時折冷たいものが顔に触れ、撫でていく。 だがそれは、不快どころか心地よく、冷たいはずなのに温もりさえ感じた。 温もり? 温もりって何だっけ? 温度が高いということか。 いや違う。何かもっと別の意味があったはずだ。 思い出そうとしてみるが、ぼうっとしてうまく頭が働かない。 でも、何故か胸の奥がちりちりと痛む気がして。 朦朧とする意識の中でそんなことを考えているうちに、また心地よい冷たさを顔に感じ、俺の意識は闇の底に引きずりこまれていった。 家族の思い出。 そんなものはいつの間にか、消し飛んだ。 唯一覚えているのは、かつて家だった瓦礫の山だけ。 おそらくその下に、「家族」がいたのだろう。 家族の思い出というものは、きっとそのとき一緒に瓦礫に埋もれてしまったのだと思う。 だから俺には、「家族」というものの感覚がわからなかった。 もし家族を失ったあとに普通の孤児として生きていれば、その思い出は失われなかったかもしれない。 しかし、自分は違った。 まだ瓦礫の下で燻る炎が焦げ臭さを充満させる村の中、寒さに震え、飢えから雑草まで貪っていた俺たちの前に、あいつらはやってきた。 一目で軍とわかる赤い鎧に身を包んだ奴らは、大きな乗り物に村の生き残りの子供たちを詰め込んでいった。 まともな状態ならば怯えて逃げようとしたであろうが、この寒さと飢えを凌げれば、どこでもよかった。 言われるままに、既に大勢の子供がひしめく荷台に乗り込んだ。 そこには簡素ではあったが、寝床と食べ物が確かにあった。 それなのに、大部屋にいる子供たちの誰の顔にも、笑顔はなかった。 そこは養護施設でもなんでもない、少年兵養成のための特務隊の施設だったのだから。 クルザンド王統国は、長いこと続けている戦争のために常に兵士を必要としていた。 成人の男たちを既に狩り尽くした今となっては、子供でも戦力になるものは利用せざるを得なかった。 訓練は厳しかった。 本来ならば学校へ通い、友達と日が暮れるまで遊んでいる年頃に、俺たちは戦術と人を殺す術を学んでいた。 ある日突然姿を見なくなった者もいた。あとで知ったことだが、訓練の途中に死んでしまったり、辛さから脱走しようとして捕えられ、処刑された者がいたということだ。 日々の訓練の中で戦力になると認められれば食事もいいものに変わり、待遇もよくなっていく。 しかし俺は、そんなことはどうでもよかった。 ただ生きるために訓練をこなしているだけだった。 その日その日を生き永らえるためだけに動いているうちに、いつしか考えることをやめていたのかもしれなかった。 ある日俺は担当教官から、おまえには爪術の素質があるのだと言われた。それもアーツ系という、最も兵士向けの力なのだという。 爪術についての勉強はしていた。 この力が使えると使えないとで、個人の戦闘能力に格段の差が出る。 検査結果によって爪術を使える者とそうでない者とに振り分けられた。 前者はいわゆるエリートコースと言ってよかった。 軍での栄達だとかそんなものに全く興味のなかった俺だが、気持ちと力は反比例していたらしい。 将来の幹部を目指して死に物狂いになっていた仲間の中、あっという間に頭角を現したのは、俺だった。 まだほんの小さな子供に過ぎなかったのだが、俺の拳は大人の爪術士さえ凌ぐほどの破壊力を持つに至った。 今すぐにでも実戦に投入できる爪術士の誕生に教官は喜んでいたが、それはその教官の実績が上がることを喜んでいただけで、俺個人とは全く関係のないことだった。 クルザンド王統国軍最年少の爪術兵士となっても、俺には何の感慨もなかった。 俺は、戦闘人形だった。 ランプの火が揺れる部屋の真ん中に、大きなテーブルが置かれていた。 その上にはテーブルを覆うほどの地図が広げられ、それを数人の男たちが囲んでいた。 上座に座す巌のような巨躯の持ち主は、このクルザンド王統国の第三王子ヴァーツラフだ。 彼は情報部から伝えられた調査結果に、じっと耳を傾けている。 第三王子でありながら彼が王位を狙っているのは誰の目にも明らかだが、王や兄たちはヴァーツラフを恐れ、何も言えなかった。 本当は暗殺してしまいたいのだろうが、強力な爪術士でもあるヴァーツラフを失うのは、戦争中である今の状況では難しかった。 「大陸西部にメルネスが隠れているという情報は、確かなのだな?」 