眠れない。 目を閉じて、四肢の力を抜いて呼吸を深くしても、眠れない。 兵士として、いかなる場合にも睡眠をとれるように訓練したはずなのに、どうしても目が冴えて眠れない。 ティアは諦めるように小さく息を吐き、眠っているナタリアとアニスを起こさないようにそっと部屋を出た。 ケテルブルクの夜は、一面に降り積もる真っ白な雪のために、夜になっても不思議なまでに明るい。 月が雪雲に閉ざされていても、白銀の光を宿した雪が足元から優しく照らしているような街を一望できるテラスへ出る。 ここは高級ホテルとして名高いケテルブルクホテルだ。 本当ならばもっと安価な宿泊施設で充分なのだが、ジェイドの実妹がこの街の現知事であるという関係もあり、彼女の立場を考慮してこちらのホテルに泊まることにしている。 高級なだけに設備がどこよりも充実しているため、ルークやナタリアのような王族は特にここが気に入っているようだ。 白く凍えた息を吐き、街を見晴るかす。 リゾート地なだけにカジノがある辺りには深夜になってもきらびやかな灯りが灯っているが、この一帯には静寂が広がっている。 雪が総ての物音を吸い込んでしまったかのように、静かだ。 ティアは外殻大地に来るまで、雪を見たことがなかった。 二千年より以前は魔界でも雪が降ったのかもしれないが、この時代の魔界の空から落ちてくるものは、遥か高みにある外殻大地から降り注ぐ海の水が散ってできた霧だけだ。 知識として雪の存在を知ってはいたものの、初めて見たときは、その美しさにしばし時を忘れたものだった。 しかし今、しんしんと天から落ちてくる雪を見るティアの胸には、言い様のない悲しみが広がっている。 静かに舞い落ちる雪を掌で受け止めると、美しい形の結晶は、やがて溶けて水になった。 後から落ちてくる雪も、それに続くように溶けて消えていく。 生まれては消えていく氷の結晶の清廉なきらめきが、同じ運命を持つはかない命の光に重なる。 「ルーク…」 じっと差し出した掌が冷えるに従って、舞い落ちる雪は少しずつ命を永らえるようになっていった。 空を覆う暗灰色の雲を払えば、譜石帯が月明かりを受けて青白い輪郭を映し出しているはずだ。 この外殻大地が魔界へ落ちたことにより、以前より三万メートルも高い位置に見えているはずなのだが、百五十キロメートルから百七十や百八十に変わろうと、人間の目にはその違いはほとんどわからない。 その遥か虚空に点在する石のひとつひとつに、この惑星の運命が刻まれている。 そこに未来が書かれているのだと思えば、それを頼りに生きていけば楽だと考えてしまうのは、人間ならば仕方のないことだろう。 それでも自分たちは、敢えて預言に頼らずに生きていこうと決めた。 自分たちで考えて、選んで、もがき、足掻いて生きていく道を選んだ。 二千年もの間、人々は預言に従って生きることを当然とし、預言を絶対のものとしている魔界で育ったティアもそれが普通だと考えていた。 今にして思えば、ルークにもっと自分の頭で考えろだなどと説教できるような立場ではなかったということだ。 そのルークは、ユリアの預言にはない存在だった。 二千年の間に生まれ死んで行く、気が遠くなるほどの数の生命の軌跡を詠んだユリアが詠むことができなかった存在。 ヴァンが己の計画のために禁忌とされたフォミクリー技術をもって生み出した肉体に宿った、無垢なる魂。 それが、レプリカルーク。 ティアが知っている「ルーク」だ。 総てを確実に推し進めるヴァンが自ら作り出した、唯一の誤算。 人は変われるのだと、その身をもって示してくれた。 ルークがいたからこそ、時間はかかろうとも人類は預言のない世界を生きることができると信じることができた。 しかし同じルークを見つめてきたはずのヴァンは人の革新を信じられず、預言を憎み、その預言に依存する人間たちを憎むあまり、狂気の沙汰ともいえる企てを実行に移した。 ホドが消滅した頃、ティアが生まれるとほとんど同時期からヴァンの中で温められていた計画は恐ろしいほど用意周到に進められ、ついには莫大なレプリカを生み出し、ホドの大地さえ生み出すまでに至った。 預言に頼る人類を総て滅ぼし、レプリカによって預言の干渉しない世界を作ろうという計画の成就まであと一歩。 ぐずぐずしていては、手遅れになってしまう。 ヴァンを倒して計画を阻止し、ヴァンの中に囚われたローレライを解放してこの大地を救う。 それを果たさなければ、この世界中の命が失われてしまう。 もはや相手が兄だろうと、躊躇してはいられない。 むしろ愛する兄だからこそ、止めなくてはいけない。 そして自分には優しかった兄の思い出を胸に、その死を一人で背負っていけばよい。 