Atonement -贖罪-



 シルヴァンの眼前で泣いている幼子を見ながら、まだ悪夢の中を彷徨っているような気持ちだった。
 隣に住むマルゴという老女に抱かれた一歳を過ぎたばかりの男の子は、顔は父親に生き写しだが、真珠のように艶やかな白い肌や栗色の髪、琥珀色の瞳は母親と同じだ。
 その柔らかい髪を撫でると、幼い頃の妹の髪の感触を思い出し、涙が溢れてくる。
 涙で滲む視界の向こうに、あのときの光景がはっきりと焼きついていた。
 ソフィが住む場所も、あれからじきにわかった。
 相変わらず渦巻いていた自分の中の葛藤に踏ん切りをつけたときには、一年以上が過ぎていた。
 今更…と思いながらも重い腰を上げ、妹が住むという街へ初めて足を踏み入れたのだ。
 そこで調べてあった帽子屋に辿り着くと、今日は休みだと扉に木札がかかっていた。
 決死の覚悟で来たものを、出鼻をくじかれた気がして扉の前で突っ立っていると、隣の家からこのマルゴが顔を出したのだ。
 彼女は腕に幼児を抱きながら、
「ラファエルたちなら、今日は知り合いのお祝い事で出かけてるよ。だからあたしは子守さね。」
 どきりとした。
 その腕に抱かれている子は、もしかして…
 マルゴは戸惑うシルヴァンの顔をしばし見つめると目を瞬かせ、
「あんた…もしかして、ソフィの兄さんかい?」
「え…」
「やっぱりそうなんだね、目元がよく似てるよ!さすがにあの子の兄さんだけあって、いい男だね。」
 マルゴは腕に抱いた幼子を持ち上げてシルヴァンに向ける。
「リオネルだよ。二人の子だ。あんた、この子に会うのは初めてだろ?」
 何も知らぬ小さな男の子が、無邪気に笑う。
 ああ、ソフィはあのとき本当に妊娠していたのだ。
 総てを振り捨てて愛する男のもとへ飛び込み、そしてこんなに愛らしい子を産み育てている。
「あんたのことは、ソフィからよく聞いてたよ。遅くなるかもしれないけど、うちで待っといで。そうしたら会えるから。」
「…いえ…今日は出直します…」
 それだけ言うのがやっとだった。
「おやおや、伯父さんだってわかるのかねえ。ご機嫌だよ。」
 きゃっきゃと笑う幼子の声に背を向け、よろめくように歩き出す。
 ソフィは今、幸せなのだ。
 妹が幸せに暮らしているとわかって満足か?
 本当は、妹に会わずにすんでほっとしているのだ。
 やはりまだ逃げているではないか。
 夕暮れの赤く染まる街の景色も、すれ違う人々も見えない。
 真っ暗な闇の中を歩いている気分だ。
 そんなシルヴァンの意識を引き戻したのは、女の悲鳴だった。
「!」
 それは長年聞き慣れた、ソフィの声に聞こえたからだ。
 考えるより先に、その声の方に足が向いていた。
 そこには人だかりがあった。
 彼らの頭越しに見れば、明るいうちから泥酔しているらしい男が女に絡んでいた。そしてその女を守るように、男が間に割って入っている。
「…!」
 男の背中にすがる女の姿は、見間違えるはずもなかった。
「ソフィ…!」
 ということは、彼女を守っている金色の髪の男はラファエルだ。
 酔客に絡まれた妹を、夫であるラファエルがかばっているらしい。
 人だかりを押しのけてシルヴァンが駆け寄るより先に、泥酔した男が動いていた。
 男が、ラファエルに体ごとぶつかった。
 その瞬間、ラファエルの体が硬直したように跳ねる。
 そしてよろよろと離れた男の手には、ナイフが握られていた。
 その切っ先からは、鮮血が滴り落ちていた。
 不思議なものを見るような顔で我が胸を見下ろしたラファエルの体が、膝から崩れ落ちる。
 ソフィの悲鳴が天を引き裂かんばかりに響く。
 倒れ伏した夫にすがって揺すりながら、
「ラファエル、ラファエル!!」
 何度も呼ぶが、動いてはくれない。
 男の凶刃は、彼の心臓を貫いてしまっていた。恐らく、もう事切れているだろう。
