街道沿いの小さな町に宿をとったロッドとフィリアンは、入浴もすませてそれぞれくつろいでいた。 しかし、雰囲気が以前とはまるで違う。 男装のための大きすぎる手袋も上着も脱ぎ、白絹のシャツが柔らかくまとわりつく胸部は丸い起伏を描いている。ロッドに女だとばれてしまった今、眠るときまで男装をしている必要はなくなった。 宿では別の部屋をとることも提案してはみたのだが、旅慣れていない上に暗殺者の恐怖を抱えているフィリアンは一人では心細いのか、あっさり断られてしまった。 それはそれで別の危険があるんですが…とは呑気娘には理解してもらえず、そのまま相部屋に泊まっている。 ベッドの縁に腰掛け、首筋にかかる柔らかく波打った金色の髪をブラシで解くフィリアンを、ロッドは寝そべったまま見物していた。 もとは腰よりも長く伸ばしていたそうだが、旅に出るときにばっさりと切ってしまったという。 痛々しいことだと思う。女の美しい髪は命だということくらい、男のロッドでもわかっている。それを自ら切り落とすほどの悲壮な決意であったということだ。 少年のように髪が短くても、今となってはしっかり女の子に見える。 フィリアンのシャツもパンツも緩いのだが、やはり厚手の上着でごまかさないと線の細さがよくわかる。そして何より、胸がある。男装時は乳房を布で巻き締めて一応の胸板を作っていたのだが、その中に隠れているものを垣間見てしまった。あくまで後ろからわずかに見えただけだが、大きすぎず小さすぎず、青りんごのような乳房がシャツとわずかに透けて見えるレースの下着の下に潜んでいる。 …鷲掴みにしたらちょうどいいくらいかな… ぼんやりと目を閉じて泉で見たフィリアンの姿を回想していると、急にフィリアンの声がかかったので思わず慌ててしまった。 「もう眠ってしまわれましたか?」 「あ、いや、起きてる。」 妄想を打ち消されたことがばれないように、素早く跳ね起きる。フィリアンの口元が固く結ばれている。何かを心に決めた表情で、半身を起こしたロッドに向き合うようにベッドに腰掛けた。 「ロッド…一つお願いしたいことがあるのですが…聞いていただけますか?」 「俺にできる範囲ならな。」 女の子がベッドにやってきて、お願いがある、などと言われれば、普通なら「抱いて」の一言も期待できようが、悲しいかなフィリアンに限ってそれは絶対に有り得ない。 フィリアンはわずかな逡巡を見せたのも束の間、緊張の眼差しをロッドに向けて口を開いた。 「あなたが誠実な方なのでお頼みいたします…。もし私が旅の途中で倒れたり、返り討ちにあったときには…そのことを叔父に伝えていただきたいのです。」 「……。」 「バレニアの領主に…フィリアン・エリス・ミア・ウィステリスの名を出せば、通していただけるはずです…。」 「それがお前のフルネームってわけか?」 黙って頷く。 できれば貴族であることを明かしたくなかったのだろうが、その理由は保身のためとは少し違うように見える。何か、忌々しい話をしてしまったような悔恨さえわずかに覗かせているのだ。 「ウィステリス家ね、大した名門の貴族さまだな。その辺を通ったときに、いい領主だって話は何度か聞いたよ。」 応える代わりに、フィリアンは口元に寂しげな微笑を浮かべた。しかしその目は、笑っていない。 「…お願いできますか?」 「やだね。」 ロッドの返事は素っ気無かった。 「そう、ですか…」 寂しげに俯くフィリアンを正面から見据えるように、ロッドは胡座をかいた。真剣な想いをぶつけられたからには、こちらも同等のもので返してやらねばならない。 「いいか、俺はお前の助太刀をするために雇われた。そのためにお前を仇のところまで、何が何でも無事に連れて行く。だからもしお前が死ぬようなことになるときには、その前に俺はとっくに死んでるってことだ。伝えたくたってできやしねえよ。」 「ロッド…」 ロッドの言わんとしていることはすぐにわかった。ロッドは命懸けで自分を守り、約束を果たしてくれるというのだ。数日前、偶然に出会っただけの自分を…。 ロッドもいつの間にか、契約以上の使命感を抱くようになっていた。本当は血を見ることなど大嫌いな心優しい少女が愛する家族を奪われて、その仇を討つためにたおやかな手に剣を握り、女の命の髪も切り捨てて旅に出たのだ。暗殺者に供の者も殺されて、自分に逢うまでどのような思いで一人旅をしてきたのだろうか。 