総ての悲しみは、それで終わるはずだった。 預言に頼らない新しい世界に向かって、歩き出せばいいはずだった。 しかし、そこに待っていたのはさらなる深い悲しみだった。 せっかくレムの塔で助かったのに。 ルークの体から、音素が乖離していく。 普通の人間と違って第七音素だけで構成されているルークの体から音素が乖離していくということは、その存在が溶けゆくということ。 少しずつ、しかし急速に、雪雲から舞い落ちる雪のように音もなく静かに音素が散っていく。 掌に落ちた雪のように、ルークの命が消えていこうとしている。 どうしてこんなことになってしまったのか。 レムの塔で、一体何が起こったのか。 詳しいことはルークも話してくれないし、およそは推察しているであろうジェイドも教えてくれない。 もしあのとき、ルークとジェイドの会話をミュウがこっそり立ち聞きして教えてくれていなければ、ティアは何も知らずにルークという雪が溶けてなくなってしまう日を迎えるところだった。 ある日突然ルークがいなくなり、わけもわからずに呆然と立ち尽くしているところだった。 まさかティアとミュウに知られているとは知らず、ルークはジェイドに口止めをして、何事もなかったかのように振舞っている。 ルークは誰にも知られず、消えていこうとしている。 いつ消えてしまうかわからない恐怖に震え、たった独り、苦しんでいる。 しかしその事実を知ってしまっても、ティアには何も出来ない。その苦しみも恐怖も、代わってあげることも分かち合うこともできない。 平静を装って笑っているルークがいつ消えてしまうのか、怯えていることしかできない。 こうしている間にも、ルークの体から命が流れ出していく。 ルークは今、ちゃんと眠れているかしら。 朝になって、ちゃんと目を覚ましてくれるかしら。 朝を迎える前に溶けて消えてしまうのではないかしら。 そんなことを想っては、わめき散らしたくなる。 泣いても何も変わらない。 そうわかっているはずなのに、そう自らに言い聞かせて、何があろうとも歯を食いしばって生きてきたはずなのに。 ルークが、消えてしまう。 いなくなってしまう。 そう考えるだけで、心が引き千切れそうになる。 足元に闇より暗い闇が口をあけ、その深淵に引きずり込まれるような錯覚に陥る。 この残酷な運命を知る前に、日記を書きながらルークはこう言っていた。 いつか大人になって日記を読み返したとき、恥ずかしくないように生きたい、と。 少し恥ずかしそうに笑いながら、言っていた。 この世界を救い、仲間たちとともに生き、大人になれると信じて。 ごく当たり前の未来を信じて。 それなのに。 本当に、心から生きていたいと思うことができたのに。 レプリカではなく一人の人間として、変わることができたのに。 この世に生を受けてまだ七年しか経っていないルークは、この雪のように真っ白い無垢な子供と同じだった。 その子供が畳み掛けるような試練にさらされ、打ちひしがれ、それでも立ち上がって、ようやく歩み始めた矢先に。 怖いだろう。 悲しいだろう。 闇に怯える子供のように、その心は泣いて震えているはずだ。 本当に泣き叫びたいのはルークのはずなのに、想像を超える苦難に立ち向かう仲間たちを気遣い、ローレライに選ばれた存在であるという宿命を受け止め、笑っている。 誰よりも不安なのはルークのはずなのに、兄と戦わなくてはならないティアを一番に心配してくれる。 かつて、イオンが言っていた。 ルークは優しい、と。 それを表現することは確かに下手ではあるけれど、その優しさはずっと感じていた。 だから、ずっと見守っていることができた。 一緒にいられた。いたかった。 最愛の兄に裏切られ、刃を向けなくてはならなくなったティアの悲しみでずたずたになった心を何よりも慰めてくれたのは、その無垢な優しさだったのだから。 そのルークが、消えてしまう。 そう遠くない未来に。 一ヵ月後か、一週間後か、明日か、今か―。 ローレライよ、どうしてルークを選んだのですか? どうしてルークにこのような運命を与えたのですか? 私の大切なものは皆、この手から零れ落ちていくのですか? ティアは小さく体を震わせた。 今なお静かに白い雪が舞う暗灰色の空へ、そっと腕を広げる。 お願いよルーク。 どうか、あなただけは私の前からいなくならないで。 溶けていくあなたを抱きしめて放さないから。 溶けてしまっても、この虚空からあなたをかき集めてきっと呼び戻してみせるから。 私はあなたを見守っていくと約束したのだから。 ずっと、ずっと、側にいさせて。 あなただけは、消えないで。 |