Blade!!


<七>



 朝市で賑わう町の広場をフィリアンはきょろきょろと見回していた。
 フィリアンには、世の中の総てが物珍しい。
 深窓の姫君は買い物の仕方どころか、人々の暮らしがどのように成り立つのかさえ知らなかった。
 お腹がすいたと言えば料理人が調理した料理が並び、服が欲しいと言えば仕立て屋がすっ飛んできたのだ。
 それまでは出所のわからない、魔法の箱を持っていたようなものだった。その箱の底がどんな世界につながっているか、考えもしなかった。しかし箱の底には料理の材料となる肉や野菜を獲ったり育てる人々が、ドレスの布の材料となる羊や綿を育て、布を織る人々がいた。
 その他にも、日々の暮らしに必要なこまごまとしたものも、それを作る人々がいる。それらの仕事はさらに細分化されてそれぞれに関わる人々がいて、またそれらを必要として買う人々がいて、世の中は回っている。
 一応家庭教師がそういったことを教えてはくれたものの、フィリアンの生活には関係ないため、簡単にしか触れられなかった。
 そんな本の中の文字でしか知らなかった世界が、圧倒的な広がりを持って今目の前にある。その驚きは己の無知を突きつけられるものではあったが、それ以上に見ていて楽しかった。人間の生活という生命力に満ち溢れたエネルギーは、自分がいた世界では全く感じられないものだったからだ。
 旅に出て供の者を失ってからは見よう見まねで買い物というものをかろうじてやっていたが、ちゃんと教えてもらったのはロッドに出逢ってからだった。値段の交渉などはロッド任せだが、支払いなどをするのが楽しいようだ。
 ロッドからすれば何が楽しいのかわからないが、銭というものを初めて見て触り、それを数えてわたすと欲しいものが手に入るというシステムがいいらしい。
 今も籠に山と盛られた数々の干し果物や胡桃などの木の実を前に、どれを買うか悩んでいた。旅の携行食として買うのだが、そのセレクトはフィリアンに任せてくれるそうなので、自分の好きなものを選ばせてもらっている。
 この旅で様々な干し果物や木の実の味を覚えて、すっかり気に入ってそればかり食べるため、
「おまえはリスか?」
 とロッドに笑われたこともあるくらいだ。
 山ぶどう、りんごやラズベリー、胡桃に栗に椎といった木の実に決め、それを袋に入れてもらっている間に視線を馳せると、二人の男女が買い物をしているのが目に留まった。夫婦連れらしい若い男女は、仲良く寄り添って市場を歩いている。
 遠くから来たのか二人は買ったものをそれぞれ籠に入れて背負い、街道につながる門へと向かっていく。二人は楽しげに語らっていたと思うと、ふいに人目も気にせずに唇を重ねた。
「ま…!」
 驚いたのはフィリアンである。自分は関係ないのに、顔を真っ赤にしてあたふたしている。
「どうかしたのか?」
 買ったものを詰めた袋をしまっていたロッドは慌てふためくフィリアンの視線を追ってみて、何が起こったかすぐにわかった。
「ほー、朝からお熱いこった。」
「あ、あっあの方たち、こっこのような場所であのような…は、はしたないですわ!」
 小声で「女の子になってるぞ」と言うが、その声も不思議そうに男装のフィリアンを見る周囲の目も、今のフィリアンには届かない。
 うろたえまくるフィリアンの頭にぽんと手を乗せ、
「まあそう言うな。世の中こんなもんさ。」
「そ、そうなの…ですか?」
 フィリアンは耳まで赤くしながら、ついにたまりかねたか顔を伏せてしまった。キスを目撃した程度でこの騒ぎでは、押し倒しでもしたらショック死してしまうのではないかと思う。
「そんなに照れることか?王侯貴族だってあれくらいするだろ。」
「…あ、あのようなことは、結婚の誓いを立てた時にするものと聞いておりますので…」
「…それ以外でもするよ。」
 苦笑しながら、フィリアンの背中を押して歩き出す。
「ああいうのはな、互いにしたけりゃそれでいいんだよ。結婚しようとしまいと、関係ない。」
「まあ、結婚の誓いを立てる前でも?」
「するの!あのなー、世の中お姫様の常識とは全く違うんだからな。一般庶民にゃ珍しくもねえ。」
「ロッドも?」
「俺も一般庶民の端くれだ。」
 なんならしてやろうか?という言葉を、かろうじて飲み込んだ。フィリアンはそんなロッドを、痛いほど純粋な驚きの目で見上げている。
