Atonement -贖罪-



 カフェのカウンター側の席は、シルヴァンの指定席だ。
 そしてその隣がオルガの指定席になっている。
 働きながらもわずかな隙を見つけては、シルヴァンの傍らへやってくる。
「ねえシルヴァン、この間ソフィに会ったわ。」
 オルガはソフィと顔馴染みで、けっこう仲がいいことは知っている。
「あの子、ちょっと見ないうちにものすごくきれいになったわね。」
「…そうか?」
 何気ない素振りでカップを口に運んでいたが、
「本当にきらきらして…恋でもしてるのかしら。」
 思わずコーヒーを噴き出しそうになった。
「あら、どうしたの?」
「だ、だってなあ…!」
「だってったって、あの子も十六でしょ?好きな人ができてもおかしくない年頃だわ。」
「…っ」
 確かに、ソフィが成長するにつれて懸想する男たちが増えてきた。彼らが何とか言い寄ろうとしては、シルヴァンに弾き飛ばされているのが現状だ。
「いや、そんなはずはない!いや、だめだ!」
「なんで?」
「あいつには、俺がちゃんとした相手を見つけてやる。そこらへんの男になんか絶対にやらん!」
 オルガは呆れたように肩をすくめ、
「嘘おっしゃい。あいつもだめ、こいつもだめって言って、結局は嫁き遅れにしちゃうに決まってるわ。」
「………そうはしない…と、思う。」
「ほら、やっぱり自信ないじゃない。」
 とにかく、とシルヴァンの背中を叩き、
「いい?大事なのは、ソフィの気持ちだからね。」
 鼻先に指を突きつけられ、ぐっと詰まった。

 カフェでの他愛無い話のはずだったが、不安が澱のように胸に残っていた。
 いつものようにソフィが作った夕食を食べながら、彼女の様子を伺う。
 確かに、最近とてもきれいになった。
 それは年齢に伴って蕾が花開こうとしているためだと思っていたが、オルガの言うとおり、誰かに恋をしているのだろうか。
 誰だ?
 大工仲間のジャンも粉挽きのマルコも学生のシモンも、ソフィに憧れているのは知っている。
 が、いずれもシルヴァンが睨みをきかせているために、花ひとつ贈ることができないでいるはずだ。
「ねえ…」
「ソフィ。」
 二人同時に口を開いてしまい、妹が慌てて微笑み、
「な、なあに?」
「お前を口説こうとしてる奴らが増えてきたけど、相手にするんじゃないぞ。おまえの相手は俺が見つけてやるからな。」
 そうは言ったものの、何故か妹の眼を見て言えず、彼女がどんな顔をしているのか知ることができなかった。
「で、おまえの話は?」
「う、ううん、このスープ、どう?」
「おいしいよ。」
「よかった…」
 ソフィの微笑が曇っていることには気づかなかった。

 ラファエルとの逢瀬は、兄が夜警に出る晩に限っていた。
 日中は彼も仕事があるので出られないし、今は足を洗っているとはいえ、追われたことのある身はやはり後ろめたさがある。
 それに、ソフィが自分が兄に話すまで待って欲しいと言った。
「兄は、私のことになるととんでもない頑固者になっちゃうの。だから私から話して、何とかわかってもらわないと…」
 寝台に横たわるラファエルの胸板に伏せたまま、溜息を吐く。
「君の兄さんは、君を本当に愛しているんだよ。」
「それはわかってるけど…」
 もしあの兄が今の自分の姿を見たら、どうなることか。
 きっと逆上してラファエルに刃を向けるだろう。そんなことは絶対に避けたい。
 ソフィの柔らかい栗色の髪を撫で、
「きっと大丈夫だから、そんな不安そうな顔をしないで。兄さんは君に幸せになってほしいだけなんだよ。」
 抱き締められて口づけてもらうと、花咲くような幸福感に満たされる。
 兄が自分の幸せを願うなら、きっとわかってくれると思う。
 そのためにはちょっと言い争いをすることになるかもしれないけれど、オルガにも協力してもらってじっくり話せば、いつか許してもらえるだろう。
 そうなることを願って、愛する男の顎の下に顔を埋めた。
