ロッドとフィルが宿へたどり着いたときには、辺りは真っ暗になっていた。フィルは必死に歩いているようだが、いかにも歩き慣れない見た目どおりに体力に乏しく、どうしても休み休みになって時間がかかってしまう。 部屋に入ると、へとへとになったフィルはベッドにへたり込んだ。 「先に汗流してきな。」 「は、はい…」 ロッドに引きずり起こされ、ふらふらと部屋の隅を指される。それを見て、フィルはぎょっとした。衝立のようなものがあって、その向こうに大きな盥と桶があり、それに湯を入れて湯船代わりにして入るのだ。 「こ…これがお風呂ですか!?」 面食らっているフィルの顔色が、赤くなったり青くなったり、めまぐるしく変わる。お坊ちゃまにはカルチャーショックが激しすぎるようだ。 あまりに動揺するのが少しかわいそうでもあり、金はあるのだし、もう少しいい宿にしてやればよかったかとも思うが、もう遅い。 ロッドが湯を運んできてやっている間に、フィルは衝立の隙間を確かめたり、長身のロッドから見えはしないかとさんざん確認していた。 やがて満足したのか諦めたのか、部屋の角の壁ぎりぎりにまで盥と衝立を引き寄せて、その陰に隠れた。衝立の向こうから聞こえる水音も、あまりにも恐々とした様子で、やはり今度からもう少しいい宿にしてやろうと思った。 しばらくして出てきたフィルは、風呂上がりだというのにしっかり上着まで着込んでいた。 「お…お待たせいたしました。」 その顔は湯を浴びて上気した以上に、赤い。 「ああ?」 ロッドが入れ替わりに衝立の陰に入り、湯の音がするのを確かめてから上着を脱ぎ、布団をかぶって何やらごそごそと蠢きはじめた。 「苦しいですけれど、全部は無理ですね…」 何やら独語しているうちに、もうロッドが出てきてしまった。フィルは慌てて布団に隠れるようにして、 「お、お早いですね。」 布団の中から目を覗かせてロッドを見たフィルが、突如素っ頓狂な声をあげた。 「ひゃ…っ!」 「何だ?」 「い、いえっ、何でもありませんっ!」 頭まですっぽり布団をかぶったフィルは、がたがたと震えているようだ。 「そ、そそのように上に何も着ていらっしゃいませんと、風邪をひいてしまいます…!」 「俺はそんなやわじゃねーよ。お前こそ、そんなに着込んでると寝苦しくねえか?」 「だ、大丈夫ですっ!寒がりなのです!」 「…?変な奴だなー…」 無数の傷が刻み付けられた逞しい上半身をさらし、ばさばさと髪を乾かすロッドの隣で、小山になった布団が震えていた。 翌朝、差し込む朝日で目覚めたロッドがふと隣のベッドを見ると、フィルはまだ眠っていた。 フィルは枕に細い指を添えるようにして眠っていた。柔らかな黄金色の髪がいく筋か顔にかかり、かすかに開かれた艶やかな唇は花びらのようであった。長い睫が影を落とす頬は透き通るように蒼みを帯びているが、それがかえって危うさを醸し出している。 「……。」 思わず見とれてしまったロッドは、はっと我に返って慌てて自分の頬を叩いた。 …ちょっと待てっ!俺にそんな趣味はねえぞ! 頬を叩いた音で目を覚ましたフィルと目が合う。 「あ…」 「…はっ!」 ロッドは大慌てでベッドから飛び出し、 「顔洗ってくる!」 大股で衝立の向こうに飛び込んでしまった。 フィルは何が何だかわからないまま、いそいそと布団の中でまた蠢いていた。 衝立の陰で、昨日のうちに汲んでおいた冷水で顔を洗ったロッドは、水面に映る自分を睨み付けた。 もう一度ぴしゃりと頬をはたいて戻ると、フィルは既に起き上がっていた。 「おはようございます。」 「あ、ああ、おはよう。」 