「それにお偉いさんでも、裏じゃ同じようなことやってるぜ。」
「え!?で、ですけれど…」
「そんなことはわざわざ教えなかっただけだよ。貴族の男に遊ばれて泣きを見た女の話なんざ、掃いて捨てるほどあらぁな。」
 娘が奉公先の貴族の館で主人の目に留まり、さんざん遊ばれた末に孕んだとわかるや身一つで放り出されて、家族ともども泣き寝入りという話など、珍しくもない。
 また、男の使用人が奥方や姫と通じて、できてしまった赤ん坊を堕ろせなければ極秘に産み落とし、教会かどこかへ捨ててしまうという話もある。
 そのような薄汚れた話は、きっと誰もフィリアンの耳に入れなかったのだろう。その結果、この超純粋培養無菌娘ができあがってしまったというわけだ。
 世の中の汚らしさを一切知らずに育ったフィリアンは、どうも納得がいかないようだ。
「…けれどそのようなことをしては、せっかく婚姻で結ばれた両家の関係に悪い影響が出てしまうのではないでしょうか…」
 真剣に首を傾げるフィリアンの言葉に対して、
「好きでもねえ相手と政略結婚なんざさせられりゃ、浮気もしたくなるだろうよ。」
 何の気なしに言ってフィリアンを見たロッドは、ぎょっとした。
 大きな宝石のような瞳が、零れ落ちそうなほどに見開かれていたのだ。
 その瞬間、口を滑らせたことを後悔したが、もう遅い。
 フィリアンがそのまま流してくれることを祈ったが、そうはいかなかった。
「あの…ロッド?」
「……あ?」
 案の定、フィリアンは眉を曇らせている。
「…互いの家の発展のために婚姻関係を結ぶことは、普通のことではないのですか…?」
 ああ、やっぱり。
 フィリアンは、上流社会の政略結婚をごく当たり前のことだと信じていた。
 自分の迂闊さに天を仰ぎたくなったが、今更どうしようもない。ロッドは諦めて大きく息をひとつ吐き、
「そういうことだ。」
 頷いた。
 フィリアンは驚きを隠さないまま、
「まあ!それではどのようにお相手を決めますの?」
 本当に、まるきり思い当たらないらしい。
「…そりゃまあ…そういう決め方をして、うまくいくことだってあるけどな。互いに好き合った同士とか、そういう相手がいなけりゃ見合いするとかだな。」
 フィリアンは、思わず先程の夫婦が歩いていった方を目で追った。
「そうですか…好き合った方と…とてもすてきなことですね…」
 よくもまあそれだけ開けるものだと思うほどに目を見開いたままのフィリアンは、まさか恋愛感情まで知らなかったわけではあるまいに、何故かそのことに全く思いが及ばなかったようだ。本で読んだ恋物語も、現実にあるとは全く考えていなかったらしい。
「…知りませんでした…」
 その呟きに、フィリアンが泣いてしまったのではないかと慌てたが、むしろその表情は感情を感じさせなかった。

 町を出てからも、フィリアンはずっと何か考え込んでいるようだった。ロッドもヘタなことは言えないと、敢えてその件には触れないでいた。
 ずっと俯いていたフィリアンが、独語するように呟いた。
「…私、本当に世間知らずでしたのね。」
「ん?」
「先生からいろいろとお勉強を教えていただいたと思っておりましたが、世の中のことはこれっぽっちもわかっておりませんでした…」
 自嘲するように微笑むフィリアンの瞳は、夜の海のように暗い。
「自分の生活がいかに大勢の人々の生業に支えられてきたかということや、人として当たり前の…どなたかを好きになる感情さえも忘れてしまっていたなんて…」
「……」
 何も知らないままならば、貴族の世界に戻ってから叔父の決めた見知らぬ相手と結婚することも、何の疑問も抱かずに受け入れたであろうに。
 自分がよけいなことを言ってしまったがために、フィリアンが常識だと思っていたことが崩れ、生まれて初めて疑問を抱いて悩んでいる。
「…悪い。」
 己の迂闊さを詫びるロッドに、
「何故ロッドが謝りますの?とてもすてきなことを教えてくださいましたのに。」
 そうは言われても、政略結婚ではない道があると知れば、それに憧れないわけはない。他の道を選べないであろうフィリアンにとって、それはとても残酷だ。
 しかしフィリアンはロッドを気遣うように、