メルネスは、煌髪人の中で最も強い力を有し、この世界のどこかを漂流し続ける遺跡船を操ることのできる者のことだ。数千年に一度現れるというメルネスが、十年ほど前にこの世に生まれてきたという。 そのメルネスを手に入れ、はるか四千年昔にこの大地の半分を海に沈めたという遺跡船の絶大な力を使い、世界を手中にすることが目的だ。 「は。実際に煌髪人の集落は確認できておりませんが、不自然な空間の歪があるとのことです。おそらく奴らは、結界にて隠れ里を隠しているのだと思われます。」 「結界の解除方法はわかっているのか。」 「条件さえ揃えば、結界が弱まった隙に侵入は可能だと思われます。ただし、軍勢等の大きな質量が抜けることは難しいと思われます。」 「ならば工作員を一名潜入させ、メルネスを確保してくればよい。適任者はいるか。」 「潜入したあと、まずはメルネスがどの者かを確かめる必要があります。そのためには、隠れ里をしばらく調査できる者を選ぶべきかと思われます。」 そのとき、特務隊隊長の男が立ち上がった。 「はっ。それにつきまして、考えがあります。まずは、煌髪人に警戒心を抱かせない者。そして子供であるメルネスに近づきやすい者。その条件から、老人か子供がよいかと思われます。しかしそれだけの任務をこなせるほどの老兵はいくら包み隠しても眼光に常人と違うものがあり、かえって相手の警戒心を煽ってしまう可能性があります。」 「となると、子供か。既に適任者に心当たりがあるようだな。」 「はっ。うってつけの者が我が隊に一名おります。」 「ほう、何という者だ。」 「アーツ系爪術士として最年少で軍に正式配属されました、セネル・クーリッジ。」 特務隊隊長は、にやりと笑った。 俺が聞かされた任務の内容は、二つだけだった。 まずは、煌髪人の隠れ里に潜入、メルネスを探し出す。 そしてメルネスを確保次第、脱出。 それだけ聞けば、ごく簡単な任務のようだった。 しかしその潜入が一番厄介だった。 煌髪人が張った結界は、そのままでは通ることはできない。 張った本人がそれを解くのが一番簡単だが、ひっそりと隠れ住む彼らがそう簡単に結界を解くはずがない。 他の手段としては、嵐など大気が不安定なときに、磁場の影響などで結界にも歪が生じることがある。その隙を狙うしかない。 だから俺は嵐の日を選び、正確にはどこにあるのかわかっていない隠れ里に潜入しなくてはならないのだ。 その準備は入念に行われた。 ごく普通の少年が着ている衣服に着替え、目標地点よりはるか手前で車を下ろされた。 ここからはただ一人、隠れ里を目指さなくてはならない。それも、ひどい嵐の中をだ。 俺はほとんど本気で遭難しそうになりながら、必死に嵐の森を突き進んだ。 雨が降っているので飲み水は若干でも口に出来るが、何日かかろうとも食事は禁止されていた。目的地にたどり着いたとき、敵を油断させる手段のひとつとして、衰弱状態にしておくためだ。 過酷な条件の中、空腹で目が回りそうになりながら進んでいくと、木々の切れ間から湖が見えた。 煌髪人は水生人。 隠れ里を作るにしても、きっと水の側に近いだろう。 それならばあの湖に行けば、隠れ里が見つかるかもしれない。 俺はすぐ側を流れていた渓流に身を投じた。 嵐で折れたらしい倒木にしがみつき、そのまま湖まで流れていく。 疲れ果てた体を流木に任せていた俺は、いつどのようにして結界を破ったのか、わからなかった。 ただ、一瞬何かにぶつかったような衝撃を感じて、顔を上げたときには先程見た光景と全く異なるものが広がっていた。 自分たちの住む住居とは違う建物が、こじんまりと並んでいる。 俺は岸に流れ着いた流木から体を起こし、湖の冷たい水から上がろうとした。 しかしそのとき、ふいに視界が大きく揺れた。 何が起こったのはわからなかった。 ただ、大きく傾いて急激に暗くなっていく視界の中、金色の髪の女の子が驚いた顔を見たような気がした。 深淵に沈み行くままに身をゆだねていたところを、いきなり掴み上げられたように意識が浮上した。 「…!!」 見開いた目に映ったものは、薄暗い天井だった。 その天井に、見覚えはない。 周囲の様子を見ようと首をめぐらそうとしたが、体の節々が痛み、鉛のように全身が重い。 どうやらベッドに横たわっているらしい俺は、一体どうしたのだろうか。 確か… 考えようとすると、頭がひどく痛んで考えがまとまらない。 