花が少しずつ咲き始めた季節とはいえ、日が暮れるとまだ肌寒い。 「夜は寒いわ。ちゃんと温かくした?」 大工仕事の傍ら自警団に所属し、今日は夜警に出る兄のために上着を暖炉の火で温めながら、仕度をする背中に声をかける。 「そんなに着膨れちゃ、かえって汗かいちまうよ。」 「でも…」 「ソフィは心配性だな。」 「シルヴァンに言われたくはないわ。」 頬を膨らませ、兄に上着をわたす。 八つ下の妹は先日十六歳になったとはいえ、まだどこか子供っぽいところがある。 両親を早くに亡くしたせいか、シルヴァンは自分が妹を守らなければという思いが人一倍強い。 妹というよりは娘のようなソフィの頬にキスをする。 「戸締まりはしっかりしとけよ。」 「行ってらっしゃい。気をつけてね。」 出掛ける兄を見送り、扉を閉めた。 夜になって風が出てきたのか、建てつけの悪い窓枠がかたかたと小さな音を立てている。今度兄に直してもらわなければなどと思いながら、繕い物をする。 兄のシルヴァンは、すぐにシャツの袖口をほつれさせる。 人のことをいつも子供っぽいなどというくせに、自分こそいい年をしてやんちゃなのだから。 いつまでも妹にこんなことをやらせていないで、お嫁さんをもらえばいいのに。カフェのオルガといい仲なのは知っているのだ。あまりいい気になってふらふらしていると、辛抱強く待ってくれている彼女にも愛想を尽かされてしまうから。 「…なんて、やっぱり私も心配性なのかしらね。」 きれいに直したシャツを畳んで片付けてから、洗った籠を外に出しっぱなしにしてあったことを思い出した。湿気てしまう前に中にしまわなくてはと、扉を開けようと手前に引いたときだった。 いきなり外から扉を開けられ、人が押し込んできたのだ。 外套も帽子も黒ずくめで、顔には舞踏会で使うような仮面をつけている。 驚いて声を上げるより先に口を塞がれ、 「驚かせてごめんね、少しだけ匿って。」 仮面の奥から囁いた若い男の声は、恐ろしげな姿には不似合いな、優しい響きを持っていた。 恐る恐る眼を上げると、仮面の奥に覗くラベンダー色の瞳と視線が合った。 そして気がつくと、ソフィは頷いていた。 すると男はほっとしたように、口を覆う手を離してくれた。 間もなく、外に大勢の慌しい足音が聞こえてくる。 ソフィが咄嗟に扉の閂をかけて仮面の男に奥の扉に入るように言った直後、激しく扉を叩いてレバーハンドルを動かそうとする音がした。 「おい、俺だ!開けてくれ!」 シルヴァンの声だ。 「…どうしたの?忘れ物?」 少し間を置いて答えた自分の声は、我ながら驚くほど落ち着いていた。 内側から閂をかけているため、鍵を持っていても外からでは開けられない。 妹の穏やかな声に少し安心したのか、はじめほどの慌しさは消え、 「こっちの方に夜盗が逃げてきたんだ。何も変わったことはないか?」 「え?ごめんなさい、全然気づかなかったわ。」 「一人で大丈夫か?とにかく、開けてくれ。」 「いやよ、他に人がいるんでしょ?もう寝間着に着替えちゃったから、見られたらみっともないわ。」 どうやらその言葉で納得してくれたらしい。何より大事な妹の寝間着姿を他人に見られて平気な兄ではないとわかっている。 「…いいか。朝になって他の人が出てくるまで、絶対に扉も窓も開けるんじゃないぞ。」 「うん、わかったわ。怪我しないように気をつけてね。」 妹の気遣う言葉を素直に受け止めているであろう兄に申し訳なく思いつつも、扉に耳をつけて様子を伺い、石畳を蹴る自警団の足音が遠ざかって何も聞こえなくなったのを確かめてから奥の扉をそっと開けた。 「もう大丈夫よ。」 そう言うと、男は仮面の奥で、ふう、と息を吐き出した。 その吐息がどこか苦しげに聞こえた。 「ありがとう…おかげで助かった。」 立ち上がった彼の右腕がだらりと垂れ下がっているのを見て、思わず声を上げる。 「怪我してるの!?」 「さっき撃たれただけ。」 「だけ!?何言ってるのよ、早く手当てしなくちゃ!」 