その時にどのようなやりとりがあったのかは、知らない。 まだ社交界へも出ていない少女には、何も知らされなかったのだ。 両親たちの様子から、戦争が起きるのではないかという不穏な気配は感じていたが、ある日突然に屋敷を追われ、友達も失った。 その理由を知ったのは、それまでの屋敷とは比べ物にならないほど小さな家に、両親と古くからの使用人で逃げるように落ち着いたあとのことだった。 ホド戦争。 その戦争は、後のこう呼ばれるようになった。 数年前にマルクト帝国のガルディオス伯爵家へ嫁いでいった叔母ユージェニー・セシルは、ある密命を受けていた。 これから先に起こると預言に詠まれている戦争の際に、キムラスカ王国軍を手引きすること。 和平の象徴としての仮面をかぶった刺客。 それが叔母に与えられた役割だった。 しかしその使命を背負うには、叔母は優しすぎたのだ。 ガルディオス家にて一男一女を儲けた叔母は、密命に背いた。 その結果、叔母はガルディオス家もろともファブレ公爵によって滅ぼされてしまった。 そして戦争という非常事態の中、国内の連帯を強めるための見せしめとしてセシル家は裏切り者の烙印を押され、家門は閉ざされた。 インゴベルト王は、それでも一つだけ救済の道を残してくれた。 叔母の不名誉を雪ぐだけの、大功を立てること。 父は、死に物狂いで戦った。 しかし元々武よりも文の人であった故か、無理がたたって戦場で発病し、そのまま二度と戦線へは立てなくなってしまった。 それは娘しかいないセシル家にとっては、完全にお家再興の道を閉ざされたも同じことだった。 激流に翻弄されるかのような日々の中、懸命に父の看病を続けたが、父の容態は日に日に悪化していった。 失意の念が、父から生きる力を奪ってしまったかのようだった。 優しかった父が別人のように病み衰えていくのを見るのは、何より辛かった。 そしてついに父が危篤状態になったとき、その小さな胸にある決意を固めた。 昏睡状態からわずかに意識を取り戻したとき、骨と皮ばかりになった父の手を握り、 「お父様、私は軍人になります。そしてセシル家は私が必ず再興させてみせます。」 まだ小さな娘の手を、とても瀕死の状態とは思えない力で握り返し、 「おお…必ずや、セシル家を…頼む…ジョゼット…」 それから間もなく、父は息を引き取った。 妻と娘とわずかな使用人の他は誰も見送るもののいない葬儀をすませると、ジョゼットはすぐにも王国軍の幼年学校への入学準備を始めた。 母は当然反対し、ジョゼットが大人になってからしかるべき相手を婿に取り、その者にセシル家の再興を任せればよいと言った。 ただ一人の娘を案じる母親としては当然の意見だが、ジョゼットは耳を貸さなかった。 少しでも早く、セシル家を再興したかった。 それが父との最期の約束だったのだから。 無事に幼年学校へ入ってからは、死に物狂いで努力した。 たおやかな手に剣を握り、女という軍人としては不利な身でありながら、血を吐くような思いでこの世の総てと戦い続け、ついに少将という位まで上り詰めたのだ。 それでもまだセシル家再興に足るだけの功が足りないのか、未だ悲願はなっていない。 セシル家の不名誉を雪ぎ、もう一度表舞台へ返り咲かせるため、ジョゼットは己の総てを投げ打った。 そのためには、命など惜しくはなかった。 総領とはいえ自分は女なのだし、セシルの家は遠縁の男児でも養子に迎えて継がせればよい。 そんなジョゼットだから、当然自分の幸せなど考えたこともなかった。 あの男に出会うまでは。 空を見上げる。 瘴気に満ちた空はどんよりと濁り、空に輝いていた音譜帯は遥か彼方に霞んで見えない。 未だに夢を見ている気分だった。 絶対だと思っていた世界の総てが、大地と共に一気に崩壊したのだ。 戦争の真っ只中だった。 キムラスカの王女と伯爵家の御曹司をマルクト帝国に謀殺され、その報復の名の下にこの戦争が勃発した。 しかし死んだはずの二人がひょっこりと現れ、さらに預言に詠まれていなかった大地の崩落などという天変地異が襲い、もう何もかもが滅茶苦茶になっていた。 かろうじて助かったものの、いきなり魔界などという場所へ放り込まれたのだ。 大混乱の中、必死に理性を保ちながらわずかに残った部下とともに瘴気の中を彷徨っている最中、ジョゼットは青い空を見た気がした。 今や瘴気の彼方に失われてしまった抜けるように青い空と同じ色の瞳を持つ、マルクト帝国軍少将アスラン・フリングスに出会ったのだ。 崩落による混乱で外殻大地はともかく魔界では事実上戦争は中断しているものの、ジョゼットたちは形式上はマルクト軍の捕虜という状態になったが、アスランはことあるごとに臨時の収容所となった民家に足を運んでくる。 