世界は…



 重傷を負い、錯乱したルシファーは禁断の最後の手段に出た。
 この世界の総てを完全に消去してしまうこと。
 そんなことをしては、この世界に精神投影しているルシフェル自身も消えてしまう。FD世界にあるルシファーの肉体に、もはや魂が戻ることはできない。
 兄を止めようと、ブレアが駆け寄る。が、妹を突き飛ばし、その叫びも聞こえないかのように端末を操作する。
 狂ったようなルシファーの高笑いとともに、そのプログラムは実行された。
 モニタに映し出された宇宙が、銀河が、惑星がどんどん消滅していく。
「だめ!止められない…!」
 ブレアが必死にプログラムを停止させようとするが、もはやどうしようもなかった。
「そんな…世界が…!」
 愕然としたフェイトの呟き。
 創造主を倒しても、自分たちの世界が消滅してしまっては意味がない。
 ただもう、次々と世界が消えていくのをモニタから見ているしかない。
 間もなく、この部屋にも影響が出始めた。
 床や壁や天井の輪郭がぶれて見える。
「!?」
 そして、そこにいる彼らの体にも、影響が及んだ。
 体が淡い光に包まれている。
 まるでその肉体が、細胞が、原子の総てが光を宿しているかのようだ。
 泣きそうな顔でフェイトを見上げたソフィアが、小さな悲鳴を上げた。
 フェイトの体が、淡く透けて見える。それはもちろん、ソフィア自身にも起こっていることだった。
 消えていく。
「…あ…」
 震えるような小さな声に、アルベルははっとして振り返った。
 すぐ後ろにいたネルが、だんだん透き通っていく自分の手を見て呆然としている。
 消えてしまう。
 この女が消えてしまう。
 ネルの頬がわなないた。
「…っ!」
 アルベルは何かに突き動かされたかのように、ネルをかき抱いていた。
「アルベル…!?」
「消えるな…てめえは消えるな…!!」
 透き通っていく男の腕に痛いほどに抱きすくめられるが、その痛みの実感が少しずつ薄れていく。
 腕の中にいるはずなのに、決して離すまいと力いっぱい抱きしめているのに、ガラス細工のように透けて見える女の匂いも温もりも、だんだんと感じられなくなっていく。
 背中に細い腕が回されたことさえ、かすかにしか感じられない。
 消えさせてなるものか。
 この女が生きていく世界を守りたかったのだ。
 たとえ自分自身が消えようと、この女だけは…!
 互いの肉体が足元から光の粒となり、舞い上がって散っていく。
 眩い魂のきらめきが、空間に満ちていく。
「…離さ…ないで…」
「誰が離すかよ…!」
 その光に総てがかき消される直前に、ネルの頬を涙が伝ったのが見えた。

