眩いほどに白い壁を見回す。 窓も明かりもないのに、何故これほど明るいのか。 まるで壁全体が光を宿しているように思える。 高い天井に目を凝らすと、円い線がうっすらと見える。 つい先程、あの場所には穴が空いていた。ちょうどあの上を走っていたとき、突然足元に穴が空いたのだ。 そしてこの場所に落とされた。 ここは、今レプリカとして再生されつつあるホドの地だ。 よく見ると、まだ完全に再生がなっていないのか、ところどころにまだ固着していない音素の美しいきらめきが見える。 二つある扉のうち、小さい方は鍵がかかっているのかびくともせず、大きい方は床の仕掛けを動かせば開くものの、その仕掛けから手を離すと閉まってしまう。譜術を利用した仕掛けは、触れていないと仕掛けを動かすこともできないのだ。それでもなんとかしようと工夫してみたのだが、どうしても出ることができない。 「くそっ…」 立ち塞がる扉に拳を叩きつけ、もう一度部屋を見回す。 この壮麗な建物は、どのように使われていたのだろうか。 無数の彫像に飾られたここは、礼拝堂か何かだったのだろうか。 今でこそ不気味なまでに無機質さを際立たせている白い建築物だが、かつて人の世界にあったときは、荘厳な静寂を湛えていたのだろう。 ヴァンならきっとここがどういった場所だったのか知っているのだろうかと考えかけて、首を振った。 今はそんなことに思いを馳せている場合ではない。 ヴァンはこのレプリカ大地を利用して、恐ろしい計画を遂行しようとしているのだ。この白い無機質な空間にレプリカたちが溢れると思うと、寒気さえ感じる。 この世界は、自分たちのものだ。 今生きている生命を、ナタリアを滅ぼさせはしない。 そのためには、ヴァンを倒してローレライを開放しなくてはならない。ローレライから鍵を託された自分がこんなところにいる場合ではないのだ。 しかしその鍵を持ちヴァンと対決するためには、まず先に決着をつけねばならないことがある。 レプリカとの、いや、自分自身との決着を。 扉を開けられないなら壊してでも、と一人奮闘していると、頭上から硬いものがこすれる音がした直後に悲鳴が降ってきた。 いかにも痛そうな、着地に失敗した音がする。 「いってぇ…」 振り返ると、腰をさすっているのはレプリカだった。 天井を見上げると、円い穴がゆっくりと閉じていくのが見える。 なるほど、同じ存在が同じ罠にかかって同じ場所に落ちてきたというわけか。 自分が先に落ちただけに、レプリカまでが自分と同じ行動をとったことが腹立たしいのだが何とも言えない。 レプリカが自らの意思で「ルーク」となったのではないことはわかっている。 自分をさらい、身代わりとしてレプリカを作ってファブレ家に送り込んだのは、ヴァンだ。 それでも、レプリカが自分から「ルーク」という存在を奪い去った事実に変わりはない。 自分は見てしまったのだ。 これもまた、ヴァンの策略のひとつだったのだが。 ヴァンにさらわれて以来、ずっと神託の盾本部の一室に閉じ込められていたのだが、ある日神託の盾兵の鎧と兜を着せられて一般兵に紛れてバチカルへ連れて行かれた。 ほとんど一ヶ月ぶりに戻ってきたバチカルは、何年も離れていたかのように懐かしかった。 屋敷は目の前だったのだから、そこでなんとかヴァンを振り切って屋敷に飛び込んで助けを求めてもよかったのだ。いかに神託の盾騎士団とはいえ、バチカルでファブレ家の白光騎士団を相手にことを構えることはできないはずだ。 だが、それをすることができなかった。 門からわずかに見える邸内に、自分がいた。 話に聞いていたレプリカだとすぐにわかったが、確かに「ルーク」がいた。 初めて見たレプリカは、気持ちが悪いほどに似ていた。 似ているどころか、全く同じだ。 