両国の状況や、魔界のこと、また何か困ったことはないかなどのこまごまとしたことまで、そんなことは部下にでもさせればよいものを、毎度少将であるアスランが自らやってくるのだ。 はじめは戸惑いもしたが、ふと気がつけば、それがいやでない自分がいた。 いかにも誠実そうな青い瞳を見ると、バチカルの港から見た青い空と海を思い出す。 白銀の髪を見ると、バチカルの城を照らす月を思い出す。 ジョゼットはいつしか、彼が来るのを待つようになっていた。 今日も、捕虜交換の日程が決まったとアスラン自らが報告にやってきた。 しかし何故か、そのあとの会話が続かない。 捕虜の交換がすめば、ジョゼットはキムラスカ陣営へ、アスランはマルクト陣営へと帰る。 そうなれば、こうして顔を合わせることはできなくなる。 少将でもあり女性でもあるため、他のキムラスカ軍兵士とは別にジョゼットに与えられた一室で、二人の間に瘴気を含んだ空気がどんよりと重く沈んでいる。 その沈黙に耐え切れず、ジョゼットはアスランの退室を促そうとした。 「では、その旨を部下に伝えますので…」 礼をして、背を向けようとする。 「…!」 それは衝動だったのかもしれない。 ジョゼットの腕を掴んだアスラン自身が驚いた顔をしていた。 「フ…フリングス少将?」 今までにない行動に、相手の意図を測りかねてどう反応してよいかわからない。 しかしアスランは、かえって腹を決めたようだ。 「セシル少将…いや、ジョゼット…!」 「!」 そのまま腕を強く引っ張られ、体勢を立て直す間もなくアスランの胸にぶつかっていた。 「え?な…」 突然のことに動揺するジョゼットを抱き締め、アスランはひとつ大きく呼吸すると、静かに、しかし熱のこもった声で語り始めた。 「君に初めて出会ったのは、戦場だった…」 それまではキムラスカ軍のデータとして、セシル少将という存在を知っているだけだった。 それが崩落の危機に際してルークたちがエンゲーブの人々をケセドニアに避難させる際、偶然鉢合わせたのだ。 後にビナー戦争と呼ばれる戦争の最中で、完全に敵国の軍人同士という立場だった。 そのときは、アスランはルークの身を、ジョゼットはナタリアの身を案じて、危険を顧みずに単身現れたのだった。 その時は仲裁もあり、二人は抜いた剣を互いに収めたが、内心その勇気と誠意ある行動に感服してもいた。 そしてその後、あの戦場の崩落が起こった。 セフィロトの力を利用してゆっくり降下させるとは言え、大地が三万メートル落ちて行くのだ。 あらかじめ知らされていたこととはいえ、その衝撃は計り知れないものがあった。 激しく鳴動する大地にしがみついているうちにやっとの思いで魔界に降下し、戦争どころではなくなった混乱の最中、孤立したキムラスカ軍を拿捕したと部下から報告があった。 その軍を率いていたのが、セシル少将だった。 恒例として捕虜の将と面会した際、混乱する部下たちをまとめ上げるその才覚とは何か別のものがアスランの心を捕えた。 それは初めて遭ったときにぼんやりと感じていたことではあったが、こうして改めて対面してみて、確信できた。 「君は凛として美しかった…しかし、今にも切れてしまいそうなほど、張り詰めているように見えた。」 戦争、崩落、魔界、敵軍による拿捕…それらとは違う、何か別のものに囚われ、追い詰められているような目をしているように思えた。 「君が…どうして軍人になったのか、聞かせてくれないか?」 「……」 今まで、誰にも語ることはなかった。 軍の上層部の者はセシル家の騒動を知っていたのだが、誰もその件については触れなかった。 気遣ったわけではなく、係わり合いになりたくなかったのだと思う。 何も知らない一般兵に、何故女性の身で軍に身を投じたのかと聞かれたこともあったが、それにも本当のことは答えなかった。 しかし今、ジョゼットは小さな声でぽつぽつと語り始めていた。 殺された叔母のこと、最期まで家門の再生を願った父のこと、今でもひたすら娘の身を案じている母のこと…。 それらのことが、溢れるように口をついて出てくる。 思えば、ジョゼットが軍人にならざるを得なかったのはマルクトとの戦争に起因しているのだから、それをマルクトの軍人に話すのは厭味とも受け取られかねないのだが、アスランは黙って聞いてくれていた。 ジョゼットも、一人胸の中にしまいこんできたことを話すことによって、体の芯で凝り固まっていたものがほぐれていくような気がした。 「だから私は…父や死んでいった叔母のためにも、セシル家を再興しなくてはならない…」 ようやく語り終えたときには、全身の力が抜けてしまったように感じた。 何故この男に、よりによって敵国の軍人に話してしまったのだろうか。そんな疑問と後悔の念がじわりと湧き上がってくる。 