突然押し入った自分を恐れるどころか心配してくれる少女に呆気に取られながら、 「君のお兄さんは自警団なんだろ?そんなところに隠れようとした俺もマヌケだけど、どうしてそんな親切にしてくれるの?」 「あなたの目はとても悪い人に見えないから。」 きっぱり言い切られ、言葉に詰まる。 「ほら、早く傷を見せて。」 「……」 男は、帽子と仮面に左手をかけ、取り去った。 輝くような金色の長い髪が流れ落ち、端正な若い男の顔が現れる。 黒ずくめの衣装とは対照的だった。 なんてきれいな人なのだろうと、思わず見とれてしまう。 そしてその澄んだ瞳を見て、やはり自分の判断は間違っていなかったと思った。 ラファエルと名乗った彼に、自分もソフィだと名乗った。 黒い外套を脱ぎ、痛みをこらえるようにしてシャツを脱ぐ。 引き締まった彫刻のように美しい体に、思わずどきりとする。思えば男の体を見るのは、うんと小さい頃に兄の着替えを見て以来だ。 しかしその動揺も、撃たれた傷を見てすぐに引っ込んだ。 その右腕には赤黒く穴が穿たれ、鈍く光る鉛玉がめり込んでいた。 「たいへん!すぐお湯沸かしてくるから!」 鉄瓶に入れた熱湯と、消毒用の酒や薬を急いで持ってくる。 「兄の仕事柄、怪我にはいつでも対応できるようにしてあるの。」 「自分でやるから、君は向こう向いてて。」 ナイフを借りてその刃を火で炙ってから、弾丸を抉る。 見るなと言われても、思わず横目で見てしまったソフィの顔から血の気が引いていく。痛みをこらえながらも苦笑して、 「だから見ちゃだめだって。」 弾丸を抉り出したあとに、ソフィは慌てて消毒をする。そちらの方が痛いのか、ラファエルの美しい顔が歪む。 「大丈夫?痛い?」 「…これくらい大丈夫。」 血を拭って傷薬を塗り、包帯を巻いていく。 白い包帯を巻きながら、ソフィは自分の行動の奇妙さを、改めて思う。 このラファエルという男は、つい先程自分の家に押し込んできた不審者だ。あの出で立ちからも、兄たちが追っていた夜盗だとわかる。 それなのに、この静かな時間は何なのだろう。 自分を捕えようとする自警団員の家でその妹に傷ついた身を委ね、不安がる素振りも見せずに黙って腕を差し出している。 しかしそれを奇妙だとは思わせない雰囲気を、この男はまとっている。 不思議な人だと思った。 「ありがとう。おかげで助かった。」 包帯を巻いてもらった腕が動くのを確かめてシャツを着ようとするのを止め、 「待って。あなた、その格好じゃすぐに怪しまれちゃうわ。」 ちょっと待っててね、と言って部屋を出て行き、間もなく男物の服を持って戻ってきた。 「これ、兄のなの。あなたと体格が似てるから、着られるはずよ。」 自警団が追うのは黒ずくめの男だ。普通の衣服を着た青年ならば怪しまれまい。 ラファエルはは目を丸くしながらも、それに着替える。そして自分が着ていた服は彼女に迷惑をかけないよう、暖炉で燃やした。 気がつけば空は白み始め、朝が早い人々の気配が感じられるようになってきた。 「君には感謝の言葉もないよ。今度、この服を返しに来るから。」 ソフィが扉を開けて外の様子を伺ってから、ラファエルを外に出す。 微笑んで去っていくのを見送り、扉を閉めると、いきなり両膝から力が抜けてその場にへたり込んだ。 心臓が激しく脈打っている。 怖かったわけではない。 別の意味で、心臓が暴れている。 それでも深呼吸を繰り返してなんとか立ち上がり、シルヴァンが帰ってきたときに怪しまれないように、急いで薬などを片付けた。 それからの日々は、あの夜の出来事が夢だったかのように、いつもと変わらぬ平穏なものだった。 あの日、夜が明けてからいつもより遅く帰ってきた兄は結局一晩中走り回ったのか、疲れ果ててそのまま寝てしまい、服が一着なくなっていることも未だに気づかないでいる。 あの晩に飛び込んできたのは、名前の通り本当に天使だったのではないか。 自分にしか見えなかった幻だったのではないかとさえ思えてくる。 そうこうしているうちに一週間があっという間に過ぎ、また兄が夜警に出る日になった。 