鏡を見ているように、寸分違わない。 満足に歩くことも出来ず、椅子にもたれかかっている「ルーク」は母に寄り添われ、冷淡だった父からも痛ましげな視線を送られていた。 そしてその傍らには、ガイとナタリアもいた。 ナタリアは二度と「ルーク」が消えてしまわないように祈るような面持ちで、その腕をぎゅっと掴み締めて放そうとしない。 ナタリアとは、いつの日か一緒にこの国を変えていこうと約束をした。大人になったらベルケンドに一緒に行こうとか、また城を抜け出してバチカルの街を探検しようとか、庭木の鳥の巣の卵がどうなっているか毎日見ようとか、たくさん約束をした。 元気で明るかったナタリアが、今にも泣きそうな顔で「ルーク」の傍らにいる。しかしそこにいるのは「ルーク」ではない。 …気がついてくれ、そこにいるのは俺じゃない! ガイに至っては、まるで別人だった。 同じ年頃の使用人として数年前に雇われたガイは、確かに忠実に仕えてくれた。普段のこまごまとした用も求める以上にこなしてくれ、遊びに行くと言えば、それが家族に内緒のことでもちゃんと付き合ってくれて、一緒に秘密を守ってくれた。四歳年上の使用人は、遊び友達のいない公爵家の少年にはうってつけの存在だった。しかしその表情は冷たく、何かを押さえ込むかのように感情を表さなかった。そこが唯一の不満だった。 そのガイが今、哀れみを湛えた優しい顔をして、兄が弟に接するように、父が子に接するように懸命に世話をしている。 あんな顔は、見たことがなかった。 時に刃のように鋭い視線を投げかけてくることはあっても、あのように優しい顔を見せてはくれなかった。 そんな光景を覗き見た時、既に自分の帰る場所はなくなっているのだと思い知らされた。 今のファブレ家には、自分がいた時にはなかった空間が、確かに出来上がってしまっていた。 今更そこへ自分がのこのこと戻って行って、どうすると言うのか。 暖かな光のように降り注ぐ家族や友人の愛情は、もう二度と自分の上には注がれないと悟った。 大きすぎる兜の下で必死に歯を食いしばり、こぼれそうになる涙をこらえた。 自分と同じ姿をしているだけの空っぽの人形を「ルーク」だと信じてしまうような家族など、いらない。 人形を相手に家族ごっこをしているがいい。 もうバチカルへは戻らないと、決めた。 それがヴァンの策略どおりだったとしても、知ったことではない。 自分は帰ろうとしたのだ。しかし自分から帰る場所を奪ったのは、レプリカと、それと気づかぬ家族なのだと必死に己に言い聞かせ、バチカルを去ったのだった。 あの時は、もう二度と彼らに関わることはないと思っていた。 ヴァンの計画を知ってしまうまでは。 だからヴァンが作ったレプリカが自分と同じ存在ならば、それを利用してやろうと思ったのに。 記憶喪失になったと信じた自分の身代わりを、自分の家族はどんな育て方をしたのだろうか。超振動を奪われまいと屋敷に幽閉したレプリカをあのように育てたのは、ヴァンが相当に介入していたとはいえ、紛れもなく自分の家族なのだ。 もし自分も同じ育て方をされていたら、あのようになってしまったのだろうか。そう考えるだけで、無性に腹が立ってくる。 父は厳しかった。預言のこともあったが、ファブレ家嫡男への教育は徹底していた。自分も将来キムラスカを導いていく立場に就く者として、それを当然と受け入れていた。 それが一変してあの有様だ。 自分と音素振動数まで同じ完全同位体であるはずなのに、まんまとヴァンの傀儡に成り下がってしまったようなレプリカに家族も居場所も奪われたのだと思うと、怒りを通り越して情けなくなってくる。 その愚かなレプリカも真実を知って態度を改めたと思えば、必要以上に卑屈になる始末だ。 