「なんてことを…!」
 男に掴みかかろうとする妹に、逃げろと叫ぶが届かない。
 まるでそこだけ時間の流れが緩やかになったかのように、振り上げられた刃先がソフィの胸にゆっくりと飲み込まれていく。
 引き抜かれた刃が血の糸を引いた瞬間、時間の速度は元に戻った。
「ソフィ!!」
 人だかりを抜け、駆け寄ったときにはソフィは倒れていた。
 既に息絶えている夫に折り重なった妹に、転げるようにすがりつく。
「そいつを捕まえてくれ!」
 必死に叫ぶ。
 誰かが動こうとしてくれたようだが、男は奇声を発しながらナイフを振り回し、慌てて避ける人々を押しのけて走り去ってしまった。
 しかし今はそいつを追うことができない。
「早く医者を!俺の妹なんだ!誰かソフィを助けてくれ…!!」
 必死の声を振り絞る中、かすかな声が聞こえた気がした。
 はっとして見れば、ソフィの既に血の気を失った唇がわなないている。
「ソフィ、ソフィ!俺だ、シルヴァンだ!」
 しかしもう彼女の瞳は闇に閉ざされ、声も届かない。
「…ラファ…ル……リオ……ネ…」
 オルゴールのぜんまいがゆっくりと動きを止めるように唇が動かなくなり、声が途切れた。
「ああ、ああ、そんな…ソフィ…返事をしてくれ、ソフィ!!」
 しかしもう、ぴくりとも動いてくれない。
 彼女の時間は永遠に止まってしまったのだ。
 明るい笑顔も、もう二度とその美しい顔に咲くことはない。
 血に染まった二人の亡骸に覆いかぶさり、慟哭した。

 夢現の中、わけのわからぬうちに葬儀はすんでいた。
 真新しい墓の前でマルゴからその話を聞いたときに、シルヴァンはさらなる地獄へ落とされた思いがした。
 ソフィの胎内には、新たな命が宿っていたのだ。まだ四ヶ月だったという。
 妹は、愛する夫とまだ見ぬ我が子ともども命を絶たれてしまった。
 近所でも評判の、仲の良い夫婦だったという。美男美女の両親からいいところを受け継いだ愛らしい子にも恵まれ、せっせと働きながら幸せな日々を送っていたというのに。
 リオネルはまだ死というものを理解できないはずだが、何かを感じとったのか、ずっと泣き続けている。
 シルヴァンが手を差し伸べると、よたよたと歩み寄り、しがみついてきた。
 母と同じ血を引く伯父であるとわかるのだろうか。
 わかっているのかいないのか、リオネルのために切ってやった両親の遺髪を納めた袋を握り締めている。
 こんないたいけな幼子を遺して、ソフィもラファエルもどれほど心残りであろう。この子はまだ何もわからぬうちに、両親を失ってしまったのだ。
 泣き疲れて眠ってしまった幼子を抱きながら、こちらもまた眼を真っ赤にしているマルゴに、
「俺…この子を引き取ります。それが俺にできる、精一杯の妹への償いです…」
 マルゴはハンカチで目元を拭いながら頷いた。
「その言葉を聞いたら、あの子も喜ぶよ。ソフィはいつも言ってた…大好きな兄さんを怒らせてしまって、どうすれば許してもらえるんだろうって…」
「俺は…怒ってなんかなかった…ただ、怖くて会いに来られなかったんです…」
 時間が解決してくれるはずだったのに、運命はそれを許してくれなかった。
 妹が命がけで愛した男とも、結局言葉を交わすこともないままだった。
 夫婦は凶刃に斃れ、その機会は永遠に失われてしまった。
 やっと逢えたときには、妹は自分をかばって心臓を一突きにされた夫の血に染まった亡骸にすがり、夫と子の名を呼びながらその生涯を閉じてしまった。
 そこに自分の存在がなかったことなど、どうでもよかった。ソフィは新たな家族と幸せを掴んでいたのに…
 なんという残酷な結末なのか。
 せめてもっと早く会いに来ていれば、兄とのことで思い悩むこともなくなり、愛する夫や息子とともに幸せを享受できたはずだ。
 自分がおかしな意地を張り、ちょっとでいい勇気を出せなかったために、最期までソフィを苦しめてしまった。