 それでも日が昇らぬうちに寝台を抜けるラファエルの背中を見送るのは、たまらなく寂しかった。
 シルヴァンが家にいるときになんとか水を向けようとしても、
「おまえは気にしなくていい。」
 などと一方的に遮られてしまって埒が明かない。その手の話を断固拒否しているようにも思える。
 どうしよう。
 一緒に暮らす兄に手紙を出すのも変だし、かと言って話を聞いてもらえないのではどうしようもない。
 そんな生活が続き、気がつけば木枯らしの吹く季節になっていた。
 今夜はことさら風が冷たく、兄のためにいつもより多めにスープを作ったのだが、自分は今ひとつ食欲がわかない。
 先程から匙を手にしたまま一向に口をつけない妹に、
「どうかしたのか?」
「…ううん、あんまりお腹すいてないだけ。」
 微笑んでみせた顔が少し浮腫んでいるように感じる。
「ソフィ、最近痩せたんじゃないか?」
「そう?そんなことないと思うけど。」
 ソフィの食が細くなったのは、今日に限ったことではない。
 裕福とは程遠いので食事の量もたいしたことはないのに、それでも食べる量は確実に減っている。
 おかげでもともと華奢だった体が、ますます細くなってしまったように見える。
 ソフィもスープを飲もうとするが、やはり口に運べない。本当は食事を作っているときから、スープの匂いがやけに鼻についたのだ。
 そんな状態でも兄の眼からは妹が生き生きとしているというか、むしろ今までより瞳が輝いて見えるので、病気なのか判断がつかない。
「もしどこか調子が悪いと思ったら、すぐ言えよ。」
「うん…大丈夫だから。ここのところちょっと寒くなってきたせいだと思う。」
 兄を心配させないように無理に食事をとろうとしたときだった。
 突然胃からこみ上げるものがあり、慌てて席を立ち、台所に駆け寄る。
 桶に伏し、何も食べていないのに胃液だけを吐き出す妹の背中を慌ててさすりながら、
「おい、大丈夫か!?」
 かろうじてうなずきながらも、ソフィは激しく動揺していた。
 まさかとは思いながら、心当たりはあった。
 最近、体の異変は感じていたのだから。
「今から医者に行こう!」
「だめ…!」
 妹を背負おうとする兄の手を慌てて振り払いながら、また嘔吐を繰り返す。
 胃液さえ吐き尽くしたところで、ようやく嘔吐が収まった。
 真っ青になって床にへたりこむ妹を見つめながら、
「……おまえ…何を隠してる?」
「……」
 妹の様子が急に変わったことには気づいていた。
 オルガに言われるまでもなく、ソフィが突然美しくなったことには気づいていた。
 子供っぽさを残す少女だった妹に、急に女を感じるようになったのだ。
 それでも、妹が誰かに恋をしたなどとは考えたくなかった。ときどき自分に何かを言いたそうにしていても、話を聞きたくなくて、いつも遮ってしまっていた。
 気が気でなかった日々が続いたある日、妹の部屋の前に長い金色の髪が落ちているのを見つけた。
 兄妹ともに、髪の色は栗色だ。
 それでも、ソフィの友達に金髪の子がいるので、彼女のものだと無理矢理自分を納得させていた。
 しかし今、こうして食べ物を受け付けられずに嘔吐する姿に、ねじ伏せていた疑惑の数々が息を吹き返す。
 おののくように自分を見つめる妹の姿に、頭の奥で何かが弾けた。
 細い肩を掴み、
「誰だ!?」
「…っ」
「どこの男だ、言ってみろ!ドニか、ギィか!?」
「離して、痛い…!」
 廊下に落ちていた、金色の髪…
 それが脳裏を過ぎった瞬間、記憶が甦る。
 朝になって夜警の勤めを終えて家に帰るとき、何度かすれ違った男…
 後ろでひとつに結わえた長く美しい金色の髪を朝の光にきらめかせながら、こちらに向かって歩いてきたあの男だ。
 役者顔負けの美しい容姿が印象的な、この辺りでは見たことのない若い男だ。
 そうだ。
 すれ違って社交辞令として互いに会釈したとき、あの男がその口元にかすかに笑みを閃かせたのだ。