アスランはそんなジョゼットを抱き締めたまま、 「君はこの細い肩に…とてつもなく重いものを負っていたのだね…」 低いが、アスランの声は優しく染み渡るように響いた。 その瞬間、ジョゼットを瘴気よりも闇よりも濃く深く覆っていたものが、さっと流れて晴れた気がした。同時に疑問も後悔も、流れ去って消えていく。 今まで軍の中でひたすら男に負けぬようがむしゃらに努力し、女であることにむしろ煩わしささえ覚えていた。 それなのに今、男の胸に抱かれることの何と心安らぐことか。 安らぎ…。 あの日家門を没収されたときから、楽しかった記憶と共に過去に置き去りにしてしまった感覚だ。 アスランの人柄そのままに温かい胸から、少々高ぶっている心臓の鼓動が伝わってくる。 その確かな生命の鼓動は、崩落という天変地異の範疇を超えた未曾有の事態の中にあって、自分たちがしっかりと生きていると感じさせてくれる。 「私は…君を支えたい…もし代われるものなら、その重荷を背負いたいとも思う…」 …ああ… 今までジョゼットが忘れ去ってしまっていた温もりが、自ら戒めてきた想いが溢れ出し、頬を伝う。 寄せていた頬にそれを感じ取ったアスランは、かき抱く腕に一層力をこめ、 「私の心を捕えて放さないのは、キムラスカの軍人でもセシル家の娘でもない…君だ、ジョゼット…ジョゼットという女性なんだ!」 「…っ」 何を言おうとしたのかわからなかったが、その言葉はほとばしるような熱にふさがれ、喉の奥に封じ込められてしまった。 強張ったように体の脇で握り締められていた手が恐々と動き、ためらいがちにアスランの背中に触れる。 …私は…そうか… 震える指先が、青い軍服をぎゅっと掴み締めた。 どれだけの時間、そうしていたろうか。 その唇から熱が去った途端、ジョゼットはその場に崩れ落ちそうになる足を必死に踏みしめなくてはなかなかった。 「…少々取り乱してしまった。」 激情のままに動いてしまったことを少々恥じているのか、浅黒い頬に血の色が上っている。 しかしそれはジョゼットも同じことだろう。 いや、もっとすごいことになっているかもしれない。 今ここに鏡がないのが幸いだ。 「……わた…しは…」 声が震えている。 幼い頃から己に課した責任と、女としての想いが激しく乱れ、もつれ合う。 よろけるように一歩後退り、 「…私…は…セシルの家を…再興しなくては…」 ネジを巻けば自動的に再生される音声のように、呟いた。 それが、亡き父の悲願なのだ。 一人待つ母のためにも、叔母の名誉のためにも、必ず成し遂げねばならないと己の魂に刻みつけたはずだ。 そのために、人として、女としての総てを捨ててきたのではないか。 唇を噛みしめ、悲壮な決意を滲ませるジョゼットに、アスランは痛ましいものを見るように眉根を寄せ、そして微笑んだ。 この人は自分と同じく軍人として生きているはずなのに、何故こうも優しい目をしているのだろう。 しかし今、その目を合わせることができない。 青い空と海の色をした瞳を己の鳶色の瞳に映す資格は、ない。 「国に益する功を立てられるのは、戦場だけではないはずだ。慌てることはない…いつかきっと、想いが総てを乗り越えられる時が来ると、私は信じている。君もそう信じてほしい。」 目に見えない何者かの手によって締め上げられているかのように苦しい喉から、声を振り絞った。 「平和が訪れることを…私も望んでいます…フリングス少将…」 意識的に「少将」を強く言うと、肩越しに振り返ったアスランが少し寂しげに笑った気がした。 静かに扉が閉まり、アスランの靴音が遠くなっていく。 誰もいなくなった部屋で、ジョゼットはその場に崩れ落ちた。 「…ごめん…なさい…」 どうしても、棄てられなかった。 何もかも投げ出してその胸に飛び込んでしまえば、どれほど楽であったろう。 それが、できなかった。 その想いに応えることができなかった。 国に益する功を立てられるのは、戦場だけではない…と、アスランは言った。 本当だろうか? もし功を立てられるような戦争を望むなら、マルクトと戦わなくてはならない。 それは即ち、アスランと剣を交えるということだ。 果たして今の自分にそれができるだろうか。 しかしできなければ、セシル家の再興はない。 「ああ…アスラン…アスラン…私は…」 いつか本当に、アスランの信じるような世界が来るのだろうか。 それを自分は信じることができるだろうか。 もはや、預言は崩された。 自分の未来を知る術は、その目で歩み見ることしかない。 信じたい。 もう一度その胸に抱き締められる日が来ることを。 一族の悲願と、一人の女としての想いの狭間で迷い、揺れ、嵐の中の木の葉のようにもみくちゃになる。 …私は…どうすればいい? ジョゼットの心は魔界よりもなお深い深淵へと沈んでいった。 |