 総ての感覚を投げ出してしまったような、暗闇。
 自分は消えたのだろうか。
 総ての感覚が薄れていき、体が消えていった。
 ルシフェルの手によって、総てが消滅してしまった。
 …最初に自分のことに気づいたのは、意識だった。
 ん?
 と、意識が問い掛ける。
 では、今そう考えているのは一体誰なのだろうか。
 死んで後に魂が見る夢だろうか。
 いや、世界の総てが消去されてしまっては、魂の行方さえ存在するまい。そしてその魂さえも。
 なら、今自分はここに存在するのだろうか。
 消去されず、存在しているのだとしたら…
 意識がそう考えた瞬間、闇に溶けていた他の感覚が少しずつ浮かび上がってきた。
 何か、ひんやりとした柔らかなものを感じる。
 この感触はなんだったか。
 徐々に鮮明になっていく意識に問い掛けると、それは草だとわかった。
 そして心地よい何かが、撫でていく。
 これは、風だ。
 それから次々と、自分を取り囲むものが存在しはじめる。
 自分を中心に、世界が広がっていく。
 最後に感じたものは、痛みだった。
 強く締めつけられる、痛み。
 そして、温もり。
 もはや草を撫でていく風の音を捉えるようになった聴覚に、規則正しく刻まれる拍動が響いてきた。
「……!」
 閉じていても外の光を感じる瞼を思い切って開くと、取り戻された視界に、男の胸板が広がっていた。
 強く締めつけられるこの痛みを与えているのは、その男の腕。
 視線を上へあげ、その男の顔を見た瞬間、ネルの喉から声がほとばしった。
「アルベル…!」
 まだ意識がないのだろうか。
 呼びかけに対して反応はない。ネルを抱いて横たわったまま、眠ったように目を閉じている。
 それでもはっきりと伝わる心臓の鼓動が、彼が生きていることを教えてくれる。
 ネルはその腕から抜けようとした。
 しかしその腕は、がっちりと締まっていて決して離れない。
「ねえ、起きなってば…アルベル!」
 腕を上げることさえできず、その背中を何度も叩く。
 そのうちに、意外に長い男の睫毛がぴくりと動いた。
「…う…」
 まるで朝寝坊しているところを叩き起こされたような顔で、ゆっくりと瞼を持ち上げる。
 ルビーのような真紅の瞳が徐々に焦点を結び、必死に見上げるネルの顔を映した。
「…ネ…ルか…?」
「そうだよ…私たち、消えなかったんだよ…!」
「…マジか…?」
「消えてたら、そんなこと言えないだろ?」
 ようやく、アルベルも状況を把握してきたようだ。
 こんなときでも寝起きが悪いんだから。思わず笑みを浮かべ、その背中をまた叩く。
「ねえ…離してくれないかい?痛いんだけど。」
 言われてやっと気づいたように、がっしりと抱きすくめていた腕を解いてくれた。
 締めつけられた腕に鈍い痛みを感じながら体を起こす。
 そこは、見渡す限りの草原だった。
 柔らかな草むらの中には、見覚えのある者たちが横たわっているのが見える。
「消えて、ないよ…」
「…みてえだな。」
 のそりと上体を起こし、ネルとともに空を見上げる。
 青い空がある。
 昼間はほとんど見えない、白っぽい月が見える。
 白い雲が風に流されている。
 土の匂いと、草の匂い。
 どこからともなく聞こえてくる、鳥の声。
 何もかも、そこに存在している。
 世界は、ある。
「…何を泣いてやがんだ。」
 言われて、ネルは自分の頬を涙が伝っていることに気づいた。
「…だって…何もかも終わったと思ったんだよ…」
 後ろから、男の右腕がまわされる。
 その腕に手を添えると、温かい体温が伝わってくる。
 抱きしめられる腕の感触も、温もりも、もはや消えはしない。
「…ありがとう…」
「あん?」
「あんた、本当に離さないでくれたね…」
 ネルが目を覚ましたのは、アルベルの腕の中だった。螺旋の塔からこの世界へ戻るまで何があったかは知らないが、その腕はしっかりと自分を抱きしめて離さなかった。
「…あのとき…怖かったんだよ…自分が消えてくのを見て、本当に…」
 呟くネルの赤い髪が風にそよぎ、アルベルの頬をくすぐる。はっきりと感じられるくすぐったさに、アルベルはわずかに目を細める。
「だんだん何も感じなくなって…あんたが目の前にいるのに、わからなくなって……せめて、独りぼっちで消えたくないと思ったんだ…だから…」
 一緒に無の光の中へ溶けていけたら…それがせめてもの、最期の望みだった。
「…阿呆。」
 震える体に、左腕もまわされる。
 ガントレットの冷たささえ、今は心地よく感じられる。
 ネルの肩に顔を埋めるアルベルもまた、腕の中の女の存在を確かめているのだろう。
 今度こそ、消えない。
 確かな存在として。
「う…」
 草むらに倒れた大きな背中が蠢いた。どうやら、クリフも意識を取り戻してきたらしい。それに続いて、ソフィアとマリアも身じろぎし始める。
「ほら、離しなよ。皆起きるだろ。」
「……」
 こんなところを見られたら。そんな恥ずかしさで頬を染めながら、まだネルを離さない男の暗褐色と金の混じりあった髪を引っ張る。
「もう離しても、消えやしないよ…」
「…勝手に消えやがったらたたっ斬るぞ。」
 矛盾するような台詞とともに、ようやく腕を弛めてくれた。
「あんたこそ、消えたりしないことだね。でないとぶっ殺すよ。」
「上等だ。」
 笑みをかわす。それだけで充分だった。
 二人は、この世界に戻り始めた仲間たちのもとへ、歩き出した。




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