鏡からそのまま抜け出してきたかのように同じ姿をした存在の、自身の総てを否定するような言動を見ていると、まるで自分が存在を否定されているかのような錯覚に陥る。 自分と同じ存在であるはずという思い、レプリカと自分は違うのだと言う思い。 自分の居場所を奪った存在ならばそれ相当の存在であって欲しいと言う思いと、所詮自分の劣化コピーでしかないのだという思い。 レプリカを見れば見るほど総ての思考が衝突し、ジレンマとなって自分を責め苛む。 そして自分がその矛盾した感情に苛立って堂々巡りをしている間に、気がつけば、レプリカは自らの足で歩き出していた。 自分を置いて、確かな足取りで目指す地に向かって歩き出していた。 その背中を見た瞬間、自分の時間は七年前のあの日に凍りついたまま動いていなかったことに気がついた。 だからこそ、ヴァンを倒す前に決着をつけなくてはならないと感じた。 どのようなものであれ巌のような信念を持ったヴァンに対して、迷いを抱いたままでは勝てはしない。 己の存在意義を確かめるため、全力でレプリカと剣を交えることによって、自分の時間が動き出す。 そう確信したからこそ、ローレライの剣を抜いたのだ。 同じ肉体、同じ流儀、同じ師匠。 その条件でぶつかったとき、勝負を決するのは何なのか。 胸に抱く、思い。 意思。 そのどれでも負けるつもりはなかった。 その思いとは裏腹に、二人が交錯した瞬間、この手からローレライの剣が飛んでいた。 甲高い金属音とともに宙高く跳ね上げられた剣は勢いよく回転しながら、二人の間に突き立った。 肩で息をして互いを見つめる。 そこには、「ルーク」がいた。 己の存在も、運命も、総てを受け入れた上でそこに在ろうとする「ルーク」がいる。 それに対する、自分は誰だ? コンタミネーション現象とやらでもうじき消えるらしい自分は、何者なのか。 鮮血のアッシュか。 聖なる焔の燃えカスか。 「……」 卑屈になっていたのはレプリカだけではない。むしろ自分の方が卑屈になっていた。 レプリカなどに居場所を奪われたのではないという意地にすがって己の中に閉じこもって、自らを聖なる焔の燃えカスだなどと揶揄して被害者に甘んじることで取るに足らない自尊心を慰めていた。 七年前から時間を止めてしまったのは、ヴァンでもレプリカでもない、自分自身だった。 我ながら、おかしくなってくる。 レプリカが自分の身代わりをやめたときから、自分は燃えカスではなくなっていた。 被験者だろうとレプリカだろうと、名前がなんであろうと、自分が自分であると言う事実は変わらない。 先に気づいたのは、レプリカだった。 自分はそのことに気づかなかったのか、それとも気づいていても認められなかったのか。 口元にわずかに笑みが滲んだとき、開けられなかった小さな扉から、神託の盾兵が殺到してきた。 ローレライの鍵を奪わんがため、ヴァンはこの場に二重の罠を仕掛けていた。 あのヴァンが、このたった一本の剣を恐れているのだと思うと笑いがこみ上げてくる。 本当に、揃いも揃って間抜けな奴らばかりだ。 さあ「ルーク」、ヴァンに引導を渡して来い。 今のお前にならできるはずだ。 この自分が任せるのだから、失敗したらただではおかない。 「アッシュ…!」 何故そのように泣きそうな顔をするのか。 自立したと言ってもまだまだ甘ちゃんな「ルーク」にローレライの鍵を押し付けて、この墓場のように無機質な白い檻から叩き出す。 音を立てて閉じていく扉の隙間から、必死に振り切るように走り去る「ルーク」の背中が見えなくなるまで見守った。 背後には、神託の盾兵が迫っている。 扉が閉まる音が高い天井に重く響く中、ゆっくりと振り向いた。 神託の盾兵が、ぐるりと囲む。 「おまえらの相手はこのアッシュ…いや、ルーク・フォン・ファブレだ。」 地獄へ行ってもこの名を忘れるな。 |