最初にまだ少年フィルだと思っていた時から、何故か放っておけないものを感じていた。だからあの時助けたのだし、それがこうして接しているうちに、よけいその意志が強くなった。 フィリアンが嬉しそうに微笑んだ。 安宿の薄暗い室内に、白い花が咲き零れかのような錯覚を見る。 温室育ちのお姫様が、誰も頼る者のいない荒海に一人放り込まれ、言葉では言い表せないほどの不安と恐怖に苛まれてきたことであろう。今にも溺れて沈みそうなところへ、ようやくすがれる板切れを見つけたのだ。だから自分は沈まない大きな板切れになってやろう。彼女を乗せて、安全な岸へ上げてやるのだ。 胸に秘めていたことを一つ打ち明けたことでわずかでも心が軽くなったか、フィリアンは安堵の表情のまま靴下を脱いで眠る仕度をした。靴下の下から出てきた白い足首は、片手で握り潰せそうなほどに細い。優雅に舞うことしか知らなかった足だ。その足で歩き続けているのだから、本当は痛くてたまらないことだろう。 布団に潜り込んだフィリアンは、ロッドを見てもう一度微笑した。思わずどきりとしながら、 「…なあ、嫁入り前のお姫様ともあろうもんが、野郎と同じ部屋で本当にいいのか?」 念のためもう一度確認してみたロッドの想いとは裏腹に、フィリアンは無邪気なものであった。 「ロッドが側にいてくださると、安心して眠れますわ。」 「あ…そ。」 思わず胡坐をかいたままの姿勢でベッドの上に仰向けに倒れこんだ。 …安心なんかするなっ! 男として全否定されたような気がしてロッドがめげているとも知らず、フィリアンは本当に安心しきった声で、 「おやすみなさい。」 「…あー、おやすみ。」 よろよろと灯りを消しに行きながら、ロッドは横目でフィリアンを見た。 …何も知らないってのもいいが、限度ってのがあるだろ。 男の危険性をまるきり知らないフィリアンは、間もなく安らかな寝息をたて始めた。そんな寝顔を見ると、再びあの美しい裸身が甦ってくる。 眼裏に浮かぶ映像は自分の他には見えないはずなのに、フィリアンに見られまいと慌てる自分がいる。 今まではどれほど美しかろうと色っぽかろうと、男だと思っていたので理性が働いていた。しかし女とわかった今、邪魔するものは何もない。邪な欲望が湧き上がり、それを押さえるのは相当苦しい。こうなったら何もかもかなぐり捨て、泣こうがわめこうが押さえつけて犯してやろうかとも思うが、「安心する」などと可憐な笑顔で言われてはその獣性は萎まざるを得ないし、強制は趣味ではない。だからといってその欲求を娼婦にまわそうかと思っても、目の前に極上の膳があるのだから、どうしてもそんな気にはなれない。 …ち、ちくしょう…精神衛生上、悪いなんてもんじゃねえぞ! フィリアンが女の子とわかって自我崩壊することはなくなったが、毎晩のように欲望と戦わねばならなくなってしまった。秋の冷たい夜気は、欲求不満の野獣と呑気な美女を静かに包み込んでいった。 黄金とビロードが天井や壁、床を覆い、最高の職人が全身全霊をかけたと見られる調度品が並び、珍しい異国の美術品が飾られている。しかしそれらは豪華を超えて圧迫感さえ感じさせる。それは部屋を埋め尽くす調度品のせいか、それとも…。 そんな部屋の奥、数段高いところに金糸の房に飾られた天蓋のついた玉座があり、そこにここの主が座っていた。 老人の頭には一本の髪もなく、眉毛さえない。分厚い衣装に包まれた体は逞しく、肩が筋肉で盛り上がり、落ち窪んだ目が冷たく鋭い光を放っている。 この男こそ、フィリアンの仇であるダイロン・バル・ダン・ドノーだ。 ダイロンの前に、召使らしい老人が現れた。 「旦那様、報告が届きました。」 ダイロンの眉丘筋がぴくりと動いた。 「件の娘はウィステリス家の姫に相違ないとのことです。」 主の不快を感じ取り、召使の肩がわずかに揺れる。 「あのような小娘一匹、何を手間取っておるか。」 「は…報告によれば、恐ろしく腕の立つ男が姫の護衛につき、既に幾人かが退けられているとのことで…」 「ふん、小娘が足掻きおって…」 ダイロンが老いに似合わぬ逞しい巨体を玉座から上げ、 「よいか、何としてもウィステリスの小娘を殺せ!手段は選ぶな!」 鬼気迫るその表情から、フィリアンに対するすさまじい殺気が溢れ出していた。何故たかが娘一人をそうまでして殺そうとするのか、その理由は召使の知るところではなかったが、周囲を焼き払うような怒気を避けるように頭を下げて慌てて退出した。 |