 誰よりも幸せになって欲しかったのに。
 誰よりも愛する妹なのに。
 愚かな兄を許してくれとは言わない。
 ソフィ、そしてラファエル…おまえたちの愛する息子は、きっと俺が守り抜いてみせる。今度こそ、過ちは犯さない。
 だからどうか、安らかに…
 眠るリオネルを抱き締めると、苦しかったのか、身じろぎした。

 年の離れた妹が生まれたときに世話をしたために、何とかなるだろうと思ったのが甘かった。
 あの頃は、両親がいた。
 そして何より、ソフィはおとなしくて手のかからない、いい子だった。
 リオネルは比べ物にならないほど活発な男の子で、いきなり両親を失った上に環境が変わったためか情緒不安定になったらしく、とにかく暴れて泣いて騒ぐ。
 家の中に小さな竜巻が飛び込んできたようだった。
 そもそも何もかも妹に任せきりで家事も満足にできない男が、子育てなどまともにできるはずもない。
 皿をひっくり返して投げたリオネルを叱ると、大声で泣き出す。
 こちらも泣きたくなるような戦争状態の家に、誰かが訪ねてきたことなど気づくわけがなかった。
「そんなことしたら、ますます泣くでしょ!」
 頭上から叱られて、泣くリオネルを奪い取られてやっと、そこにオルガがいることに気づいた。
「おお、頼りないお父さんで困りましたねー。今すぐおいしいごはん作ってあげるから、いい子にしててねー。」
 オルガが抱いて揺すってやると、間もなくリオネルは泣き止んだ。
「どう?姉さんの子の面倒をけっこう見てたんだから。」
「……」
 呆然とそれを見上げ、パンをミルクで煮込んでやっているのを黙って見つめるしかない。
 適当に冷ましたそれを食べさせてやりながら、
「ねえシルヴァン。」
「……なんだ。」
「私、ソフィの子なら絶対にかわいがれる自信があるわ。私とあの子は仲良しだったのよ。」
「……」
「あなた一人で育てられると思ってる?」
「……思わん。」
 素直に白旗を揚げるしかない。
「あら、わかってるのね、偉いわ。じゃあ私と結婚しなさい。」
 頭を垂れたまま、蚊の鳴くような声で「…頼む」と聞こえた。
 オルガは手際よくリオネルの口の周りを拭いてやったりしながら、
「でも、あなたからプロポーズしてくれたことにしてね。いくらなんでもみっともないから。」
「…おまえらしくていいんじゃないか?」
 テーブルの下で向こう脛を蹴飛ばされた。

 オルガは宣言どおり、リオネルを我が子のようにかわいがってくれた。
 自分の子が生まれても、ごく普通の兄弟のように分け隔てなく接し、育てている。今更だが、本当にありがたく得難い女だと思った。
 不器用ながらなんとかかわいがっているつもりの自分にも懐いてくれ、今は普通に「おとうさん」と呼んでくれるようになっている。
 そうして愛情を注がれているうちにリオネルも少しずつ落ち着いてきた。明るく元気な気質は、亡き両親の性格をしっかりと受け継いでいるようだ。
「リオネルは本当にハンサムねえ。将来、きっと女の子たちを夢中にさせるわ。」
 遊び疲れて眠っている頬を突いては、楽しげにそんなことを言っている。
 しかしそのリオネルは、顔は覚えていなくても、本当の両親のことは未だに忘れていないようだ。
 ときどき遠くを見つめ、幼子らしからぬ表情でじっと何かを考えているように見える。
 シルヴァンとて、諦めてはいなかった。
 妹夫婦の仇は絶対に討ってみせる。
 あのときの大混乱の中でも、奴の顔はしっかりと覚えている。
 自警団にも事情を話し、人相を伝えてあるので、見つけ次第捕まえてくれるそうだ。
 しかしこの狭いようで広い世界で、たった一人の名も知らぬ人間を探し出すことは難しい。
 そうして仇を見つけられないまま、三年の時が過ぎてしまった。