ロッドはごまかすようにそそくさと支度し、 「朝飯とってくる。」 フィルを部屋に残して廊下に出ると、ロッドは大きく深呼吸した。 「こないだ女買ったばっかじゃねえか。そんなに欲求不満か、俺は。」 自分に文句を言いながら、階下へ降りていった。安宿なので食堂はないが、金を出せばパンや牛乳を売ってくれる。 それにチーズも買ってきたが、フィルはパン一つと牛乳しか口にしない。 「昨日の夜も思ったけど、お前食わねえなあ。」 「はい、すぐにお腹いっぱいになってしまいます。」 「食わねえと体力もたねーし、大きくなれんぞ。」 「朝は、特にだめなんです。」 「だからそんながりがりなんだ。チーズいらねえなら、もらうぞ。」 「どうぞ。」 食事を終えてから、フィルが真剣な顔付きで切り出した。 「ロッド、一つ申し上げなくてはならないことが…」 「何だ?」 「道中、僕を殺そうとする者が現れるかと思います。」 「そういうことは先に言え。てことは、そのドノー家の奴は殺し損なったお前も殺そうとしてるのか?」 「…そのようです。」 「お前も貴族なんだろ?」 ストレートに突いてやると、フィルの表情に動揺が走り、そのままうつむいてしまった。 「……」 「言いたくないってか。ま、おまえが何者だろうと、どうでもいいけどな。」 ロッドは敢えて追求しなかった。しかし恐らくフィルはどこぞの貴族で、ドノー家との争いに敗れて残ったわずかな兵とともに逃げていたが、追手によって殺されてしまったのだろうとロッドは推測していた。 街道を歩きながら、ロッドはフィルの腰に吊られた細いレイピアに目を留めた。 「フィル、お前、剣はお遊戯程度って言ってたな。」 「はい…」 「まあ、普通に生きてりゃそれでよかっただろうけどよ。でも、それでどうやって仇討つんだ?俺が助太刀するったって、それまでずっと狙われてるんじゃ危なっかしくてならねえ。」 「やはり…僕では無理でしょうか…」 しゅんとして俯いてしまったフィルに、ロッドは呆れながら、 「…そんな甘ちゃんが、よくもまあのこのこ出てきたよな。しょうがねえ、道すがら剣の使い方を教えてやる。」 「ご面倒をおかけいたします。」 生真面目に頷くフィルに、ふと苦笑したロッドの表情が一変した。アイスブルーの瞳がすさまじい光を帯びる。 「どっこい、のんびり教えてやってる暇はなさそうだ。」 「はい?」 きょとんとしているフィルの肩を叩き、 「フィル、てめえが死んじまったら何にもならん。とにかく、生き延びることだけを考えろ。他には一切考えるな。」 「は、はい…?」 ロッドの大剣がずらりと引き抜かれたとき、フィルはようやく異変が起こったのだと気づき、慌ててレイピアを抜いた。それと同時に、木々の枝が風に煽られたようにざわめいた。 「上から来るぞ!」 「上!?」 フィルが振り仰ぐと、頭上から黒覆面の男たちが剣を振りかぶって飛び降りてきた。 「!」 慌てて逃げたフィルに、ひらりと躱したロッドの声が飛ぶ。 「背中見せんな!」 「は、はいっ!」 そう言われてもそんな余裕はないらしく、敵の攻撃から転げるように逃げ惑っていた。その間にロッドは襲い来る剣を弾き、相手がバランスを崩した隙に袈裟懸けに叩き斬った。 肩から胸にかけて血を拭き出し、倒れる黒覆面を見たフィルが、瞬時に青ざめる。 「…!!」 すくんだ足が動かず、木の根につまずいて転んでしまった。フィルを追っていた黒覆面が、ここぞとばかりに剣を振りかぶる。 「っ!」 やられる!と感じた直後、風を切るような音とともに黒覆面の胴体がひしゃげて横に吹っ飛んだ。朽木のように倒れた胴体から、つい今し方まで生きていた証である真っ赤な血が吹き零れる。 