しかも痛みとともに襲ってきたひどい眩暈に低くうめいたとき、 「ああ、やっと気がついた!」 明るい、ほっとしたような女の子の声がした。 「!」 思わず体を跳ねさせた俺のもとへ、その声の主が近づいてきた。 それは、同い年くらいの女の子だった。 きらめくようにきれいな金色の髪をした女の子は、優しく微笑んで俺の枕頭へやってきた。 「大丈夫、怖がらないで。もう嵐は過ぎたから。」 え… 怖がる? 俺が? 意外な思いに目を丸くしながら、改めてその女の子を見た。 人形のように整った顔立ちのその子をどこかで見たような気がするが、思い出せない。 しかし俺は、その子の服装を見て思わず声を上げそうになった。 それは、俺たちのものとは少し違っていた。 白と青を基調とした繊細な生地で作られた衣装は、聞いていた煌髪人のものに違いなかった。 ということは、潜入に成功したということか。 まさか、そのときに敵に捕まったのか? がばと身を起こそうとすると、その子は俺をそっと押さえ、 「だめよ、まだ寝てなくちゃ。」 年は違わないであろうにまるで姉が弟をたしなめるかのように言って、俺の額に固く絞った布を当てた。 ひんやりと冷たいその感触に、どきりとする。 朦朧と意識を泳がせていた俺の顔に触れた、あの心地よい感触そのものだったから。 その子は俺の額に小さい手を当て、 「ほら、まだこんなに熱がある。」 言われてみれば、その手も冷たく感じる。 そうか、俺は熱を出して倒れていたのか。だからこんなに体がだるく、頭も痛んだのかと納得できた。 しかし熱を出すなど、あの日軍に連れられて来て以来、ないことだった。 それ以前はあったのかもしれないが、わからない。 この子は俺をずっと看病してくれていたのか。 俺の奥底で、ちり、と火が爆ぜたような感覚を覚えながら、本来の目的のことを考えた。 目的地に潜入できたとなれば、まずは任務の第一段階は成功だ。 あとは… 混濁しそうな思考を必死に引き締め、潜入後の作戦を脳内で反芻する。 まずは煌髪人たちを油断させ、誰がメルネスかを特定しなければならない。 そのために用意していた自分の状況説明を、間違えないように復習する。 俺は、戦争によって家族を失った。これは事実なので、間違えようがない。 そして戦火を逃れて逃げる間に、見たことのない場所に来てしまった。この部分さえ間違えなければいい。 曖昧な方が、かえって偶然の事故としての説得力が増す。 それに俺はまだ子供だ。そう深く追求もされないだろう。 「お腹すかない?何か食べられそう?」 だがこの子は、俺がここに来た理由など今はどうでもいいようだった。 言われてみれば、確かにお腹がすいている。そういえばこの任務についてから、一度も食料を口にしていないのだ。 それにこの子が用意するものなら、安心して食べられそうだ。 俺は、素直にうなずくことにした。 「よかった、スープを温めておいたから、今持ってきてあげるわね。」 俺がいつ目を覚ましてもいいように、あらかじめスープを用意してくれていたのか。 ミトンをはめた手でストーブの上から小さな鍋をいそいそと持ってくるその子を見ているうちに、胸の奥がちくりと痛んだ。 その子の手を借りて上体を起こし、スープを飲む。 「どう?飲めそう?」 「…おいしい…」 それは何の策略とも関係のない、素直な感想だった。 そしてここに来てから初めて発した言葉でもあった。 疲れきった体が栄養を欲していたのか、黙々と飲んでいるうちにすぐに空になってしまった。 「その調子なら大丈夫そうね。またあとで作ってきてあげる。」 ここは長の家だから、体が良くなるまでゆっくり寝ていて大丈夫よ、と歌うように言う。 なるほど、潜入したはいいが熱を出して倒れてしまった俺は、いきなり敵の親玉のもとへ転がり込んだというわけか。 しかしここには、長と呼ばれている者の姿はない。俺とこの子の他に、人の気配はない。 いきなり懐に飛び込んできた煌髪人ではない怪しい俺を、この子は何も言わずに優しく世話してくれている。 心底嬉しそうな彼女の笑顔を、俺は正視できなかった。 「そういえば、まだあなたの名前を聞いてなかったわ。私はステラ。あなたは?」 「俺は…」 何かが俺の中で首をもたげようとしている。 それは戦塵の彼方に埋もれてしまった、遠い記憶か… 胸の奥の痛みが、錐を刺すようにひどくなってくる。 「…セネル・クーリッジ。」 …君を、騙すために来た。 |