 まだよちよち歩きの次男(本当は長男だが)はオルガと家に残し、リオネルと散歩に出かけた。
 鳩を追ったりしながらちょこちょこと駆け回っていたリオネルが、ふいに足を止めた。
 見上げる視線を辿ると、日中から開いている酒場がある。
 リオネルはシルヴァンの袖を引き、
「おとうさん、きて!」
 ぐいぐいと引っ張る。
 何と、酒場に入ろうとするではないか。
「おまえには早いよ。」
 止めようとするが、聞かない。
 何か飲みたいのだろうか。
 酒場でも子供にミルクくらいは出してくれるだろうと思い、仕方なく扉を押し開けて店内を見回したシルヴァンは、全身の毛が逆立つのを感じた。
 その眼が、一点に釘付けになる。
 カウンターで一人で酒を煽っている男がいる。
 暗く冷たい深淵から溢れ出したあのときの記憶が怒涛となって押し寄せ、シルヴァンを飲み込んだ瞬間、床を蹴っていた。
 けたたましい物音に気づいた男が振り返ろうとするより早く、壁に叩きつけられた。
「見つけたぞ!!」
「な、なんだてめえ!」
 鬼神のごとき形相の男が自分の襟首を掴んでいる状況を、アルコールで濁ったその男の頭は理解できないらしい。
「おまえは三年前、俺の妹と義弟と、腹の子を殺したんだ!!」
 ほとばしるようなシルヴァンの言葉に、酒場が騒然とする。
「なんのことだよ!」
「覚えてないとは言わせんぞ!おまえは妹を刺したときに右手の人差し指を切っていただろう!」
 自警団に所属しているおかげか、そんな犯人の特徴となるものを無意識のうちに記憶にとどめていたのだ。
 右手をねじ上げると、薄くなっているが確かに刃物の傷がある。
「とうさんとかあさんと、いもうとをかえせ!!」
 リオネルも男に飛びかかってくる。
 腹の中の子は、リオネルにとって妹だったらしい。
 幼い子供が小さな拳を振り上げる姿に、酒場の客たちはどちらの味方につくか決めたようだ。
 皆で男を押さえつけ、店主までカウンターの奥から縄を持ってきて、よってたかって縛り上げる間に、誰かが手際よく呼んでくれた役人が駆けつけてくる。
 やっと捕えることができた。
 家族の命と幸せを打ち砕いておいて、のうのうと逃げおおせていた男に、ようやく裁きの鉄槌を下すことができる。
 できればこの場で殺してやりたいが、幼いリオネルの存在が、その凶暴な衝動をかろうじて抑えさせてくれた。
 現場で目撃した人々にも既に協力をとりつけてあり、こいつを絞首台に送る自信はある。
 これでようやくあの惨たらしい事件にけりをつけることができる。
 あとはこの子を立派に育て上げることが、自分の務めだ。
 それにしても、と思う。
 リオネルは両親が殺された現場にはおらず、事件を見てはいなかった。
 それなのに、何故ここに犯人がいるとわかったのだろうか。
 あのときのリオネルは、何か確信を持ってシルヴァンを引っ張ったように思えた。
 もしかするとソフィやラファエルが、この子に教えたのかもしれない。
 ともに歩くリオネルはシルヴァンを見上げて、父親そっくりの顔に会心の笑みを浮かべた。
 その小さな体を持ち上げ、肩車をする。
 ああ、そうだな。これは凱旋だ。
 おまえの両親の仇はとれたよ。
 これでもう過去を睨み据えたまま生きていくのは終わりだ。
 これからは、両親からもらった命を、自分の人生を生きる番だ。
 しっかりと前を向いて、未来に向かって歩き出せ。
 そしていつか、母さんに負けないくらい美人な嫁をもらうんだ。
 でもそのときは、相手の家族にちゃんと許しを得てからにしろよ。ちょっとくらい親父と喧嘩したってかまわないから。
 リオネルが、黄金色の夕日に向かって手を伸ばす。
 シルヴァンの耳に、どこからともなく明るい笑い声が聞こえた気がした。

fin.



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