恐怖に硬直していたフィルの目の前に、大剣を引っ提げたロッドが立っていた。 「大丈夫か!?」 「……」 フィルは、黙ってただ頷くしかできない。ロッドはフィルの無事を確認すると、すぐさま次の敵に襲い掛かっていた。 ロッドの大剣が、死神の鎌となって黒覆面たちの命を奪い去って行く。その力の差は圧倒的で、同時に何人かかろうとも全く相手にならない。 続々と仲間が倒されて行くのを見て、黒覆面の一人が恐怖に震えながら、まだ座り込んだままのフィルを睨み付けた。 黒覆面の隙間から覗く双眸は、光を失って淀んでいるのに、ぞっとするような炎を宿していた。それを見たフィルの背筋が凍りつく。 雄叫びとともに剣を振りかぶってこちらへ走ってくるのも、まるで別の世界のことのように思えた。目の前に、刃が迫る。 ―生き延びることだけを考えろ 「!」 無意識のうちに突き出していたレイピアが、ほとんど偶然に黒覆面の腿に突き刺さる。皮膚を破り、肉に食い込む嫌な感触がフィルの手に伝わる。 「ひっ…!」 その瞬間、フィルは思わずレイピアから手を放してしまった。 突進してきた力が加わり、レイピアはそれなりに深く刺さったようだ。黒覆面は激痛に呻きながらレイピアを引き抜いて放り捨てると、獣のように吠えてフィルに斬りかかった。 が、その刃はフィルに届く前に失われた。大剣に弾かれた剣はその手を離れ、弧を描きながら森の奥へと飛んで行く。そして黒覆面の命もそのときに失われていた。 黒覆面の襲撃者を全員倒してからも、フィルはまだ震えていた。呆然と、焦点の合わない瞳は恐怖に凍り付いている。 「フィル、おいフィル!」 「あ…」 ロッドに肩を揺さ振られ、ようやく我に返った。その途端、どっと冷たい汗が吹き出す。手には、まだあの感触が残っている。 「皆…死んでしまったのですか…?」 「ああ。こういう連中は、生かしとくとまたやってくる。」 フィルは目の前で斬り合いによって人が死んで行くのに、相当な衝撃を受けたようだ。それに、自分の手にも人を刺した感触が残っている。 ロッドはフィルを立たせながら、 「ちょいと刺したくらいでそんなんなってて、どうやって仇討つんだ?」 「…も、申し訳ありません…ですけれど、このようなことは初めてで恐ろしくて…」 力なく首を横に振る。 「ふうん。俺はそれが仕事だからな、今更何とも思わねえや。」 「あ…も、申し訳ありません…」 ロッドの言葉に、フィルが慌てて謝る。傭兵は、人を殺すのが仕事なのだ。そんなロッドの前で、人を傷つけることをあからさまに嫌悪することはできないと思ったのか、俯いたフィルの瞳が潤み、涙がぽろぽろと零れ出す。 それに気づいたロッドは驚いて、 「な、何泣いてんだよ!」 「…ごめんなさい…」 涙に濡れたフィルの顔を見た途端、ロッドの胸の奥深くがずきりと痛む。 「!」 ロッドははっとしてぶるぶると首を横に振り、 「き、気にすんな!ほら人が来る前に行くぞ!」 そらぞらしくごまかし、フィルの腕を引っ張ろうとして掴んだ。どう見ても大きすぎる服の下の腕は鷲掴みにできてしまうほど細く、ロッドはまた慌てて手を離した。 「ロッド?」 不思議そうに顔を覗き込もうとするフィルの視線から目を逸らすロッドは、妙に速くなる心臓の鼓動を押さえつけようと、必死だった。 …何でだ、何でだ、何でだー!? どうして心乱されるのか、わからない。ロッドはもちろんそんな趣味はないし、そこまで煮詰まっているわけでもない。なのに、この絶世の美少年を前にすると、調子が狂うどころの騒ぎではない。 ロッドにとっては、フィルの笑顔や涙はどんな剣や槍よりも恐ろしい凶器であった。 |