重い扉を閉めると、そこは周りの壁と全く区別のつかない単なる壁となった。 この先に隠し通路があることを知っているのは、屋敷の一部の人間だけだ。 分厚い隠し扉を閉めてしまえば、泣き叫ぶ妹の声も必死に走る足音も聞こえなくなる。 もっとも聞こえたとしても、周囲の怒号と炎の音に掻き消されてしまっただろうが。 深く息を吐き出し、剣の柄を握り締める。 今日この日ほど、武術に興味を持たず、最低限の剣術しか身につけなかったことを悔んだことはない。 父は、既に殺されていた。 母も先程、焼き殺された。 半狂乱の妹を抱え込んで走り、侍女たちとともに隠し通路に強引に押し込んだのが、つい今しがたの出来事だった。 「お兄様!!どうか私といらして!私を独りにしないで…!」 妹の悲痛な叫びも、心を鬼にして突き放した。 自分も一緒に逃げては、必ず追っ手がかかる。敵は自分たちを皆殺しにしたいのだ。嫡男である自分が逃げおおせるわけにはいかない。 それに、両親の仇に一矢でも報いたかった。 仇は、この炎の向こうにいる。 走り出そうとしたとき、 「若様!」 若い女の声がその足を止めた。 はっとして振り返ると、そこには一人の侍女がいた。 「アメリア!?そのドレスは…」 まだ若い侍女は、侍女のものとは違う衣装を着ていた。 アメリアは妹のドレスを着ていたのだ。 その姿を見た瞬間、心臓が凍るのを感じた。 「何をしているんだ、早く逃げろ!」 その言葉にも、アメリアは動かない。主人が命令しているのに、静かに首を横に振るだけだ。 「若様…フィオール様、他に方法はないとおわかりでしょう?」 「しかし…!」 フィオールの優しげな顔が、苦痛を感じたかのように歪む。それに対してアメリアは微笑み、 「私が姫様のお身代わりとなります。」 アメリアが妹のドレスを着ているのを見た瞬間にわかっていたことだが、その言葉は聞きたくなかった。 「だめだ…逃げろ!逃げてくれ!頼む…」 アメリアの手を掴み締めて搾り出す言葉は、主人が侍女へ下す命令ではなかった。 一人の青年の必死の懇願だ。 「フィオール様は死ぬ気でいらっしゃるのでしょう?私…あなた様がいらっしゃらない世界でなど、生きてゆけません。ご一緒させてくださいまし。」 「アメリア…!」 フィオールはアメリアを抱き締めた。 妹よりも少し年上だが、背格好は一番似ている。それが今、このような事態を招くとは。 「…端女に過ぎない私を愛してくださったあなた様にお仕えできたことは、何よりの幸せでした。」 「だめだ…君が犠牲になってくれたとしても、敵はあの子の顔を知っている。すぐにばれてしまう!」 「ご心配には及びません。」 フィオールを押しのけ、後退ったアメリアの背後で、炎が燃え盛っている。フィオールの全身に電流が流れた。 「やめろ!やめてくれアメリア!君には生きていて欲しいんだ!」 「さようならフィオール様…いえ、フィル…愛しています…心の底から、あなた様のことを…!」 さながら嫁いでいく娘のように幸せそうな笑みを浮かべ、アメリアは炎に身を躍らせた。 「アメリア!!!」 豊かな金色の巻き髪が一気に燃え上がる。 手を伸ばそうにも、ドレスに燃え移った炎に阻まれてしまった。 「アメリア…アメリア!愛しているよ!僕の妻となるのは君だけだ…!待っていてくれ、僕もすぐに君のところへ行くから…」 炎の中、アメリアが微笑んだように見えた。 フィオールは煤だらけの頬を流れる涙を袖で拭った。 この炎の向こうには、仇がいる。 父と、母と、愛する女の仇。 …愛する僕の妹よ、独りぼっちにしてすまない…おまえだけはきっと生き延びて幸せになってくれ…フィリアン! フィオールは剣を握り締め、炎を飛び越えて走り出した。 |