルの左腕を掴む手にふいに力がこもった。 かすかな痛みさえ伴うその感覚に、びくりと肩を震わせる。 そんなネルの耳に、 「……いてえ、叩くな阿呆…」 寝惚けた、くぐもった声が聞こえた。 「…!」 目を覚ましたのか。 思わずうろたえる間に、ぴくりとも動かなかった体がもぞと動いて、まるでふとんか枕を抱え込むかのように、ネルの体を両腕に抱きしめた。 「…っ」 驚いて声も出ないネルの耳に次に届いたものは、深い寝息だった。 起きたわけではなかったのか。きっと、今しゃべったことを本人に聞いても、覚えていないだろう。 ほとんど無意識に、寝返りをうつような感覚で…。 無遠慮に胸に顔を埋められてくすぐったくてたまらないのだが、さらに身動きできなくなってしまっている。 「な、あ、あんた…っ…」 暴れる自分の心臓の鼓動は、顔をぴったりとつけているのだからアルベルにも聞こえているはずだ。 一体何を考えているのか。 そもそも、何故この男のわけのわからない行動のためにこれだけ思い悩まなくてはならないのか。 今度は悔しくなってくる。 しかし同時に、強く抱きすくめる腕から、ぬるま湯のようなぬくもりが広がって全身を満たしていくのも感じる。 そしてそのぬくもりが、あの胸の痛みを洗い流してくれたことにも気がついていた。 …私、だ。 ふいに、霊感めいたものが閃いた。 こいつが抱きしめているのは、自分だ。 他の誰でもない。 誰かと間違えたのでもない。 アルベルが自ら望んでその腕に抱くのは、ネル以外の何者でもないのだ。 口に出して言ったわけではない。 しかし何故か、確信ともいえる思いが湧きあがってくる。 細い体をかき抱くこの腕が、その確信を与えてくれる気がする。 「……」 ネルは大きく深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。 それに合わせて、意識して体の力を抜く。 視線を降ろせば、相変わらず呑気に無防備な寝顔をさらしている男がいる。 自然と、笑みがこぼれた。 …あんたのそんな寝顔を見られるのは、私だけの特権だと思っていいんだね? だから… 「朝になったら、覚悟しておきな。」 本当にこのバカ、目を覚ましたらどうしてくれようか。 そんなことを考えていたら、少し楽しくなってきた。 カーテンの隙間から忍び込むほの暗い星明りが、淡く青い影を投げかけていた。 |