夜盗を取り逃がしてしまったので妹を一人残すのが心配なのか、今日も戸締りのことをしっかりと言い残して出かけていく兄の背中を後ろめたい思いで見送る。 兄の注意に背き、閂はおろさなかった。 もしかして、あの天使がまた舞い降りてきてくれるのではないか。 確信はないが、予感のようなものがあった。 そして夜も更けた頃、扉をそっと叩く音がした。 暖炉の前で暖めたミルクを飲んでいたソフィの耳はそれを聞き逃さず、弾かれたように立ち上がって扉に駆け寄る。 「…どなた?」 高鳴る胸を押さえつつ声をかけると、 「ラファエルだよ。」 その声に、心臓が跳ね上がった。 レバーハンドルを動かすわずかな間ももどかしく扉を開けると、今日は黒装束でも仮面姿でもない、ごく普通の青年がいた。 間違いなく、ラファエルだ。 天使は再びソフィの前に降り立ってくれた。 招き入れられたラファエルは、包みを差し出した。 「これを返しにきたよ。」 それは先日ソフィから借りた服だった。 「え…わざわざ?兄は気づいてないのよ。」 ラファエルは少年のようにいたずらっぽく微笑み、 「だってこれがないと、ここに来る口実がないかと思って。」 再び心臓が跳ね、頬が熱くなる。 ラファエルを暖炉の前へ通すと、長椅子を勧めた。 彼は魅力的なラベンダー色の瞳でソフィを見つめ、 「言い訳ってわけじゃないけど、俺がどうしてあんなことしてたか、教えてあげる。」 あんなこととは、盗賊ということだろう。 ソフィは彼の隣に座った。 ラファエルの本職は、数年前に亡くなった親から継いだ帽子屋だそうだ。まっとうな商売をする彼が何故そんなことをしたかというと、きっかけは店によく来てくれる老女の嘆きだった。 強欲な商人に騙され、財産をほとんど奪われてしまったというのだ。 まだラファエルが幼い頃に店番をしていると、お菓子をくれたりした優しい老女が受けたひどい仕打ちに、彼は憤った。 その金を取り返してやろう。 生来すばしこかったラファエルには、屋敷に忍び込んで金を取り返してくることなど、たやすいことだった。 翌朝、家の前に置かれた袋の中に奪われたはずの金を見つけた老女は驚いて喜び、家の前に跪いて神に感謝の祈りを捧げていた。 その話を老女から聞いたときは、何食わぬ顔をして一緒に喜んでみせた。 それから、同じように罪なき者から金を騙し取った者から金を取り返すことを、三度ほどやった。 その三度目の夜が、あの晩だった。 逃げる際、巡回中の自警団に見つかって撃たれてしまったのだ。ちなみにそれはシルヴァンではないそうだ。そのあとのことは、ソフィがよく知っている通りだ。 「…あれからはやってないし、もうする気もないよ。」 「そう…よかった。もっと危ない目に遭ったらたいへんだもの。」 心底、ほっとした。 やはり彼は悪い人ではなかった。 弱き者を助けるためにつかわされた天使なのだ。 しかしラファエルは大きく溜息を吐き、 「でも大変なことに、今度は俺が盗まれちゃったんだ。」 「え!?」 「しかも俺のものを根こそぎ、全部。」 「そんな!なんてこと…」 本気で心配そうなソフィに向き直る。 「君がね、全部盗ってっちゃったんだ。」 「…私?」 きょとんとするソフィの琥珀色の瞳を見つめ、その華奢な体を抱き締めた。 「俺の心を全部、君に持ってかれた。俺はねソフィ、君が好きなんだ。」 「…っ」 跳ね上がった心臓が頭を突き抜け、空に舞い上がっていく。 ああ、どうしよう、どうしよう… 「私も…きっとあのときあなたに全部盗まれたんだわ…私もあなたが好きだもの…」 そう。あの瞬間、自分はラファエルに一目惚れした。 だからあのとき、この人を助けたのだ。 胸に溢れるこの感情をどう表現してよいかわからず、言葉を探すうちに唇を塞がれた。 初めての口付けに頭の芯がとろけ、総てが真っ白になっていく。 まるで輝く翼に包み込まれたようだった。 私はあなたが好き…!愛しているわ、私の天使… ためらいがちにその背中へ腕をまわした。 |