 あの笑みの意味は、こういうことだったのか。
 それを見逃していた自分への怒りが、より一層混乱させる。
「俺の目を盗んで大事な妹に手ぇ出しやがって!屑野郎め、ぶっ殺してやる!」
 自分のいない間に妹を抱きながら、マヌケな俺を嘲っていたのか。
「違う、そんなんじゃない!あの人は…」
「何が違うんだ!」
「お願い、落ち着いて話を聞いて!」
 他の男を必死にかばう妹を見れば見るほど、血が沸騰していく。
「とにかくそいつの名前を言え!」
「バカ!」
 華奢な腕のどこにそんな力があるのかと思うくらいの勢いで、突き飛ばされた。
「ひどいわ!私、隠そうとしてたんじゃないのに!ずっと彼のことを話したかったのに、全然聞こうとしてくれなかったじゃない!何度も何度も、何度も話そうとしたのに!それでもだめで、なんとか気づいてもらおうとしても、シルヴァンは私の眼さえ見ようとしてくれなかった!」
 ほとばしるようなソフィの言葉に、愕然とする。
「私は彼を愛してる!もしあの人に乱暴なことしたら、許さないから!」
 初めて向けられた妹の敵意に、床に座り込んだまま何も言い返すことができなかった。
 自分の目の前にいるのは、愛らしい従順な妹ではない。恋に燃える女だった。
 ソフィは家を飛び出した。
 夜風が身を切るように冷たい。
「ラファエル、ラファエル…!」
 行ったことはないが、彼が住むところは聞いている。隣の街で少々遠いが、今から行けるだろうか。
 涙が止まらない。
 滲む視界に足をとられ、つまずいてしまった。
 慌てて手を突き、倒れないようにする。
 遠くても、行かなくては。
 あの人のところへ行かなくては。
 会いたい。
 ただ、会いたい。
 落ちる涙をそのままに立ち上がろうとする肩を、温かい手が包んだ。
「ソフィ?」
 優しく包むようなその声に、はっとする。
 今、最も聞きたい声。
 最も会いたい人の声…
 顔を上げると、そこにラファエルがいた。
「ああ、ラファエル!?夢じゃないかしら…!」
 心から会いたいと思ったときに、目の前に現れてくれるなんて。
 あなたはやはり私の天使…!
 そのラファエルは、ぽろぽろと涙をこぼすソフィを見て驚いたようだ。
「どうしたの、そんな格好で。」
 冷たい風が吹く夜なのに、ショールさえ羽織っていない。
 自分が着ていた外套を脱いでソフィに着せかける。
「あなたにどうしても会いたくて…」
 ラファエルに会えたことで安心したものか、ふいに眩暈がした。
 力なくよろめくその体を支え、抱き上げる。
「ここで会えてよかった。もう大丈夫だから泣かないで。」
 ソフィはラファエルにすがりつきながら、何度もうなずいた。
 開け放たれた扉が風に煽られてたてた大きな物音に、我に返る。
 今日はとても冷える夜だ。
 そんな夜に、あの体で飛び出していっては…
 慌てて立ち上がり、妹を追って外に出た。
「ソフィ、ソフィ!どこだ!?」
 必死に呼ぶが、風が吹くばかりで誰も答えてくれない。
 あの状態では、そう遠くへは行けないはずだ。もしその辺で倒れていたら…
 すれ違う人々が驚くのもかまわずに妹の名を呼びながら、広場に面した通りに出た。
 そこでシルヴァンが見たものは、遠く立ち去ろうとする金色の髪の男の後ろ姿だった。
 その腕に、何かを抱えている。
 灯りのない夜空の下、遠ざかっていく姿でも、それはソフィだとわかった。
「ソフィ!」
 しかしその声は、風にかき消されてしまった。
 シルヴァンは、追うことができなかった。
 その瞬間、ずっと大事に抱え込んでいたものが、指の隙間から零れ落ちてしまったことを悟った。

 ソフィが来たことがないという、街の外れにある小さな宿屋に入る。ここならば彼女を知っている人間はいないだろう。
 宿の女房らしい女に、
「部屋は空いていますか?妻の具合が悪いんです。」
 その言葉に、腕の中のソフィがはっと顔を上げる。