「私はこの旅に出るまで、外の世界のことを全く知りませんでした。ですから…仇討ちですし命も狙われていますけれど、世の中のいろいろなことを知ることができるのが嬉しいのです。この旅をしなければ、私は多くの人々の苦労や汗も知らずに、あの閉ざされた社会の中で傲慢に生き続けるところでした。」
 皮肉にも籠の鳥は、家族の死によって外の世界を知ることができた。そして外に出た瞬間、今まで自分が暮らしていた籠の狭さ、汚らしさに気づいてしまった。
 それでも一所懸命な笑みを浮かべる姿に、ロッドは胸を締め付けられる思いがした。もしかするとフィリアンの魂がそんな世界から抜け出したくて、女の身で仇討ちをしようと思い立ったのかもしれない。
 ロッドが目を閉じたとき、突如行く手から女の悲鳴が聞こえた。
「!」
 急いで走って行くと、三人の男が二人の人影を囲んでいた。その二人はあの若い夫婦であったが、二人とも血を流して倒れていた。
 ロッドはとっさに木の後ろに身を隠し、遅れてきたフィリアンにその場を見せないように引っ張り込んだ。
「な、何事ですの?」
「静かにしてろ。」
 三人の人影は黒い覆面をしている。そのうちの一人が舌打ちし、
「ちっ、この女は違う。若い男女連れだが、姫の肖像とは違う。」
 吐き捨てるような言葉に、フィリアンがはっと顔を上げる。
「こらっ…!」
 ロッドの手をすり抜けてその現場を見た瞬間、フィリアンが凍り付いた。
「あ…あの方たちは…」
 細い肩が震える。そのフィリアンの耳に、黒覆面の男の声が届いた。
「姫は護衛の若い男と二人連れらしい。怪しい奴らが通ったら、片っ端から殺せ。」
 その言葉に、フィリアンは弾かれたように道に飛び出した。
「何の罪もない方たちに何ということを…!!」
 黒覆面の男たちが一斉に振り向いた。
 ロッドは鋭く舌打ちし、大剣を抜き払った。
「あなたたちの捜している相手は私です!私がフィリアン・エリス・ミア・ウィステリスです!」
「なに?」
 少年に見えるフィリアンの姿に一瞬戸惑ったようだが、顔を見て確信したらしく、一斉に剣をとり、
「本物だ!」
「男の格好をしてるが、間違いない!」
「まさか自分から殺されにやってくるとはな!」
 最初に躍り掛かった黒覆面の腕が、剣を握ったまま突然宙に飛んだ。
 一瞬の間を置いてから、斬られた腕を押さえ、絶叫を上げて転げまわる。
「なに!?」
 驚く黒覆面たちの前に、大剣が冷たい光を放っていた。
「一人忘れちゃいねえか?お姫様は護衛と二人連れだって聞いたんだろ?」
 フィリアンを背後へかばうように立つロッドの鋭い眼光は、すさまじい殺気を含んでいる。自分と間違えられて人が殺されたというフィリアンの怒りと悲しみが、我がことのようにマグマとなって込み上げてくる。
 ロッドはフィリアンを後ろへ追いやると、猛然と斬り込んだ。怒れる死神に抗する術はなかった。一人が斬られ、もう一人も避ける間もなく斬り捨てられた。
 フィリアンは殺された二人のもとへよろけるように駆け寄り、がっくりと膝をついた。
 倒れた女に男が覆い被さっている。その手はお互いの手を強く握り合っているが、いずれも事切れている。
「…ごめんなさい…私のせいで…ごめんなさい…!」
 握り合った二人の手に触れたフィリアンの両目から、大粒の涙が溢れ出した。ロッドはフィリアンの肩をそっと叩き、
「一緒に眠れるようにしてやろう。」
「…はい…」
 居合わせた通行人たちと協力して二人の亡骸を町へ運んでやった。
「…私のせいで、何の関係もない方たちを死なせてしまいました…私が…私があの方たちの幸せを奪ってしまいました…!」
 震える両手に涙が落ちる。ロッドはフィリアンの肩をそっと引き寄せた。
「…私の…せい…で…」
「…お前のせいじゃない。」
 一瞬のためらいを捨て、フィリアンを強く抱きしめた。
 細い肩がびくりと震えたが、フィリアンは唇をわななかせ、堪えきれずに声をあげて泣きだした。
 逞しい胸にしがみついて泣きじゃくる華奢な体は、今にも壊れてしまいそうに思える。
 誰も守ってくれる者のいないフィリアンにこの世のあらゆる悲しみが襲い掛かるというのなら、自分が盾となろう。何があっても、自分だけはフィリアンの味方でいよう。
 涙が染みた土の上に、黄色く染まった落ち葉が舞い下りていた。



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