 宿の女房は親切で、顔色の悪いソフィに自分の毛織のショールまで貸してくれた。
 用意してもらった部屋に入り、借りた火桶の前にソフィを下ろすが、彼女は離れることを恐れるかのようにしがみついてきた。その華奢な体を受け止め、
「一体どうしたの?」
「…兄と喧嘩して飛び出しちゃったの…」
「俺とのこと、話したの?」
「……」
 しばし迷ったが、先程のラファエルの言葉を胸に、思い切って顔を上げた。
「私…赤ちゃんができたみたいなの。」
「え…」
 涼やかな眼が大きく見開かれる。
 今の言葉を飲み込み、自分の中で繰り返してから確かめるように、
「…本当に?」
 その腹部に触れるが、当然まだ何も変化もない。
 小さくうなずくと、思い切り抱き締められた。
「ああソフィ、結婚しよう!夜が明けたら、一番で教会に行くんだ。」
「ほんとに…?いいの?」
「もちろん!今日は君の兄さんに俺から許しをもらおうと思って来たんだけど、もっと早く来なきゃいけなかった。俺のせいで君に辛い思いをさせてごめん。」
「そんなこと…嬉しい…!」
「愛してるよ、俺のソフィ…」
 再び溢れた涙は、先程とは違うものだった。

 返事がないので扉を押すと、簡単に開いた。
「シルヴァン…?」
 オルガが家の中を覗いてみると、酒瓶が何本も転がるテーブルに突っ伏す姿があった。
 酒臭い淀んだ空気を掻き分けるようにして入り、その背中を揺すると、ややあってから顔を上げた。
 その眼はアルコールで濁り、無精ひげもそのままだ。
 あっという間にやつれて憔悴してしまった顔を見て溜息を吐き、
「ソフィ、帰ってこないの?」
「…こねえよ。あいつは男と出て行ったんだから。」
 あれから必死に探し、街外れの小さな教会で二人だけでひそやかに結婚をした二人の若者の話を聞いた。新妻となった女の名が、ソフィであることも。そしてそこで初めて、男の名がラファエルであると知った。
 オルガが水を汲んで持っていくと、それを一気に飲み干す。
「……俺が悪いんだ。あいつは何度も俺に話そうとしてたのはわかってた…でも、俺がそれを許さなかった…」
 ソフィの部屋には、日記があった。
 そこには偶然出会ったらしい日から、ラファエルという男への想いが切々と綴られていた。そこには兄に話を聞いてもらえない悩みも書かれていた。
 もしかして、ソフィはそれをシルヴァンに見て欲しかったのかもしれない。
 何かの折にこれを見させ、なんとか自分の想いを知って欲しかったのだ。
 それなのに…
「俺は…あいつを誰にもとられたくなかった…」
 逃げ続けているうちに妹は愛する男の子供を宿し、退っ引きならない状況になってしまった。
「あいつをどうしようもないところまで追い詰めたのは俺なんだ…!」
 もっとちゃんと話を聞いてやっていればよかった。
 きっと自分は激しく怒っただろう。
 それでも妹の本気の恋の前には、折れざるを得なかったはずだ。
 そうすれば二人は誰に憚ることもなく神の前で結婚の誓いを立て、晴れて夫婦となることができたはずなのだ。
 シルヴァンの後悔に満ちた独白をずっと聞きながら、その背中を撫でる。
 広くて逞しくて頼りがいのある背中が、今はなんと弱々しいことか。
「ソフィのこと、怒ってるの?」
「怒ってなんかない。全部、俺のせいだから…」
「なら、会わなくちゃ。」
「…どのツラ下げて、会えって言うんだ…」
「ったく、あなたってば勇敢なのに、妹のことになるととんだ臆病者ね。決まってるわ、『あのときはごめん、そしておめでとう』って言うのよ。」
 シルヴァンの背中を抱き締める。
「あの子はきっとあなたが許してくれるのを待ってる…今すぐには行けないかもしれないけど、必ず会いに行きなさい。それがあの子の幸せのためなんだから…」
 抱き締める男の背中が、泣いている小さな子供のもののように思えた。



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